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昭和天皇とその時代 新版 昭和天皇
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歴史
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第四章 昭和の動乱

『昭和天皇とその時代 新版 昭和天皇』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間29分
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1 満洲事変前夜

南満洲鉄道の権益


 昭和六年に天皇は御年三十一歳になられた。その年の歌会始の御題は「社頭雪」で、題詠の御製は、



  ふる雪にこころきよめて安らけき世をこそいのれ神のひろまへ


であつた。

〈安らけき世〉を祈る、と詠はれてゐるのは、この時日本が臨戦体制に在つた故の措辞ではない。この年の九月には日本にとつて運命の転回点となつた満洲事変が勃発するのであるけれども、年頭にはまだ誰の胸にもその様な予感はなかつたはずである。


 ただ、昭和四年(一九二九年)十月二十四日「暗黒の木曜日」に於けるニューヨーク株式市場の大暴落をきつかけとして所謂「世界恐慌」が始まつてゐた。そしてその波紋は日本にも容赦なく襲ひかかつてきた。昭和四年と五年の二箇年にわたつてひどい不況と貧困が支配し、国民総生産、個人消費は先行年度に比べて二割近く落ち込み、失業者は百三十万人を超えた。大学を卒業しても就職先はなく、「大学は出たけれど」が流行語となつた。昭和五年の米作は豊作で、明るい話題の誕生と期待されたところが、これが米価の大暴落を招来して農村の窮乏に拍車をかけ、翌六年には今度は大凶作で農村の疲弊はどん底にまで落ちた。


 昭和六年年頭の歌会始御題での天皇の御製はかうした国内の経済的逼迫状況を念頭に置かれて詠じられたのだが、国内の窮乏に活路を開くべく開拓されたはずの、大陸に於ける日本の「生命線」も亦、益々頻発する排日・侮日事件によつて危殆に瀕してゐた。


 元来我が国は日露戦争の終結を議するポーツマスの講和会議に於いて、旅順・大連の両市を含む遼東半島の領有を認められ、又南満洲鉄道(旅順から長春まで)とその附属地での経済権益を獲得し、これを条約化することによつて国際法上もその正当性を承認されてゐた。しかし南満洲鉄道については、アメリカ合衆国で鉄道王と呼ばれたハリマンの日米共同経営を目指しての買収工作に表れてゐた如く、彼国から見れば、日本によるその権益の「独占」は快からぬものだつた。


 そしてポーツマス平和条約成立(明治三十八年)の四年後の明治四十二年には、米国は南満洲地方での鉄道権益への介入を工作し始め、同地の鉄道の国際管理を企図して「国際化」を提唱した。又満鉄の独占的利益を守るために、日本と清国との間には満鉄併行線敷設禁止協定が結ばれてゐたにも拘らず、清国側の満洲(東三省)支配者張作霖が協定を無視して満鉄併行線の建設を企図した際、米国は資金を提供してこの国際協定違反の挙を助長支援する態度に出た。


 張作霖は昭和三年にコミンテルンの工作員によつて暗殺されたわけだが、その跡を()いで張政権を掌握し東三省保安総司令に就任した嗣子張学良は、(あたか)も昭和六年には対日戦争の準備としての軍備充実、兵器工場の建設に乗り出した。そして米国は又してもその際の資金援助を以て間接的に日本排除の戦略を実行に移してゐた。

アジア赤化の魔手


 満洲に於ける日本人の生活を脅かしたもう一の重大な因子は明らさまなソ聯共産主義勢力の浸透である。大正六年(一九一七年)三月、続いて十一月と二度のロシア革命によつてソ聯邦が発足、翌年第一次世界大戦の休戦に成功するや、大正八年(一九一九年)のパリ講和会議の進行中に国際共産主義者同盟(コミンテルン)の所謂第三インターナショナルがモスクワで成立を見る。


 以後長い年月の間、この組織が世界中の自由主義諸国にとつての悪性伝染病の如き大きな災厄の源となるのだが、極東に於いても、その禍の最初の大きな政治的症候は大正十三年(一九二四年)にはソ聯の衛星国としての「蒙古人民共和国」の誕生といふ形で発現する。いや、それより以前に日本人は大正九年(一九二〇年)のニコライエフスクに於けるソビエト・パルチザンの日本人居留民大量虐殺事件によつて、共産主義分子が如何に凶悪な存在であるかについて痛切な認識を持ちはしたのだが、そのコミンテルンの運動が満洲の地を赤化の標的にして蠢動を開始したのは外蒙古の赤化に成功して勢を得てからである。即ち昭和三年(一九二八年)にはコミンテルンは張学良政権との間の紛争をきつかけとして満洲北西部に勢力を浸透させてその支配権を握り、翌昭和四年(一九二九年)には「全満暴動委員会」を組織させて東満洲に暴力革命運動を展開し、昭和五年以降延辺中心部の町間島(現・延吉)、新義州対岸の安東(現・丹東)、及び広く吉林省、奉天省(現・遼寧省)の諸所に次々と共産軍遊撃区と呼ばれる活動拠点を設定、宣戦布告なき実質上の満洲侵略戦争を進めてゆく。


 アメリカの世界戦略が間接的に及ぼしてくる在満日本権益への圧迫と、コミンテルンの全アジア赤化工作の魔手と、この二つはやがて日本帝国の運命にとつての致命的な禍根として昭和二十年の破局を準備する勢力であつた。だが昭和四年から六年にかけて、直接的な形で大陸に於ける日本人の存在と権益とを脅かし続けたのは、中華民国の軍・官・民による排日暴力事件の頻発だつた。


 例へば国民党軍の北伐開始に伴なひ、昭和二年(一九二七年)三月に北伐軍の南京占領時、暴徒化した民衆が外国領事館を襲つて多数の死傷者を出した南京事件、翌昭和三年(一九二八年)五月山東半島で北伐軍と日本軍が衝突した済南事件を先駆とし、この頃から在大陸、殊に在満洲の日本人(日本国民であつたところの朝鮮人を含めて)に対する暴力事件は恰も官許を得た如くに、いやむしろ国民政府の使嗾、煽動があつた故にこそ、急速に件数を増して行つた。


 その国民党の背後に、乃至群中に混入した形で又しても共産党の計画的策謀があつた。共産党にしてみれば排日暴力行為に辟易して日本人が大陸から逃避してゆくとすればもちろん本来の策動目標にかなつたことであり、その暴力行為によつて国民政府の国際的評価が下落するとすればそれも亦結構なのである。事実、被害者である日本人居留民から見れば、暴力的排日行為の直接の下手人共は、軍にせよ民衆にせよ、とにかく国民党の統治能力欠如、むしろ統治意志の欠如の結果として暴走してゐるものと映ずる。

「革命外交」の衝撃


 中でも南京国民政府の外交部長(外務大臣に当る)(わう)(せい)(てい)が昭和三年七月、北伐の成功・終了を機に唱道した「革命外交」の立論は、現実の行動面に於いてのみならず、心理的にも我が国に大きな衝撃を与へることになつた。革命外交とは、辛亥革命によつて支那大陸に於ける政権担当者が清国政府から中華民国政府に交替したことにより、清国が外国相手に締結した条約の遵守・履行に関して革命後の中華民国政府には責任がない、とする論理である。この思想を実践にうつすとすれば、中華民国側は日清間に締結された条約・協定・諒解事項につき、彼等がそれを不平等条約であると観じて不満を抱く時は、一方的な通告を以てこれを廃棄し、効力を停止できることになる。


 締結当時の我が方の外交的立場が弱体だつたばかりに、我にとつて不利な約定が固定されてしまつてゐる所謂「不平等条約」の痛みは、日本人が安政開国当時に西洋諸国と結んだ通商航海条約に即して、体験的によく知つてゐることである。しかし日本人はその条約の不平等性を克服するために、半世紀にわたる協調的外交を基本線とする努力を続けてきた。相手に要求するところがありとすれば、当方も亦相手の要求を謙虚に受容れ、なるべく相手と同じ観点、共通の利害関係を身につけることによつて、常に穏便な外交交渉による相互納得づくの条約改正を実現してきた。その様にして、遺憾にも欧米列強が専ら欧米本位の利害に基いて覇権を行使する現代国際社会に於いて、日本はともかくも欧米列強に比肩し、彼等と対等の口をききうるだけの国際的地位を()()として築いてきた。


 自分にとつて不満であるといふだけの動機から、ただ一片の通告によつて不平等条約の改廃・解消が可能であるとすれば、半世紀にわたる国をあげての苦渋に満ちた我が近代化(即ち西洋化)運動とは一体何だつたのか、とも言ひたくなる。


 だが昭和三年(一九二八年)の北伐完成以降中華民国政府の宣言した革命外交はまさにそれであつた。理を尽しての、納得づくの交渉の成果としてではなく、不満に発する一方的な否認の結果として、日清通商航海条約は無効とされ、又関税協定をはじめとする各種の協定・慣行は無視されてゆく。そこには国際信義を真向から蹂躙してしまふ反文明の思想の跳梁がある。これが政府の公然たる外交姿勢であるとすれば、それは民衆一般の情動にも道徳的な影響なしではゐられないので、そこに即ち排日思想が侮日感情に又反日暴動に展開してゆく契機が存する。

排日・侮日の攻勢


 折から、この排日・侮日の攻勢を受けて立つたのは、田中義一首相兼外相の対支積極外交の後を継いでの、昭和四年七月成立の濱口雄幸内閣の外務大臣幣原喜重郎だつた。即ち史上甚だ評判のよい、大正末期の加藤高明内閣、第一次若槻禮次郎内閣の外相として見せた理想主義的な外交原則を掲げて再登場した幣原協調外交の出番になつてゐた。


 しかしながら幣原男爵の「誠意」は所詮日本国内でのみ通用する道義感覚に発するものだつた。支那側には「交譲」の精神は無かつた。相手が譲歩の姿勢を見せればその分だけ直ちに一歩踏みこんでくる、ひたすら力の論理を信奉するのみの集団だつた。さうした相手の正体を、幾度経験を積んでも遂に理解しないで煮湯を飲まされ続けた幣原が、牢固たる信念の人だつたのか、それとも頑迷な自負心の持主といふべき型だつたのか、歴史的評価は分れたままであるが、敢へて付言するならば本書の著者は、この危機の時代の日支外交を収拾不能なまでに破綻させた最大の責任は幣原の認識不足もしくは在満同胞への意図的な冷淡さにあると見てゐる。


 満洲東南部に於ける排日直接行動分子は要するに幣原の軟弱姿勢につけこんだ。昭和五年五月三十日の間島暴動は起るべくして起つた。この年の後半には「共匪」と通称される共産主義暴徒による日本人(朝鮮人を含む)襲撃事件は八十一件、死者四十四名、負傷者、焼失家屋は無数と記録されてゐる。現地の日本人居留民の間には、自分達の生命・財産・自由を保護してくれる気概を持たぬと見える幣原外交に対する憤懣と怒りの声が高まつて行つた。


 五月と十月の二回に亙る間島暴動のみではない。吉林、奉天の両省、安東県の各地に於ける、日本人の蒙つた諸種の権益の被害は、鉄道輸送妨害による大規模な被害を含めて昭和五年度だけで千四百件を超えた。そして政府の保護を期待できない日本人居留民は次第に現地から退去する傾向にあつた。これを支那側から言へば、直接行動による満洲からの日本人駆逐の工作は着々と成果を挙げつつあると見えた。満洲事変勃発直前には、奉天市の日本人街に於ける日本人居住家屋は、最盛時の六分の一(実数で二十三戸)にまで減少してゐた。そこで何らかの手がうたれない限り、在満洲日本権益の大部分は、国民政府の革命外交と共産主義排日分子の暴力行動によつて廃滅に帰するのではないかとの恐れを覚えるに至つてゐた。


2 事変勃発

最初の一撃


 満洲事変勃発の経緯は今ではほぼ完全に(せん)(めい)され歴史的事実として青史に定着してゐる。即ち、昭和六年(一九三一年)九月十八日午後十時半頃、奉天北方約八粁の柳条湖に於いて満鉄の線路が爆薬によつて破壊された。爆破の規模は小さかつたが、もしこれが張学良軍による日本権益への公然たる攻撃だつたとすれば、その意味は軽からぬものとの見方が当然に生ずる。


 実際にはこれは関東軍作戦主任参謀・石原莞爾中佐が入念に筋書を作り、高級参謀板垣征四郎大佐の行動力がそれに結びついて惹起した謀略工作の実践第一歩である。この爆破を張学良軍による挑発であると宣伝し、国際社会にそれを信じさせることができたとすれば、爆破に応じて行動を起し、張学良軍の本拠たる北大営に向けて攻撃を開始した関東軍の武力行使は、所謂正当防衛だつたとの認知を受けることもできよう。事実石原参謀以下の主謀者はその様な状況を狙つてゐた。


 前述の様に昭和四年から六年にかけて満洲に於ける国民政府下部組織、張学良軍、共産主義匪賊等各勢力による排日暴力工作は、早晩日支いづれかの側からする組織的武力行使を以て最終解決に持ち込むより他ない様な、一触即発の可燃ガス飽和状態に達してゐた。点火したのが日本側の関東軍であることは紛れもない事実である。


 ではこれを以て、満洲事変は日本による支那大陸への侵略戦争の第一段階であつた、との極東国際軍事裁判の判決に(くみ)することができるかどうか。


 著者はここで自らの使ふ「侵略」の概念を判然と定義した上で論述にとりかかりたい。即ちこの語を所謂キイワードとして進行した極東国際軍事裁判が、如何なる定義を下した上でこの概念を運用してゐたのかが問題群を正しく解く鍵になる。そしてその定義とは、要するに戦争開始の契機となつた「最初の一撃」を何方が撃つたのか、といふことである。俗に言ふ、初めに手を出したのは何方か、といふ問題である。


 この場合、この定義自体は明晰判明で何の疑ひもない。発砲に重点を置いて判定すれば、この戦争に於ける「侵略」者は挑発に応じて先に射撃に及んだ方であらう。だがそれではそもそもの挑発者の責任は問はれないのですむのか、といふ問題が生ずる。


 満洲事変の場合、鉄道爆破の実行も、これを敵側の挑発だと看做して、応戦し、忽ち北大営を占領したのも関東軍である。そこで侵略者の汚名は関東軍に被せられることとなり、国単位で考へれば、日本が支那大陸に対する侵略戦争を開始した、といふ解釈になる。


 関東軍が遂に武力行使にふみ切るまでの、支那側による積年の排日・反日暴力事件の一切を不問に付するとすれば、その解釈は成立つだらう。現に東京裁判の検察側がその見方を取つて日本の「侵略行為」を断罪した。しかし事此処に至るまでの支那側の排日行為の罪を問はないといふのは、歴史の判定の態度としてはどうしても無理がある。それはこれより十年後の日米交渉の決裂、大東亜戦争の開始といふ過程の中で、かのハル・ノートの挑発に眼を瞑つて日本海軍航空隊の真珠湾奇襲のみを論ずるのと同様の偏向解釈である。


 満洲事変は昭和三年七月の国民政府による北伐完成を機としての革命外交宣言の頃に胚胎し、昭和四年から五年にかけての激しい排日運動によつて徐々に日支衝突の気運が醸成され、そして六年九月に、過去三年にわたる日本排斥運動の積み上げに対する回答が出された、と見るべきものである。

関東軍蹶起の兆候


 それでは昭和六年九月十八日夜の関東軍の行動は積年受け続けた侮辱に対する突発的な感情の爆発に類するものであつたか。


 関東軍の蹶起は決して感情の激発ではなく、入念な計画に基いた謀略的行動だつたことは青史に明らかである。その兆候は夏前から萌してゐた。それは「満蒙問題」との呼び方で陸軍の前途に強い関心を抱く革新派の将校からジャーナリズム一般に至るまで、広く意識されてゐた話題だつた。その内容はもちろん排日運動激化への対処如何である。


 昭和六年の夏は表面的には平穏に見えた。天皇は七月中旬から葉山の御用邸に居を移され、海浜での動物採集や時には研究用の船隼丸で沖合に出られたりして長閑に過してをられた。


 ところが七月下旬に上海で重光葵公使が拳銃で狙撃されるといふ事件が生じ、日貨排斥運動が激しくなつて行つた。重光公使は幣原外相あてに詳しい報告書を提出してゐるが、それによると、国民党及国民政府の排日運動の方法は巧妙且つ陰険でしかも極めて周密な計画性を持つたものだつた。直接日本人の生命財産に危害を加へる行為は、国際輿論の不利を招くことを恐れて避けてゐた。その代りに公然と反日・抗日を名乗る民間団体を組織せしめ、日本商品の不買、日本人への労務提供の拒否を指令し、これに違反する民国人に対しては文明国とは到底言へない苛酷な刑罰を科した。


 中支・北支では生活不安を感ずる余りに内地に引上げる邦人が続出してゐるが、一方満洲では朝鮮人農民に対する迫害が露骨になり、身体的危害を加へるケースも頻発してゐる。七月二日長春北方約三十粁の万宝山で、用水路の建設をめぐつて朝鮮人農民と漢民族との間に紛争が生じ、支那側官憲は当然朝鮮人を敵対視して発砲に至つた。

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