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昭和天皇とその時代 新版 昭和天皇
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歴史
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第一章 御幼少時代から御学問所修了まで

『昭和天皇とその時代 新版 昭和天皇』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


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1 御誕生

迪宮裕仁親王


 明治三十四年四月二十九日午後十時十分、時の皇太子(はるの)(みや)(よし)(ひと)親王(二十三歳、後の大正天皇)と皇太子妃(さだ)()(十八歳)との間に第一子が誕生した。(たう)(ぎん)明治天皇は御年五十歳、初の皇孫が待望の男子であつたことを殊の外およろこびになつた。それは皇太子がとかく病弱を憂慮せられる体質だつたので、明宮の後に同じく側室から複数の内親王が御誕生になつてはゐたが、男子は御誕生の事が無く、皇統の継嗣についての心配が宮中の空気の中に漂つてゐたからである。


 幸ひに皇太子妃節子は至つて健康であつた。数へ年で十八歳であるが、満年齢で言へば十六歳十箇月の若さである。生れた赤児は体重約三(キログラム)、身長五十一(センチメートル)と記録されてゐる。当時としては大きめの赤ちやんだつた。皇太子妃御自身の母乳による哺育経過も順調であつた。


 お七夜はめでたくも五月五日の端午の節句に当つてゐる。そこで御命名の儀が行なはれるわけであるが、複数の候補名から明治天皇直々の御意向を以てしての御選定で、御名を(ひろ)(ひと)、宮号を(みちの)(みや)と申し上げることになつた。

『明治天皇紀』によれば、御名の由来は〈裕は易経に益徳之裕也(益は徳の裕なり)、詩経に此令兄弟綽々有裕(此のよき兄弟、綽々として裕あり)、書経に好問則裕自用則小(問ふを好めば則ち裕に、自ら用ゐれば則ち小なり)、礼記に寛裕者仁之作也(寛裕は仁の()なり)とあるに取り、迪は書経に允迪厥徳謨明弼諧(まことにその徳を(おこな)へば、()明らかに(たす)(とも)にせん)、或は恵迪吉従逆凶(みち)(したが)へば吉にして、逆に従へば凶なり)とあるに取るなり〉といふことである。


 親王方の御名にせよ元号(明治以降は此がやがて先帝の()(ごう)となる慣行が定着してゐる)にせよ、典拠を漢籍の古典に採ることが皇室の伝統となつてゐる。明治天皇はこの皇長孫殿下に〈ひろく大きな心で国を治め、人類の幸福につくす様に〉との御希望をこめて、この様に御命名遊ばされたのであらう。


 かうして、我々がいま昭和天皇とお呼びするところの先帝陛下は、明治三十四年の五月には迪宮裕仁親王と呼ばれて、赤坂の東宮御所に於ける嬰児時代を開始されるわけである。

里親・川村純義伯


 但し当時の宮中には、新生児を「里子」に出して、養育を「里親」に任せるといふ慣習があつた。これは皇族や高位の公卿の場合も同様で、明治天皇も、皇太子嘉仁親王も、亦皇太子妃たる九條家の節子姫も、幼時は皆この里子としての生活を経験してゐた。節子姫の場合は市民の家庭で育てられたその環境が幸ひして、上流公卿の娘には珍しいほどの身体的健康と闊達にして大らかな気象が養はれたのだとの観測がある。


 母君の妃殿下が至つて健康で、且つ市民的感覚をも養はれたお若い方であつたから、新たに御誕生の皇孫殿下は、東宮御所で、御両親の直接の御養育によつて過されるのではないか、との観測が新聞紙上に流れたこともあつた。しかし実際には古いしきたりが勝を占めて、当初、内親王の場合は御両親直々の御養育でもよいが、親王御誕生の場合は伝統に従つて適任者に養育を委嘱すべきであるとの意見が御誕生以前から有力だつた。特に東宮輔導職の(あり)()(がはの)(みや)(たけ)(ひと)親王は、男女に拘らず、第一子の御養育は適任者に委嘱すべきであるとの意見で、天皇にその旨奏上し、天皇も御嘉納になつた。そこで迪宮の里親は御誕生前から既に定められてあつた。東京麻布の(まみ)(あな)に邸を持つ、海軍中将伯爵川村純義といふ当時六十六歳の元薩摩藩士である。立居振舞が謹厳で、且つ温良な長者の風格ある武人、と評されてゐた。


 この里親の人選には伯爵松方正義、宮内大臣田中光顯の推挙に発し、東宮大夫等宮廷周辺の人々の慎重入念な調査・(せん)(かう)を経てゐたが、具体的には皇太子嘉仁親王からの直々の申入れといふ形をとつた。川村伯爵は殊遇に感激して慎しんで拝受した。この時はまだ御誕生前で自分が御養育を引受けるのが親王か内親王かわからないわけである。


 三週間ほどして皇孫が御誕生になつて、川村伯は自分が将来天皇となられる方をお預りするのだ、と認識したので、緊張は一段と高まる。川村伯の胸裡には、国際社会の一員として列強に並び立つ日本の統治者としての御存在には、「世界的」な教養がなくてはならない、との信条が先づあつた。皇太子からは、皇孫養育に当つては自分の孫と思つて扱つてくれ、過度の遠慮は無用である、との温い信頼のお言葉を受けてゐた。川村伯はその信頼に応へようとの決意を固めた。


 旧時代の大名の若君について(はい)()が伝へてゐる様な不自然な大切扱ひを避けること、一般に祖父が孫に対して及ぼしがちな過保護・溺愛も警戒しなくてはならない。何よりも先づ身心の健康な発育が、未来の帝王にとつての肝要事である。


 幸ひ川村伯は麻布の本邸の他に、葉山と沼津に別邸を持ち、又華族仲間の別邸を使はせてもらへる便宜も有した。明治三十四年七月七日を以て、生後二箇月余の嬰児たる皇孫迪宮は東宮御所から麻布の川村邸に移り、老伯爵夫妻とその令息、令嬢の庇護下に托された。そして一箇月後の八月上旬には川村一家と共に日光の御用邸へ避暑に、十月下旬には大磯の鍋島侯爵別邸に避寒の地を求めて移り住み、何よりも先づ健康の維持を第一に、と配慮されて育つた。

伯爵の死


 明治三十五年の満一歳の誕生を過ぎて間もなく、六月二十五日には所謂年子の弟である(あつの)(みや)(やす)(ひと)親王(秩父宮)が生れた。この弟宮も十月十六日から川村夫妻に委ねられ、兄弟がそろつて川村邸で養育されることになつた。


 間もなく川村伯爵の眼には長男の宮と次男の宮との生れながらの性格の相違も映る様になつた。離乳期をすぎれば、既に川村伯がかねて胸中に抱懐してゐた将来の帝王としての徳目を身につくべき訓育を開始してよいと思はれた。その過程で、兄の迪宮の玉の様な純真、素直さ、弟淳宮のどちらかといへばやんちやな、向う気の強さが眼につく様になつた。


 川村伯の御養育努力は実に真剣な、誠心誠意のものだつたが、あひにく明治三十七年の夏、つまり日露戦争の激戦のさ中に持病の萎縮腎が悪化して病床に伏す身となり、この年には幼い両親王の箱根宮ノ下での避暑生活にも供奉することが叶はず、同行したのは川村伯の夫人、家族と侍女侍医達だけといふことになつた。川村伯は病勢が進んで、家人の留守中八月十二日に麻布の自邸で死去した。明治天皇からは、生前の戦功に加へて、両皇孫の御養育の赤誠に対しての鄭重な御沙汰を賜つた。


 川村伯は天から与へられた晩年のこの名誉ある職務に献身・没頭したが、彼個人としてはこの経験を通じて里親制度に反対の意見を抱く様になつた。(およ)そ幼児といふものは、身分の高下に拘らず、両親と兄弟姉妹、血のつながつた肉親同士の日々の接触の中で育つてゆくのが最も自然であり、精神的にもそれが健全さの基礎となるのだ、といふ意見である。


 それが主人の遺志だつたのだから、川村家では伯爵の死と共に御養育掛を辞退して、皇孫御兄弟を東宮御所にお返し申し上げたいとの意志を表明した。令息・令嬢とも、四年間起居を共にした迪宮、三年間撫育した淳宮に離れ難い愛着を覚えるのではあつたが、父に死なれてみれば、確かに自分達が御養育掛としては若すぎるとの自覚があつた。しかし宮中・宮内省といつた老大の組織の中はさう簡単に変り身がきくといふわけのものではない。


 二人の幼い親王は、明治三十八年三月十日の奉天大会戦勝利を祝つて参上した市民達の祝勝旗行列を川村一家と共に沼津の川村別邸に於いて迎接し、その一箇月後の四月十四日に漸く麻布の川村邸から赤坂の皇孫仮宮殿に移ることとなつた。


2 幼稚園的風景

足立たか


 お二人の幼い親王が里親の川村家から戻つて来た、とは言ふものの御両親なる皇太子御夫妻との親子水入らずの生活に入つたといふわけではなかつた。お住居は赤坂表町の皇孫御殿であり、東宮御所に住まはれる父君とも、母君なる皇太子妃とも離れたままである。


 東宮侍従長の木戸孝正は幼い二人の男の子には、親身の母親代りの女性が是非必要であるとの認識を持つた。そこで東京帝国大学教授菊池大麓の推薦で、東京女子師範学校附属幼稚園の教師で足立たかといふ二十二歳の女性が皇孫御養育掛として候補に上つた。


 中流家庭の幼児を扱つてきたばかりで、華族階級、()してや皇族と接触を有した経験のない足立にとつては、気乗りのしない、余りにも重すぎる役割と思はれたが、幼い親王には若い女性の養育掛が母親代りとして是非必要であるといふ木戸侍従長の認識は切迫したものであり、足立に向けての説得には熱意がこもつてゐた。足立の方でも遂に覚悟を決めた。そして初めて御殿に参上して二人の親王にお目見得したのが明治三十八年五月十八日、あの日本海海戦の勝報が日本中を沸き立たせることになる日の十日前である。


 迪宮は木戸孝正から新任の養育掛を紹介された時、

「足立たかと申すか」

と声をかけたことが記録されてゐる。数へ年五歳の幼児ではあるが、既に帝王の威厳を具へた言葉遣ひを身につけてゐた。これは里親の川村海軍中将のお仕込みが効果を現したものであつた。弟宮の淳宮は僅か一歳の違ひながらまだそこまでは行つてゐなかつた。


 だが皇孫御殿で過すことになつた最初の晩に、この幼いながら未来の天皇の威厳を既に現してゐる迪宮が、他方では母親の温い肌を慕つて、今日着任したばかりのこの養育掛に実の母に対する如くに甘えてくる一人の坊やにすぎないことを足立たかは発見した。そしてたちまちに気が楽になつた。


 足立は後大正四年、三十二歳の年に、夫人に死なれて鰥夫(やもを)ぐらしをしてゐた鈴木貫太郎海軍少将に嫁ぐことになる。鈴木はやがて海軍大将に昇進し、つとめ上げて予備役に編入された昭和四年には昭和天皇の侍従長となる。天皇は新任の侍従長の夫人が、自分の幼年時代に実の母の如く慕つた足立たかであると知つて或る感慨を懐く。昭和二十年四月から八月にかけての、あの大東亜戦争終戦工作に腐心してゐた鈴木終戦内閣の四箇月余りの日々、天皇と内閣総理大臣との間の絶妙なる連繫と呼吸の基盤にあつたのが、かうした極めて個人的な感情に影響された信頼関係であつたと見ても読みこみ過ぎではない。


 だがしかし、それはずつと後の話である。日露戦争の終末期に始まつた二人の皇孫と足立養育掛との日々は、この明治三十八年の一月三日に生れた三男坊の(てるの)(みや)(のぶ)(ひと)親王(高松宮)が翌年の十一月には仲間に加はつてくることで、やがて元来幼稚園教師である足立の本領を発揮するのに適した、ほんたうの幼稚園乃至保育園の様になつてゆく。


 生来真面目な性格であつた足立は、皇孫御殿に上ることになつた翌日の五月十九日から木戸東宮侍従長の示唆に従つて「迪宮淳宮両殿下御側日誌」と題した育児日記を離任の時まで入念に記し始める。これによつて早速に、五歳の裕仁親王が硯を用ゐて筆で絵を描くことを始められたのが、この明治三十八年五月三十一日であることが記録に残ることになつたりもした。又この年の十月十二日には、弟宮雍仁親王と同道で靖國神社にお成りになり、遊就舘の陳列品も御覧になつた。御祭神の中には廣瀨中佐もゐるのか、との時事についての知識もお示しになつたといふ。


 九月五日にポーツマスでの講和条約が締結され、日露間の大戦争はともかくも終戦に漕ぎつけることを得た。それから間もない九月二十六日に、東宮侍従丸尾錦作が専任の皇孫御養育主任として着任し、足立の責任負担はやや軽減される。更に十月の末には東京府立第一高女の教諭である清水しげ子が教育御用掛に選ばれ、皇孫御殿での養育・教育体制は充実の度を加へた。


 同じ頃、華族女学校附属の幼稚園児の中から四人ほどの華族の子弟が選ばれ、お遊び相手として御殿に伺ふといふ試みも始まつた。


 それが明治三十九年四月になると二人の親王のお遊び相手の編成は拡充され、七、八名の同年輩乃至一、二歳年長のお相手が選ばれて二組に分れ、各々ほぼ隔日に皇孫御殿に伺候することとなつた。これは丸尾御養育主任の発案で、隔離された別世界の如き環境に住んでゐる親王方に、今風に言へば幼児なりの社会性をつけさせておく必要があるとの配慮に発したものであらう。

「お相手」と呼ばれた児童達とは、前年から既に伺つてゐた千田貞淸・久松定謙・稻葉直通に加へて東宮主任侍医であつた加藤照麿の子息鋭伍の四人で、隔日に人力車で自宅に迎へが行き、御殿に連れて来られると、後は一般市民の家庭と全く同じ様に、ただ親王御兄弟のお相手として遠慮なく遊びたはむれてくればよいのだつた。何しろ男の子ばかり六人の集団であるから、玩具の取り合ひから取つ組み合ひの喧嘩に発展することもあつたが、泣き声がひびきわたるくらゐになるまでは、或る程度の放任主義がとられてゐたらしい。足立たかが夢想した様な幼稚園的状況が現実にそこに成就した。


 只、華族の子弟達とはいつても、「お相手」達の言葉遣ひには、庶民の悪童なみの粗暴な語調がみられることはあり、親王方がそれを真似た場合には、皇孫御養育主任の丸尾錦作から、厳しい注意を受けることもあつた。


 明治三十九年の十一月には前記の如く三男坊の光宮がこれに加はり、学友の人数も数人増員されて御殿はますます幼稚園らしくなつた。三人の親王にとつて幸ひだつたのは、皇孫御殿が東宮御所の一隅に設けられてあつたため、御両親の皇太子御夫妻との接触の機会がふえたことである。

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