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昭和天皇とその時代 新版 昭和天皇
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歴史
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第五章 大東亜戦争

『昭和天皇とその時代 新版 昭和天皇』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


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1 大凶の日独伊三国同盟

「点と線」の制圧


 昭和十三年の歌会始の御題は「神苑朝」で、御製は次の如くであつた。



  静かなる神のみそのの朝ぼらけ世のありさまもかかれとぞ思ふ



 前年の七月以来、世のありさまは静穏どころではなかつた。そこで天皇はこの様な「祈り」の歌に新しき年の静穏ならむことの御希望を托されるより他なかつた。しかし残念ながら世界は天皇の切なる祈りを裏切つて次々に不穏と争乱を惹起し、日本はその渦中に捲込まれて行つた。


 前章に記した如く、年明け早々の一月十六日に近衞首相の「国民政府を相手にせず」声明が出て、事変の収拾を企てたトラウトマン工作は()(いう)に帰した。五月、大陸では日本軍の徐州作戦が終了して徐州は占領できたが、これも亦事変の解決につながる様な成功ではなかつた。北京と南京とをつなぐ細い線上に徐州といふ一つの点が打たれた程度のことでは、広大な奥地を有する支那は痛痒を感じなかつた。七月九日にはソ満国境に近い満洲国領内の張鼓峰にソ聯軍が突如国境を犯して侵入し陣地を築き始めた。これは紛う方なき日本への挑戦であり、侵略戦争の開始だつた。


 張鼓峰事件に於いては、ソ聯軍の不法越境に対して関東軍が所謂「専守防衛」の原則を固く守り、紛争不拡大専一の方針で対処した。そのために非常に大きな人的犠牲を払ひながら何らの効果も収め得ない悲劇的な局地戦闘となつた。そしてこの専守防衛の原則に徹するといふこの時の戦争指導は天皇の御意向に出てゐた。


 ソ聯軍は戦車と航空機を投入し、猛烈な銃爆撃を加へてきたが、我が大本営は現地に近く第二飛行団の切歯扼腕があつたにも拘らず、出動を許さず、戦車も一台も動かさずに我に三倍する火砲の攻撃にじつと堪へ、只管(ひたすら)重光葵駐ソ大使によるリトヴィノフソ聯外務人民委員への停戦交渉を通じての外交的解決を待つた。停戦協定は八月十日夜に漸く成立したが、驚くべき事に交渉成立を機に日本軍が撤退するや、ソ聯軍は国境劃定交渉の進展を待つことなく満洲国内の彼等の主張する国境線に沿つて忽ちに二十粁にわたる野戦陣地を構築してしまつた。


 天皇の御判断を強く拘束してゐたのは満洲事変の発端たる柳条湖事件に於ける関東軍・朝鮮軍の独断専行だつた。蘆溝橋事件の際にもこの記憶が禍して御自分の統帥下にある軍隊を完全には信用されてゐなかつたらしい節がある。


 相手方の挑発に決して乗つてはならぬ、況んや我が方から相手を挑発する様な行為は絶対に慎しむべきである──と、かうした徹底した平和主義的・紳士的な御意志は洵に貴いことであるが、それが裏目に出ることは十分にあり得ることである。或いは前年の第二次上海事変で、事実として正しい作戦用兵であつた(兵力の増加を督促したこと)が、それが結局は事変の拡大につながつたとの御反省でもあつたのだらうか。張鼓峰事件の悲劇の原因の大半は、実はこの受身の姿勢による不拡大方針への徹底といふ点にあつた。これは現在の我が国の防衛姿勢に対しても手厳しい教訓となつてゐる経験である。


 八月上旬には張鼓峰事件は日本の隠忍によつてどうやら戦火だけは終熄したので、支那事変の和平工作を有利に進めるために、広東、武漢攻略戦が計画され、十月実施に入つた。十月末には広東、武漢とも日本軍の占領するところとなり、国民は戦勝感情に湧き、大本営も蔣介石麾下の抗日政権をほぼ無力化し得たと判断したが、蔣介石の方は、日本が制圧したのは「点と線」でしかない、これでは我々の死命を制したことにはならない、との、後年有名になる「点と線」の理論を根拠に、昂然たる抵抗の姿勢を崩さなかつた。

複雑怪奇


 昭和十四年の歌会始の御題は「朝陽映島」であり、この題の性格にもよらうが、御製はいはば憂慮の陰翳の感じられない明るいものである。



  高殿のうへよりみればうつくしく朝日にはゆる沖のはつしま



 この〈はつしま〉とは熱海市沖の初島であらう。この明るさは、或いは昭和十三年中に於ける大陸の戦況に一種の小康状態が訪れたことを反映してゐる故かもしれない。十三年の十一月、近衞文麿が第二次近衞声明と呼ばれる「東亜新秩序の建設」を謳ひあげ、又重慶を脱出した(わう)(てう)(めい)が親日政権を樹立して日本との和平工作にとりかかるといふ情報も明るい材料だつたと言へるだらう。


 だが、昭和十四年も亦禍の年になる。その要因の第一は五月半ばから九月半ばまで続いたノモンハン事件である。結果として関東軍の第二十三師団は実に八割近くが死傷して潰滅した。戦闘に参加した他の五箇師団の損害も甚大で、且つ九月初旬、世界情勢を勘案しての参謀本部の厳命により、戦死者の遺体収容も不可能のままこれを放置して戦線から撤収するといふ悲愴な経験をせねばならなかつた。


 かうした結果から見て、ノモンハンでの日ソ対決は日本軍の惨敗に終つたとの観測が強く、長きにわたつてそれが定説となつてゐた。一九九一年にソ聯が解体消滅したことにより、それまで極秘の指定を受けてゐたソ聯時代の歴史に関する情報が公開され始めた。それによつてノモンハン事件の真相も逐次明らかになり、この資料を活用しての研究も次々と出た。その結果ノモンハンでの彼我の受けた人的及物的(戦車・航空機・火砲等)損害はソ聯側の方が日本より遙かに大きく、日本は戦闘に於いては正しく勝利者だつたことが明らかになつた。心理的にも、以後の日本の対ソ恐怖よりも、スターリンを筆頭とするソ聯側の日本恐怖の方が深刻なものだつたらしいことが判つてきた。然し、日本帝国にとつてはその実質的勝利を以後の外交戦略に生かすことができなかつた点で所詮後の祭であつた。


 禍の次なるものは、アメリカが日米通商航海条約の破棄を通告してきたことで、これにより翌年一月には条約が失効することとなり、既にして経済封鎖かそれに近い圧迫の到来が予想された。又、年頭の近衞内閣総辞職の後を継いだ(ひら)(ぬま)()(いち)(らう)内閣が、八月に日独防共協定の存在にも拘らず独ソ不可侵条約を締結するといふドイツの「裏切り」に衝撃を受け、欧洲情勢は「複雑怪奇」との有名な台辞を吐いて政権を投げ出してしまつたことである。それは己の無能を恥ぢての単なる政権交替劇といつたものではなかつた。いはば日本の国政指導が、たしかに複雑である世界情勢の成行きに対して適応不全を呈してゐる凶兆であつた。


 九月一日、欧洲ではドイツ軍のポーランド侵入により第二次世界大戦が始まつた。ソ聯も之に呼応してポーランド東部に侵入、やがて国土をドイツと共に分割占領した。三日にはイギリス、フランス両国がドイツに宣戦布告した。スペイン、アメリカは中立を宣言した。余談ながら十一月ソ聯軍がフィンランドに侵入、これは所謂侵略戦争であることが明白だつたから、国際聯盟はソ聯邦を除名処分とした。

皇紀二千六百年正月


 昭和十五年は皇紀二千六百年に当つてゐた。これは日本国にとつて百年に一度のめでたい記念年である。


 だがヨーロッパでは、二十五年前の第一次世界大戦の再来を思はせる規模の戦争が始まつてゐる。それは日本には直接影響が及ぶ様な関係はない争乱なのだが、日本は日本で、支那事変といふ国難を抱へこんで二年半になるのに一向に解決の兆しが見えない。日本は国際聯盟を脱退して孤立してゐる。その心細さ故にドイツがしきりとさそひかける軍事同盟に陸軍ばかりが乗気になつてゐるのではない。輿論もその方に傾きかけてゐる。もしそれが実現すれば現にイギリスとドイツとは戦端をひらいたのだから、自然に日本はイギリスと敵対する。さうなれば同じアングロサクソン人種の国であるアメリカがどう出るかは言はずと知れたことである。


 現にアメリカは大陸に於ける日華紛争に際しては初めから全面的に中華民国を支援し、日本を排撃する姿勢をとつてゐる。日本を大陸から排除することによつて多年の国論である大陸の門戸開放・機会均等を実現するといふのが、日露戦争終結以来のアメリカの国家戦略の基本線なのだから、支那事変に於ける日本の苦境はまさに米英両国にとつて「奇貨」であり、これを自分達の望む様な方向に向けて利用せんとする魂胆は明白に見えてゐる──。


 皇紀二千六百年たる昭和十五年はかうした苦しい状況の中で明けていつた。ただし破局の予想はまだ遠くにある。支那事変の解決だけが当面専念すべき国家的課題である。


 この年の歌会始の御題は「迎年祈世」で、御製は次の如くであつた。



  西ひがしむつみかはして栄ゆかむ世をこそ祈れとしのはじめに


〈世をこそ祈れ〉は敦睦共栄の世を祈る、といふ御心の強調表現にほかならない。〈西ひがし〉はこの場合やはりヨーロッパとアジアと、であらう。御即位以来、新年の御製に詠みこまれた「世」は、昭和六年の御製の〈安らけき世〉をはじめとして、七年の〈わが世〉、八年の〈波たたぬ世〉、十三年の〈世のありさま〉、いづれも日本の国であり、つまりは国内の民生をさすと考へてよいものであつた。


 十五年に至つて、天皇の視野は国際社会としての「世」、つまり「世界」に向けて拡大してゆかざるを得ない。それは常に国際社会の動きとの連関に於いてでなければ日本一国の平和も考へることはできなくなつた、といふ歴史世界の必然の趨勢の反映ではあるが、しかしこの時にこの関聯を的確にとらへて〈祈り〉、述懐されてゐる天皇の歴史感覚の卓越は、やはり敬服をこめて、注目に値する。


 この年の一月下旬、予期されてゐた通り日米通商航海条約は廃棄され、日米間に無条約時代と呼ぶべき事態が出来した。既に支那事変の開始直後から、米英両国は陰に陽に中華民国を支援し、日本を非難し且つ戦争遂行を妨害する姿勢を取つてゐたが、条約破棄は米国の日本に対する明らさまな敵意の表明となり、その分だけ中華民国を元気づけた。又現実の面でも戦略物資の援助を通じて重慶といふ奥地に閉ぢ籠つた蔣介石政権を助けることになつた。


 支那事変はその名の通り、どこまでも局地的解決を以て収拾すべき事変であつて、宣戦布告を伴ふ戦争ではなかつた。従つて米英両国もこれを戦争と認定せず、故に中立法の適用を拒否することができた。そしてこの状況を常に中国側に有利に、日本側に不利になる様にと存分に活用した。


 この年の六月には二十六日に満洲国皇帝溥儀が皇紀二千六百年慶祝のため再度の来日を果され、天皇は東京駅にて溥儀の着京を親しくお出迎へになり、同車して宮城に迎へ入れられるといつた歓迎ぶりを示された。歌壇の大御所齋藤茂吉に次の如き謹詠がある。

六月廿六日滿洲國皇帝陛下御著


  日本國天皇陛下と滿洲國皇帝陛下とひとつ輦轂(みくるま)


  皇帝は(あめ)のさだむる衜のためわが天皇に(こと)いひたまふ


 その晩宮中での盛宴の席上、天皇より懇篤な歓迎の辞を賜り、感激した溥儀は、目下の満洲国の繁栄が全く以て現天皇の「八紘一宇」の御精神のおかげによるものといつた趣旨の慇懃を極めた答辞を述べた。七月三日には溥儀は外国の国家元首として初めて神宮に参拝されるといつた親日ぶりを見せられもした。只、この両国の親善関係には、広い意味での国際関係での善隣友好といふよりは、日満の特殊な結びつきとしての限られた意味のものでしかない、弱みが看て取れるものではあつた。溥儀の少しく過剰と映つた神宮への崇敬表明には、自国における帝権の正統性の確立に今一歩の自信を欠いてゐる彼の不安の反映であり、その補強工作でもある、といつた印象がないわけではなかつた。

「バスに乗りおくれるな」


 昭和十五年に生じた重大な政治・外交上の事件の随一は日独伊三国同盟の締結である。


 日独防共協定は日本側の積極的姿勢に基いて夙に昭和十一年十一月に調印されてをり、一年後の昭和十二年十一月にはイタリアが之に参加して三国間の協定となつてゐた。更にその翌年満洲国とハンガリーが加入し、やがてスペインも加入した。国際聯盟を脱退して国際的孤立の感を強めてゐた我が日本にとつて、この協定関係は国際的地位を強化するための布石と理解された。


 ドイツはその頃既に戦争準備にとりかかつてゐたから、昭和十三年十一月にはこの防共協定を更に強化して軍事同盟にまで格上げする提案を申し入れてきた。日本から見ても、これがソ聯の赤化攻勢に対する防壁となるものである限り、歓迎すべき同盟であつたが、ドイツの念頭にイギリス、フランスに向けての牽制も亦あるとすれば、この両国と仮想的敵対関係に入るのは全く無用のわざである。国内の思はくも純軍事的に対ソ関係を念頭に置く陸軍と、米英の極東政策に対する牽制のジェスチュアとしてこの関係を活用できると考へる外務省の見地とは一致しない。


 昭和十四年八月にドイツがソ聯との間に突如として不可侵条約を締結したことは、日本人を驚かした。数箇国との防共協定を結んでまさにその仮想敵としてゐる国との間にドイツは不可侵条約を結んだのである。日本人がドイツといふ国の不信行為に驚き且つ怒つたのは尤もであるが、単に怒るといふよりも、自国の国益を守るためには如何なる権謀術数をも辞さない、実に苛烈なる力と力との(せめ)ぎ合ひの場としてのヨーロッパの現実にこそ改めて眼を開くべきであつたらう。前述の如く、平沼内閣はこの成行の衝撃に堪へ切れずして退陣した。


 平沼が退陣した後の後継の阿部信行内閣の組閣に当り、天皇が阿部大将に対し、外交は英米との協調を基本方針とすること、外務大臣は憲法の条章に明らかなる者を以て(あて)ること等を指示されたのはいはば慣例通りであるが、陸軍大臣の選任について、畑俊六大将か梅津美治郎中将かのどちらかを選べ、それ以外の者は裁可しないと名指しで強い指示を与へられたことが注目に値する。天皇がかうした形で人事に強力な指導性を発揮されたのは、(ひとへ)に日独同盟を避けようとの御意向からである。


 天皇のイギリスに対する思ひ入れは強かつた。それは皇太子時代に彼の国に御滞在になつた当時の思ひ出に基礎づけられた心情的な性格のものでもあつたが、それ以上に、日本は英・米といふアングロサクソン二大強国と協調関係にある限り、大きな外交上の失敗はない、この両国を敵に廻したら必ずつまづく、との冷静な歴史的判断に基く御意見であつた。


 昭和十五年九月、時代の趨勢に押されて遂に日独伊三国同盟を締結せざるを得なくなつたに際しては、時の内閣総理近衞文麿に対し、天皇はかう仰せられてゐる。〈ドイツやイタリアの如き国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。本当に大丈夫なのか〉。


 天皇が〈独伊の如き国家〉と仰せられる時、基本的には、両国の如き全体主義の国家と、明治天皇の五箇条の御誓文以来〈万機公論ニ決スベシ〉の大原則を国是として歩んできた我が国とでは正に「國體」が相容れないのだ、との認識に基いて考へてをられたのであらう。更に加へて、九月七日にドイツ空軍のロンドン空襲が始まり、〈大英博物館炎上か〉(実際は無事だつたが)との記事が新聞に出た。天皇は欧洲御巡遊でフランスの戦蹟をめぐられた時、ドイツ軍がランスの大聖堂をも容赦なく砲撃の目標とした、とのフランスの将軍の嘆きを思ひ出されたのではないか。更にこの年の六月二十二日のペタン元帥を主席とするフランス政府との休戦協定締結に際し、ドイツ側が第一次大戦での敗北の〈仇討〉さながらにコンピエーニュの森を調印の場に選んだことにも天皇は判然とした不快感を表明されてゐる。ドイツとはそのやうな国なのだ、といふ認識が天皇の御心の一隅に棘の様に突き刺つてゐたのかもしれない。


 手ひどく日本を裏切つて、不信の念をうゑつけたはずのドイツが、しかしポーランド侵入、対英仏開戦以降所謂電撃作戦によつて着々と勝利を収めてゆくうちに国内の輿論の風向が変つてきた。殊に昭和十五年(一九四〇年)に入つて北欧スカンディナヴィアでノルウェー、デンマーク両国に侵入、全土を占領し、ベネルクス三国を席捲、六月にはパリに入城してペタン元帥の政府を相手に休戦協定を結ぶ、といつた経過を極東から遠望してゐると、連合国に対するドイツの最終的勝利は確実で、それは東南アジアにおけるオランダ、フランスの地位にも必ず影響すると思はれた。「バスに乗りおくれるな」といふ何とも賤しげな流行語によく表れてゐる風潮が瀰漫した。

天皇の御憂慮


 天皇はあくまでもドイツとの同盟を忌避する態度を固めてをられた。だから阿部信行内閣退陣のあと、陸軍の失政のかげりをうけてゐないことで支那事変収拾の期待を担つて登場した海軍大将米内光政の内閣に、天皇も亦深く期待された。


 米内内閣も結局陸軍を先頭とする輿論が日独同盟へと趨く勢を防ぎ止めることはできず、丁度六箇月で退陣してしまふのだが、天皇の『独白録』には〈米内はよくやつたと思ふ〉との、米内大将に対するお気持が率直に語られてゐる一節がある。この御記憶が、昭和二十年における、米内海相を擁した鈴木貫太郎内閣の終戦工作への御信頼につながる。


 米内内閣の海軍大臣は阿部内閣から留任した吉田善吾海軍大将であり、吉田は次の第二次近衞内閣にも海相として留任した。従つて吉田は、海軍の主流である親英米派が日独同盟に強く反対した理由を、米内の肚の内をも読んでよく知つてゐるはずであつた。要するに日独同盟はアメリカの参戦をさそふであらう、そして現在の日本海軍は太平洋上でアメリカ艦隊と雌雄を決する様には作られてゐない、といふ意見である。


 しかし第二次近衞内閣の外相松岡洋右は、日本とドイツが軍事同盟を結んだからといつて、それがアメリカを刺激するわけではない、むしろ対日戦指向を抑へる重石になる、と説いた。若年時にアメリカで長く苦学生活を送つてアメリカ人の考へ方を知り抜いてゐると自負する松岡の説には天皇すら反駁できなかつた。しかし松岡の知るアメリカはまさに苦学生の眼で見たアメリカの小世界である。彼はアメリカ合衆国の大世界の人々の物の見方を肌で知る様な境遇には居なかつた。そこで次に引く様な天皇の御回想がある。実に微妙な表現だが、吉田のみならず御自分も亦〈だまされた〉といふに近い御感想を持たれたのだと察せられる。



 吉田善吾〔海相〕が松岡〔洋右・外相〕の日独同盟論に賛成したのはだまされたと云つては語弊があるが、まあだまされたのである。日独同盟を結んでも米国は立たぬと云ふのが松岡の肚である。松岡は米国には国民の半数に及ぶ独乙種がゐるから之が時に応じて起つと信じて居た、吉田は之を真に受けたのだ。

(中略)


 吉田は海軍を代表して同盟論に賛成したのだが、内閣が発足すると間もなく、米国は軍備に着手し出した、之は内閣の予想に反した事で吉田は驚いた、そして心配の余り強度の神経衰弱にかゝり、自殺を企てたが止められて果さず後辞職した。



 今更如何様に論評しようとも所詮意味のない過去のことなのだが、ドイツの如き不徳の国とこの様な緊密な関係を結んではならなかつたのだ、との昭和天皇の御憂慮は実に正しかつた。この〈ドイツの如き〉といふのはドイツが要するにファシスト政権の独裁政治下にある国であるといふのみならず、前記の如く国際法と相手国の文化価値を蹂躙して憚らない無法国家であるとの含みを()つ。


 又、図式的思考に囚はれやすい左翼の歴史家達はよく日本のファシズムを言ふが、戦時中の日本の統治形態は決してファシズムと呼ぶべき様なものではなかつた。言論・報道の自由に或る程度の制約を設けたり、行政権力に一極集中の傾向が生じたり、といふことはあつたが、それは如何なる自由・民主主義国家であつても起り得る戦時体制といふものであつて、一時的現象である。国を挙げて全体主義に帰したわけではない。全体主義を実現し得る様な強力な政府は遂に我が国には出現しなかつた。


 ところが、日本がドイツ、イタリアといつた紛ひもなきファシズムの国家と軍事同盟を結んだばかりに、日本はその國體までが、両全体主義国と親和性を有し、共通の性格と志向を帯びた国であるかの如き誤解を、自由民主主義を自負する米英両国に喚び起した。実際には英米両国が、これこそ紛れもなき全体主義国であるソ聯及び蔣介石政権下の中華民国と「連合国」を形成したのだから、独・伊といふ同盟国の体質を以て日本の國體を占ふなどといふ不整合は誤認もいいところなのだが、とにかく現実にさういふことになつた。

戦略的外交的失敗


 一九四三年十一月に公けにされたアメリカ合衆国国務省編纂の『平和と戦争・米国外交政策──一九三一〜四一年』といふ国策宣伝文書は、第二次世界大戦の構造を、日独伊三国から成る全体主義国家の枢軸陣営が企てた世界制覇の野望実現の動きに対し、自由主義民主主義を国是とする「連合国」がこの挑戦を受けて起つて専ら防衛的対処に終始したのだ、と定義してゐる。

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