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昭和天皇とその時代 新版 昭和天皇
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歴史
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第二章 日録・欧洲御巡遊

『昭和天皇とその時代 新版 昭和天皇』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:2時間3分
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1 発案者とその動機

「修学旅行」か


 皇太子裕仁親王殿下の欧洲御巡遊といふ壮挙は、そもそも誰の着想で、又如何なる動機に発したことだつたのだらう。それは(とう)(ぐう)()(がく)(もん)(じよ)における「帝王学」の御教育の総仕上げとなる、修学旅行の意味を有するものとして、総理大臣の原敬の胸裡に浮かび、これが山縣、西園寺、松方の三人の元老の強い支持を受けて実現に向かつたものであつたらしい。


 それに大正天皇の御病弱による頻々たる公務への御欠席は、国政上憂慮すべき事態であつた。皇太子殿下の摂政への御就任といふ措置も早晩実現させざるを得ないだらう。欧米諸国を巡遊されて内政・外交上の見聞を広め、摂政といふ大任を果される上での準備とする──、その必要は十分に考へられることであるし、さうとすれば、天皇の御病気が進行して摂政の存在が不可欠となる様な事態の到来以前にそのことが果されてゐなければならない。即ち事は急を要する。


 皇太子殿下の欧米御巡遊の旅が発案されたのは大正八年の晩秋のことであつたが、なかなか決定にいたらず、又御出遊反対の声も多かつたため、発議より一年以上を経た大正十年一月半ばになつて漸く天皇の御裁可がおりた。


 反対の意は先づ皇后から表明された。それは皇太子の御不在中に天皇にもしもの事が生じた場合、どうしたらよいのか、との御心配に発するもので、妻として母としての誰にもありがちな、尤もな御懸念であつた。


 御用掛の中核的存在である杉浦重剛も、帝王学の仕上げとしての外国事情の視察は、その必要なしとの意見だつた。頭山滿、内田良平等の民間の思想家達も御外遊に反対だつた。海外での治安状況の不安もあつたし、それに大正天皇の御病弱を考慮すれば、皇太子の遠遊は孝の道に反する、とみるのが儒教的感覚からすれば然るべき道理と思はれた。更には東宮御外遊計画の推進は、御不在中久邇宮(なが)()女王との御婚約の破棄をもくろむ山縣一派の謀略によるのだとの邪推を巷間に流す向きすらもあつた。


 後の第三章で改めて説く予定の、久邇宮良子女王との御婚約に係る障害が公的に除去されたことが発表されてから五日後の大正十年二月十五日に、宮内省は皇太子海外御巡遊の挙が正式決定したことを告示した。必要な経費は四百四十二万円と予算化されたがこれも告示発表後の一両日中に衆議院並に貴族院で満場一致で可決された。


 これに伴つて裕仁親王は東宮御学問所の全課程を修了せられ、御「卒業」の結果、長途の修学旅行の途に上らせられる、といふ形をとることになつた。さうなると、何分親王お一人のために開設された御学問所なのだから、親王がそこを離れられると共に、御学問所は閉校といふことになる。七年間心血を注いだ杉浦重剛の帝王学・倫理御進講も幕を閉ぢることになつた。五人の御学友は多く学習院高等科三年に編入されることになつた。

『昭和天皇実録』の意義


 大正十年三月三日の横浜御出航から同年九月三日の同港帰港まで、丁度六箇月に亙つた皇太子裕仁親王の欧洲御巡遊の旅については、やはり現在のところ『実録』を最上の文献とすべきであらう。随伴を仰せ付けられた(かん)(ゐんの)(みや)(こと)(ひと)親王をはじめとする供奉員の宮内省御用掛、東宮職御用掛、東宮侍従、東宮武官、式部官、外務書記官等十数人の貴顕・高官、更にその人々の随行員といつた人々の随行日誌や見聞覚書等の第一次史料、その史料に基く公式記録としての官報・省報等に基いて編纂された公定の文書であり、必要最少限度の注釈を付したのみで事の評価や意味付けを極力抑制した、至つて即物的・事実的な記録である。


 或いは、見方によれば親王及びその一行の或る日の御動静についての記述が詳細に亙るか、比較的簡略に済ませてゐるかによつて、わづかに編纂者の評価が間接的に表現されてゐるまで、といつた慎重を極めた文書であり、列記されてある諸事件の評価は繙読者の関心の在処と記述解読の深浅精粗に任されてあるとも言へる性格のものである。第二次世界大戦前に於ける我が日本と西欧列強との間の国際関係の一つの絶頂を成すといふべき輝かしい事件の忠実な記録として、この裕仁親王欧洲御巡遊部分は『実録』全体から切離して独立の一書(約三百七十頁程か)として刊行されることが望ましいのだが、果して実現に至るか否かは全く未知数である。


 本章では本書全体との均衡の許容範囲内で、とにかくその全行程の概略をお伝へしておきたい。

御出発まで


 大正十年、満十九歳でお迎へになつたこの新年には歌会始に天皇・皇后両陛下とも出御がなかつたため、皇太子が御臨席になり、御題「社頭暁」に対し、



  とりがねに夜はほのぼのとあけそめて代々木の宮のもりぞみえゆく


との御歌を出詠された。前年の未公表のままに置かれた御歌は別として、これが昭和天皇御製集の中では、歌会始に出された御製の最初の作として扱はれることになる。


 欧洲御巡遊への御出発は三月初旬と内定してゐたので、東宮御学問所の第七学年第三学期は、一月十一日始業式、二月十八日終業式といふ慌しい日程になつた。御学問所総裁東鄕平八郎からは、大正三年五月御開所以来七箇年の高等普通学科を〈優秀ノ御成績ヲ以テ御修了アラセラレ〉と認証され、〈将来愈々御自重アラセラレンコトヲ(こひねが)ヒ奉ル〉との言上を受けた。御学問所は謂はば解散、職制は廃止となり、七年間机を並べた御学友達は前記の如く旧制高等学校に相当する学習院高等科に編入された。


 終業式に三日先立つて、親王の御外遊への出発は三月三日と宮内省から告示され、供奉員の氏名も発表された。皇族から一人、当年五十六歳の元帥陸軍大将閑院宮載仁親王が随伴といふ別格で謂はば後見役を務めることを仰せ付けられ、あとは供奉員の名儀で、供奉長の宮内省御用掛(ちん)()(すて)()伯爵以下、東宮武官長奈良武次、東宮侍従長入江爲守子爵、外務書記官澤田節藏、宮内書記官二荒芳德伯爵等計十四名に、載仁親王にも当然随行の武官・事務官が付けられる。供奉員の中に東宮御学問所での親王のフランス語教師であつた山本信次郎海軍大佐が入つてゐたが、この人がやがて親王の通訳として、洋風礼儀作法の教師として御巡遊中なかなか重要な役目を果すことになる。


2 往路

出港


 御旅程は最初はアメリカ合衆国をも含めた「欧米」御巡遊であつたが、アメリカでは韓国併合に恨みを抱く朝鮮人のテロリストの暴走が懸念されるとの情報があり、訪米は取り止めとなつた。残念なことではあつたが、何しろハルビン駅頭に於ける伊藤博文の暗殺事件は明治四十二年のことで、つい十二年前であり、その忌はしい記憶は人々の脳裡から消えてゐない。原首相も御訪米中止を甚だ残念に思つたがこれは如何とも仕方がなかつた。


 御出発は三月三日と決定した。御召艦は戦艦「香取」、供奉艦は名前からしてその姉妹艦であることがすぐにわかる「鹿島」である。日露戦争直後にイギリスから買入れた艦で、艦齢はまだ若いが旧式艦であるには違ひない。当時日本海軍は主力艦として「伊勢」「日向」「山城」「扶桑」そして高速戦艦「長門」といつた三万(トン)級の大艦を就役させてゐたのだが、日露戦争当時の代表的戦艦である「三笠」とほぼ同じ規模である一万五千頓級の「香取」「鹿島」が選ばれた理由はよくわからない。或いは両艦が英国製であり、その英国が今回の御訪問先のうちで最重要の国であるといふことがその動機の一端であつたかもしれない。


 皇太子「御召艦隊」は第三艦隊としてこの行のために新たに編成されたもので、その指揮は小栗孝三郎海軍中将が執ることとなり、艦隊司令長官に任命された。艦隊の横浜出港は三月三日の正午近くであつた。裕仁親王は前月の末から御出発奉告のため伊勢神宮、神武天皇陵、明治天皇陵、昭憲皇太后陵に参拝の御旅行をされ、又宮中(かしこ)(どころ)、葉山御用邸に御両親の陛下をお訪ねになり、更には親しい皇族方とのお別れ、御学問所の総裁や学友達とのしばしの別れの挨拶といつたことで忙しく過ごされた。加へて出発前夜は二人の弟宮と深夜まで水入らずの歓談に夜を更かされたことであつた。


 だがさすがに満十九歳のお若さであり、当日は午前五時起床の強行軍に、お疲れの色もなく、八時半に東宮御所を御出発、横浜港では原首相、宮内大臣、海軍大臣等が小艇に陪乗してお見送りという晴れがましい雰囲気の中で颯爽と「香取」艦のタラップを昇られた。

「香取」は(しやう)(とう)に皇太子旗を掲げて、イギリスのポーツマス港入港まで約二箇月といふ長い航海に出発したのだが、横浜を出るや先づ三浦半島の尖端を廻つて葉山一色海岸沖に回航し、天皇・皇后両陛下のお見送りを受けた。両陛下は海岸の砂上に大日章旗を立て、その下で双眼鏡を手にして二隻の軍艦のあげる黒煙が水平線上に没するまで見送つてをられた。


 急ぐ旅ではないとはいへ、横浜からポーツマスまで二箇月余り(三月三日横浜出港、五月七日ポーツマス入港)といふのは少し悠暢にすぎる旅程の様に思はれる。因みに二十世紀後半に於いて、横浜とマルセイユの間のMM会社の客船の航海は約三十日、明治時代に於いてさへも、スエズ地峡の陸路での通過を含めて横浜・マルセイユ間が四十数日である。


 だがこれは裕仁親王の航海が、まさに途中の各寄港地毎での見学と(かう)(くわん)に重きを置いて企画されてゐたが故であらう。そして注目すべきことは、横浜を出て沖縄県の沖縄本島(なか)(ぐすく)湾に短時間投錨して以降、香港、シンガポール、コロンボ、アデン、スエズ、ポートサイド、マルタ島、ジブラルタルと寄つてゆくのだが、寄港する港のほとんどが大英帝国の植民地かその実効支配を受けてゐる土地である。


 この時は第一次世界大戦の終焉から三年ほど後のことであり、大戦によつて蒙つたイギリスの傷手の大きさが徐々に露呈してきてゐた頃ではあつた。又ヴェルサイユ会議によつて同じアングロサクソン人種の国ながらアメリカの擡頭とイギリスの衰退が(あたか)も世界の盟主の交替を思はせる様な形で対照的に浮び上りつつある時でもあつた。しかしながら、大英帝国は、第二次世界大戦の後とは違つて七つの海に散在する領土の一片たりとも戦争によつて失つてはゐなかつた。地球を半周する形で西航してゆく裕仁親王の艦隊が投錨する碇泊地は至るところにイギリスの旗が翻つてゐた。さうであればこそ、親王の旅の最重要の訪問地は即ちそのイギリスの王室なのだつた。

大至急のマナー教育


 航海の日程が急がず、余裕十分であつたといふことは、実際欧洲の地を踏みその社会に参入するまでの準備時間が長かつたといふことでもあり、このことはいくつかの点で好都合であつた。例へば次の様な話が伝へられてゐる。


 東宮御学問所での裕仁親王の履修外国語はフランス語であつた。英語は教科のうちに無かつた。フランス語の先生は大正八年の暮から以後山本信次郎海軍大佐で、御旅行への出発直前までその授業は続けられてゐた。山本大佐は語学の教師として、かつは随行の武官として親王の欧洲御巡遊に随伴することになつた。昼食の際には、海軍少佐の階級を持たれてゐる親王を交へて士官一同が士官食堂で会食をするのだが、山本大佐は会食の第一回に大へんな発見をしてしまつた。つまり海軍兵学校で一応のイギリス流教育を受けてきたはずの士官の中に、ナイフとフォークを皿にあててガチャガチャと音をさせたり、スープをズルズルと大きな音を立てて啜る奴がゐる。ここはイギリスに渡航する艦の中で、しかも皇太子殿下の御前である。作法を心得ぬにもほどがある。あの音を立ててスープを啜る奴は一たい誰だ、と、そつと見わたしてみると、何とそれが他ならぬ裕仁親王なのであつた。山本大佐も現に御学問所に奉職する御用掛の一員であつただけに、今更ながら親王の御教育のカリキュラムに重大な手落ちがあつたことに気がつき、狼狽した。


 裕仁親王は、杉浦重剛先生から洵に聖人の道と呼ぶにふさはしい深遠な君徳の倫理の講義を受けてはをられたが、他方西洋流の社交上の作法といつたものを学ぶ機会などは皆目無かつた、といふ簡単な事実である。山本大佐は一瞬は愕然としたが、思へば、イギリス王室の人々などを相手の社交生活の実地にとびこむまでにはまだ二箇月もの余裕がある。艦内で続けられてゐるフランス語の勉強の時間を、合せて西洋風のテーブルマナーの習得にあてればよいのである。そこで早速にこの試みを実行にうつすこととした。


 やつてみれば、案ずるより産むが易し、であつた。親王は要するに、侍従からテーブルマナーなどの伝授を受けてゐなかつただけのことであつた。天性粗野なところがあるなどといふわけでは毛頭ない。習はなかつたから知らない、といふだけの話である。


 裕仁親王は師に当る人の教ならば全てを実に素直に受容れる幼児の様な純粋さを天性身に具へた方であつた。山本大佐のテーブルマナー御進講は直ちに効果をあげた。食卓作法のみではない。旅の途中の寄港地等での歓迎陣に対しての挨拶、答礼のスピーチなどの場合にも、初めの頃のぎごちなさは山本大佐の助言を容れて次第にほぐれ、柔軟なものになつて行つた。そしてやがて本命とも言ふべきイギリス王室や貴族との社交の場でも立派な成功を収めるに至る。

沖縄、香港


 三月六日午前九時過、第三艦隊は沖縄本島の中城湾に入り、与那原沖に碇泊する。那覇市の在る西海岸南部とは反対側の東岸である。午後六時の出航まで半日の寄港であつたが、県知事の出迎へを受けて親王は海軍少佐の軍装で上陸され、載仁親王と共に与那原から軽便鉄道で那覇に入られ、県庁に台臨される。曾ての琉球王家・琉球藩主の後裔である侯爵(しやう)(しやう)氏は、親王の御出発前に、御召艦隊が沖縄に寄港する可能性がないわけではないとの情報を把握してをり、その時に備へて東京から事前に帰省してゐた。それ故、親王が那覇から人力車を走らせて首里の尚侯爵邸にお越し下さつたことは尚氏にとつて無上の光栄であり喜びでもあつた。同じ様な喜びは、沖縄出身の「香取」艦長漢那憲和大佐も、御召艦の艦長として故郷に寄港する機会を得た事でまさに錦を着て帰る思ひを味はつたことであらう。


 翌々日三月八日に御召艦隊は台湾南端の()(らん)()岬沖を通過して日本の領海を離れる。その奉送迎のため、高雄港から第二艦隊所属の軍艦「新高」が洋上を接近して来て登舷礼を以て御召艦隊を迎へ、「香取」「鹿島」の側も同じ礼式でそれに応へる。「新高」は日没まで「香取」の左舷後方に随伴する形で航行し、やがて再度の登舷礼を行なつて帰港してゆく。かうした艦隊行動も裕仁親王は既に観艦式や大小の演習への台臨の場数を踏んで経験してをられることから、答礼の作法なども板についたものであつたと察せられる。


 三月十日の朝七時、艦隊は香港のヴィクトリア湾内に進入し、九龍(クーロン)の砲台や在泊の英国軍艦と礼砲の交換をしつつやがて浮標に繫留する。香港総督が「香取」に来艦して親王に奉迎の挨拶を述べ、在泊の英国軍艦カーリュー号に戻ると、今度は親王が同艦に赴いて総督への答礼を果される。この往訪儀礼の交換は軍楽隊の国歌演奏と衛兵の(ささげ)(つつ)の礼を伴ふもので、裕仁親王と総督との対談の通訳は山本大佐が務めた。


 艦隊の香港碇泊は十日朝から十三日午前十時までの三日三晩に亙るもので、総督府当局との交驩は十分実が上つたと言へるが、実は内々にはなかなか微妙な事情があり、主客双方の側で相当の苦心を払つた。微妙な事情とは、上海・広東辺で策謀を企む朝鮮人の反日活動家が香港に潜入してゐるとの情報があり、又皇太子の御外遊に反対する過激派日本人の潜入も、その意志があれば容易な土地柄であつたこと、従つて裕仁親王の身辺の御警護についての不安があるものの、それを表に出しては香港総督府の治安能力に疑ひを挿むことになつて礼を失するし、又用心のあまりに皇太子の当地の御行動を抑制し過ぎては御外遊の本来の趣旨にも(もと)ることになる等々である。


 結果として、御到着当夜の香港総督の招宴には皇太子は台臨のこと無く、香港側から載仁親王に臨席を求めた形にしてもらふ。或いは翌十一日、「香取」乗組の侯爵小松輝久海軍大尉が礼装に総督府の公用車で総督官邸を訪問の後某所に向かひ、皇太子御自身は載仁親王、珍田供奉長を含む供奉員五名と共に背広服の目立たぬ軽装で総督府差廻しの二台の自動車に分乗して秘かな警護の下に某所に向かふ。そこで二組が合流し、引続いて目立たぬ形で香港南部の湾岸に碇泊中の英国軍艦カーリュー号に乗艦され、艦内にて総督一行と、同艦に搭乗してゐた第三艦隊司令長官小栗孝三郎等を含む皇太子側の賓客一同が会食する、といつた苦心の行遊となつた。皇太子の初めての外国領土御上陸は、是亦初めての外国軍艦へ御搭乗を伴ふ、少々変つた形で実現することとなつた。


 皇太子の()微行(しのび)の形をとつての香港御滞在は、最終日の香港総領事による招宴にも、警衛上の不安から珍田供奉長、小栗艦隊司令長官以下供奉員と艦隊乗組士官達のみの出席となつたこともあり、国際慣例上異例のこととしてとかくの臆測を呼んだ。ために内田康哉外相は鈴木榮作香港総領事をはじめ、御召艦隊が寄港する予定の各地領事館宛に、香港の場合は全く非公式の御訪問だつた故に変則の形をなした旨の釈明の電報を送信するといつた手数をとらざるを得なくなつた。

シンガポールからコロンボへ・公式訪問の現実化


 三月十五日に艦隊はヴェトナム(当時は安南と呼んでゐた)の沖合を通過し、この日から皇太子はじめ乗組員一同は白の夏服を着用し、艦隊員の作業日課も夏型になつた。


 十八日に両艦はシンガポールに入港する。シンガポール御訪問も香港同様非公式なので、総督と艦隊側との外交儀礼の交換は香港の時と似た形になつた。やはり警衛に慎重を期する必要上、御召艦「香取」の繫留と同艦からの上陸や御帰艦には擬装的行動をお取りになることもあつた。


 当時に於いてもシンガポール在住の郵船会社・正金銀行関係の在留邦人の数は十分に多かつた。香港の時と同様、在留日本人会の催した夜の歓迎宴には裕仁親王、載仁親王共に臨席はなされず、珍田供奉長、小栗司令長官他十数名の出席にとどめることとしたが、昼間には御召艦「香取」に同地の日本人小学校三学年以上の生徒五十数人が来艦して皇太子殿下に対し国歌「君が代」を奉唱し、又旗艦「鹿島」艦上で催した司令長官のレセプションには親王お二人も移乗して御臨席になり、同地在勤の日本人官吏・日本人会役員等約二百五十名が招待されて歓を尽した。


 シンガポールで三月二十一日の春季皇霊祭を迎へた一行は艦上で宮城遙拝の式典を行ひ、この日は総督府の配慮によるヨットでの島一周の遊覧行に費され、翌日の出航を控へての告別晩餐会は陸上ではなく「香取」艦上で、皇太子の主催により同地駐在の英国人武官・文官十四名を招待して行なはれた。


 三月二十二日、艦隊は午前九時にシンガポールを出航する。在留邦人二百余名が汽艇二十余隻に分乗して港外まで奉送の航行を続けた。以後艦隊は二十三日にかけてマラッカ海峡を北上し、二十四日インド洋に入り、セイロン島を指して西行する。


 三月二十八日朝八時を少し過ぎた頃に艦隊はセイロン島のコロンボに入港した。旗艦「鹿島」と陸上の砲台との間に礼砲の交換があり、港内の艦船は満艦飾、陸上では多数の旗竿に日章旗が掲げられて皇太子坐乗の日本艦隊に向けての歓迎の意が表明された。これは香港でもシンガポールでもなかつたことで、即ちこの入港が皇太子の同地公式訪問であることを表示する迎接であつた。これはボンベイに駐在してゐる日本総領事縫田榮四郎とセイロン総督府との間の事前交渉の結果、公式儀礼を以ての御上陸といふことに決つたものの如くである。その結論は勿論本国政府の承認を要する。英国皇帝ジョージ五世はセイロン総督府宛に特別電報を発して裕仁親王の御上陸を公式儀礼を以て歓迎すべき旨命じられた。


 総督は英国陸軍少将ウイリアム・ヘンリー・マニングといふ人であつたが、御召艦「香取」にこれも公式の儀容で来訪し、英国皇帝の親電を提示の上、裕仁親王の当地御訪問と英国側の歓迎を公式のものとすることを言上、親王はこれを御嘉納になる。そこで総督の退艦に当つても「香取」は十七発の礼砲を発して奉送した。


 総督の来艦一時間後に今度は裕仁親王が総督を御答訪になるといふ式次第である。親王が日英両国最高勲章御佩用の海軍礼装で桟橋に上陸されると、砲台は二十一発の皇礼砲を発し、儀仗隊の捧銃と軍楽隊の「君が代」奏楽の裡に総督の先導の下、閲兵と歓迎陣への答礼を賜はりつつ桟橋を進まれる。桟橋入口には日英両国旗が交叉した形で掲げられ、通路にはインド絨毯が敷きつめてあり、その両側に万国旗で飾つた熱帯植物の鉢が並べてある、といつた賑やかさであつた。桟橋から総督官邸までの街路には両側に熱帯植物のアーチが柵を成して連続し、沿道及び家屋の窓も屋上も群衆で埋め尽くされ、その人々の揚げる熱狂的な歓呼の声に驚いた御召馬車の馬が暴走を始めて警護陣を慌てさせるほどであつた。故に総督官邸での会見が済んで「香取」に御帰艦になるに際しては馬車をやめて自動車に変更するといふことにまでなつた。


 この歓迎の賑やかさは、非公式の御微行の体であつた香港・シンガポールとは打つて変つた盛大なもので、裕仁親王にとつても随行の供奉員、第三艦隊乗組員達にとつても初めての、洵に目を驚かす珍しい光景であつた。西欧、といつてもこの場合専ら英国の領土での出来事なのだが、皇族を賓客としての国際儀礼とはかうしたものであるか、或いは皇帝陛下直々の御指示を以てとなるとかうした盛況が実現するのであるか、との驚きが日本人一行の胸に刻み込まれたことであらう。


 皇太子の御微行といふ形から公式訪問に切換へられたのは、必ずしも当初の予定を踏んでの変更ではなく、現場での状況の要請に応じて、といふ面が強かつた。香港・シンガポールでは独立党朝鮮人工作員への警戒といふ要素が多分にあり、それがセイロンまで来ればずつと薄らぐ、といふ状況は慥かにあつた。然し二つの寄港地での英国官憲の警備、日本側の不安に対する配慮の手筈は十分に行届いたものであることが実証された形であり、それに対して日本側がなほ厳重な用心を言ふのは、外交儀礼上どうかと思はれる面があつた。第三の寄港地以後は英国側の要望に任せて公式訪問の形を判然と打ち出した方がよいのではないか、との判断が生じてきた。

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