読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン
0
-2
kiji
0
0
1280091
0
昭和天皇とその時代 新版 昭和天皇
2
0
0
0
0
0
0
歴史
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
第三章 摂政御就任・御成婚・践祚、そして難題の続出

『昭和天皇とその時代 新版 昭和天皇』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間6分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ

1 宮中某重大事件

相次ぐ慶事


 ここで話は欧洲御巡遊出発前の段階に戻る。大正四年の十一月十日に京都御所で挙行された父帝大正天皇の即位式及び大嘗祭には、皇太子としての正式の身分をお持ちにならぬまま参列された。明けて大正五年の正月、歌会始の御題「寄国祝」の題の下に作歌を試みられたが、此は公表に至らなかつた。四月、(とう)(ぐう)()(がく)(もん)(じよ)の第三学年に御進級になると共に、秋の立太子禮挙行の予定を目中に置いてであらうか、時間割の中の「武課及体操」と記された時限を「陸海軍講話」に充てる週が増え、軍人勅諭を声に出して朗読する練習もこの時間に為される様になつた。師団演習や鎮守府の御視察といつた「実習」も引続いて多かつた。十月には軍人としての階級も一級上つて陸海軍の大尉に昇進された。


 十一月三日に皇室典範及び(りつ)(ちよ)(りやう)の規定に基いて、満十五歳で立太子禮を受けられた。親王は衣冠束帯の装束で(かしこ)(どころ)に御参進になり、父帝から勅語と共に壺切御剣を拝賜される。儀式の終了と共に、天皇は〈朕祖宗ノ遺範ニ遵ヒ裕仁親王ノ爲ニ立太子ノ禮ヲ行ヒ茲ニ之ヲ宣布ス〉との勅語を発せられて親王の皇太子たるの御身位を国の内外に宣示されるに至つた。そして十二月には立太子禮終了御奉告のため、伊勢神宮と畝傍(神武天皇)、桃山(明治天皇、昭憲皇太后)、泉山(孝明、仁孝、光格天皇)の各山陵に五日間に亙る行啓のこともある。


 大正六年、満十六歳を迎へられる新年の元旦には歌会始の御題「遠山雪」の御題に依つて作歌を試みられ、〈赤石の山をはるかになかむればけさうつくしく雪そつもれる〉の御歌を入江爲守侍従長に示された。赤石の山が詠まれてゐることからも、御用邸のある沼津の海岸に立つての実景を詠まれたことがわかるが、歌会始に臨席されたわけではない。御学問所の第三学期は依然として沼津御用邸での避寒のままに開講されてゐる。


 大正六年四月には御学問所での御勉学が第四年度に入り、この年度からは、今まで月二回程度だつた「陸海軍講話」が「軍事学」として週に一回、正規の時間割に組み込まれることになつた。この年に次男(後の秩父宮)(やす)(ひと)親王は陸軍中央幼年学校に入学され、三男(後の高松宮)(のぶ)(ひと)親王は学習院中等科に進学された。このことを以て見ても、次代の天皇となる方の御教育に御学問所といふ全く異例の専門機関を設けて事に当らうとした明治末期の宮中と、その意を受けた人々の皇孫殿下(当時)への思ひ入れの深さが推し測れると言へよう。


 立太子禮に次ぐ慶事は大正八年五月、裕仁親王が満十八歳になられた時機を計つての御成年式だつた。これは宮中賢所で行なはれた。


 成年に達せられたといふことは、やがてお妃候補の人選も話題に上つて来ようといふめぐり合せを意味し、事実さういふことになるのだが、皇后(後の貞明皇后)は実はそれよりも早く、裕仁親王が立太子禮を済まされた大正五年秋の一年後といふ頃に、学習院女学部の授業参観の機会を通じて一人の皇族令嬢に着目してゐた。それが()(にの)(みや)(くに)(よし)王の第一王女(なが)()女王だつた。良子女王は明治三十六年三月六日のお生れであるから、皇后のお目に留つた大正六年秋には女学校の三年生で、年齢は満十四歳。裕仁親王より二歳の年下といふことになる。

お妃候補の内定


 この「縁談」は皇后が主導権を取る形で、急速に進められて行つた。皇后が良子女王を「見初めた」のが大正六年の十月で、十二月には山縣有朋、松方正義、西園寺公望といつた元老三人が会合して皇后の御内意について詮議の上、良子女王をお妃候補とする件に賛成との決議が成る。翌大正七年一月には宮内大臣波多野(よし)(なほ)から父君の久邇宮邦彥王へ、天皇の御沙汰としての直接の結婚「申し込み」が伝へられ、良子女王は二月初めにはもう学習院女学部を退学し、将来の皇太子妃そして皇后としての特別の教育を受けられることになる。


 (あたか)も東宮御学問所の特設と照応する様な形で、麴町五番町の久邇宮邸内に女王一人のための御学問所が設けられてお妃教育が開始される。詳しくは触れないが、「修身」を担当したのが、裕仁親王の「倫理」と共通の杉浦重剛だつたことだけは逸するわけにゆかない。


 こうして皇太子妃としての御修行が既に始まるのだが、お二人の婚約が「内定」した形をとるのは一年半後の大正八年六月十日のことで、この日に裕仁親王が天皇からの内旨をお受けし、十三日に久邇宮家から御当主の邦彥王が、東宮御所に参殿して婚約内定への御礼言上の運びとなる。


 当事者お二人が初めて直接に御対面の機会を有したのは、「内定」から半年後、お妃教育の開始からは二年もの時日を経た大正九年一月初めだつた由である。俄かには信じ難い様な事の運びだが、初対面の日付については『実録』の九年一月六日の項に〈皇后御同席のもと初めて良子女王に御対面〉と明記されてある。大きな車は廻るのが遅い、との()(げん)を地で行つた様な話であるが、但しこの様な事例は当時我が国の民間の習俗から言つてもそれほど珍しいわけではない。裕仁親王にしても良子女王にしても、かうしたなりゆきに不満を感じたり、恨みを述べたり、といふやうな次元からは完全に超越した空気の中で日々の高貴な義務を果してゆかれるより他なかつた。


 もちろん裕仁親王に於いて、この高貴なる義務の要請ははるかに重く厳しいものがあつた。皇太子としての国の公式行事出席といふ公務の他にも、父帝大正天皇が御病気がちだつた故に、本来なら天皇が出御さるべき行事や宴席にも、その代行として裕仁親王がお出ましにならざるを得ない、といふ事例が大正八年秋頃から多くなつてきた。


 大正八年暮の第四十二帝国議会開院式、大正九年新年の諸儀式、二月十一日の紀元節の式典、と頻々と今上天皇の出御お取り止めといふ事態が続くので、政府もこれを放置しておけなくなつた。自然、裕仁親王が摂政の任にお就きになつて然るべしとの議が持上る。


 摂政への御就任は、やがて大正十年十一月に実現するのだが、その前に親王はなほ二つの大きな事件に遭遇し、此を通過せねばならない。即ち一は史上宮中某重大事件と呼ばれてゐる、結果としての一の(から)(さわ)ぎ、他の一は前章で述べたところの半歳にわたる欧洲御巡遊といふ晴れがましい御経験である。

皇統の汚点?


 前者は裕仁親王御自身の経験であるよりはむしろ一部の皇族と少数の重臣・元老達にとつての大事件であり、「某」重大事件の呼び方が示す如く、広くその始終詳細が国民の間に話題となつたものではないし、なるべき性質のものでもなかつた。しかしとにかく以下に述べる如き形で杉浦重剛までもがこの件に介入し、心を砕いたといふ事実はあつた。


 事の発端は大正九年五月のこと、赤十字病院の院長平井政遒が学習院から生徒の身体検査を依頼され、草間といふ軍医を学習院に派遣したことにあつた。この軍医が久邇宮良子女王の兄君(あさ)(あきら)王の視力に異常を発見し、色弱なりとの診断を下した。


 父君の久邇宮邦彥王は子息の症状に(つと)に気づいてゐた。良子女王に皇太子妃の話が持上つた時にも波多野宮相にそのことを打明けてをり、決してかくしたわけではなかつた。ただ出入の医師角田某に相談したところ、良子女王には色弱の遺伝子はないとの判断を得た。その判断の根拠は、良子女王の母方の祖母島津寿滿女が色弱だつたので、そのため女王の母君にはその症状は出なかつたが寿滿女の子息たる叔父と、孫である女王の兄とにそれが出た。母親に色弱の遺伝因子があるとその産む男子の半数にはその症状が現れる可能性があるが、女子には遺伝しない。従つて良子女王の母君は色弱の因子を持つてをられたはずだが、それは良子女王には遺伝してゐない、との理論になる。そこで邦彥王は安んじて皇太子妃候補の議を受けたのである。この件は宮内大臣との間で諒解済との認識であつた。


 平井院長は草間軍医から報告を受けると、これを元老山縣有朋の許へ注進に及んだ。山縣は驚き憂慮した。皇族男子は皆一応軍籍に入る慣例になつてゐる。もし直系の皇子方、殊に皇太子たるべき方が色盲(病理にうとい老人達は色弱云々と聞いて直ちに色盲のことだと思ひこんだ)であつたとしたらどうなるか。軍人には不適格なること論を俟たない。第一その様な病気が発現すること自体、神聖なる皇統の汚点をなすものである──と、さうした強迫観念めいたものが元老達を捉へてしまつた。

薩長閥対立の様相


 宮中某重大事件が、医学上の憂慮の域を超えて「事件」と化した震源はまあ山縣だつたと見てよいのだが、松方、西園寺の両元老と総理大臣の原敬までが山縣に同調した。原首相は色弱と色盲とは違ふのであること、良子女王自身には色弱の因子はないらしいことの説明を受けてはゐたが、なにぶん結婚や医学知識に関しての時代の制約といふものがあり、やはり元老連の過剰の心配に引きずられたものの様であつた。


 その結果として総理と元老連は御婚約解消に向けて久邇宮家の説得に動き出した。世間はこの一派を皇統の血脈に寸毫の()(きん)をも許さぬといふ想念に取つかれてゐると見て「純血派」と呼んだ。


 此に対して、「綸言汗の如し」の譬を引き、皇室が一旦なした御約束を取消すことの非を極めて重大なりと考へ、婚約破棄の動きを厳しく糾弾する一派が現れた。これは「人倫派」と呼ばれた。その先頭に立つたのが、東宮御学問所の御用掛であり、今は良子女王の皇太子妃教育修身科をも担当する杉浦重剛だつた。


 杉浦はもちろん政治的には(べう)たる存在にすぎないが、彼の唱へる所は如何にも正論であると聞えたし、濱尾東宮大夫、入江侍従長が杉浦に同調し、民間人だが黒龍会頭首として言論上影響力の大きい頭山滿も人倫派に(くみ)する論陣を張つた。


 久邇宮家もこの件ではかなり積極的に動いた。山縣に反駁文を送りつけ、その写しを皇后のお手許に届けるといふ挙にも出た。良子女王の母君の実家である島津家も、元来薩摩人である松方元老に工作して彼を人倫派に寝返らせたり、元総理の山本權兵衞をも味方につけたりしたから、これも何となく山縣に代表される長州閥と薩摩との間の政争の如き様相を帯びてきた。山縣はしきりに悪漢視され、薩摩系の壮士が山縣の命をねらつてゐるといふ噂が流れたりした。原首相は心配のあまり特に山縣の身辺警護に気を配つたりもしたが、事が薩長閥対立の政争の様相を帯びてきたことは、その圏外に居る原にはさぞかし苦々しい限りであつたらう。


 この事件は結局大正十年二月十日夜、宮内大臣の中村雄次郎が、良子女王東宮妃御内定の件につき、世上に種々の噂はあれども右御決定には何ら変更なし──と公表することで漸く収拾することができた。これは翌二月十一日の紀元節を期して、人倫派が壮士と呼ばれる如き一味を使嗾して何か過激な行動に出るのではないかと危惧した原首相が、中村宮相にすすめてとらせた措置であつて、首相裁量による政治的決着であつた。

「宮中某重大事件」は対立する二つの道理の主張について、勝敗をあづかる様な形で政治的に決着がつけられた。さうなると裕仁親王と良子女王の御婚約の実現には最早何の障害もなくなつたわけなのだが、大正十年二月の段階ではお二人はまだ満年齢では十九歳と十七歳である。十分にお若い、乃至若すぎるのであつて御成婚をいそぐ必要はなかつた。その実現の前に、裕仁親王には果しておかなくてはならない重大な御公務が一つ課せられてゐた。即ち前章で概略を辿つてみた所の欧洲御巡遊である。


2 御成婚前後

摂政冊立


 親王の欧洲御巡遊は大成功裡に局を結んだ。帰朝報告のための伊勢神宮、神武天皇陵、明治天皇及びそこから三代溯る御歴代の天皇陵への参拝、相継ぐ各種の御帰国歓迎の祝宴で、旅のお疲れを休める暇もなく、又国民の間の歓迎の気分も熱狂的だつた。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:27574文字/本文:32501文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次