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戦略で読み解く日本合戦史
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歴史
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第八章 「三増峠合戦」と「川中島合戦」──『孫子』対『孫子』

『戦略で読み解く日本合戦史』
[著]海上知明 [発行]PHP研究所


読了目安時間:20分
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●武田信玄の南進策


 優れた名将が愚将や大軍を破ったという例はいくらでもある。そして勝者には戦略があったとして、有名な戦略論の言葉が当てはめられていたりする。では優れた名将同士が戦略通りの戦い方を繰り広げたらどうなるか。武田信玄と北条氏康の「三増峠合戦」は『孫子』の達人同士の戦いの好例である。「三増峠合戦」が『孫子』同士の合戦なら、『孫子』と『呉子』の合戦が見られたのが「川中島合戦」であるといえる。このようにわずかながらも戦略論の競い合いのようなことは存在している。

「川中島合戦」は川中島を将棋盤に見立てて謙信と信玄が対局するような高度な知略戦であった。


 三増峠合戦は長大な作戦線での機動戦の終着であった。

「三増峠合戦」を招いた遠因は、大規模なバランス・オブ・パワーの変更である。東海地方の大勢力であった今川氏は、永禄三年(一五六〇年)の「桶狭間合戦」によって一気に勢力を衰退させていった。長らく海へ出ることを願望としていた信玄にとっては千載一遇のチャンスが訪れたことになる。太平洋岸への進出を、今川義元と北条氏康によって阻まれていた信玄は、逆に両勢力と同盟を結んで北に向かっていた。信玄が川中島地方にこだわったのは、それが北陸に通じる玄関であったからである。この信玄版北進論は日本海への進出をめざすものであったが、これは上杉謙信によって前進を阻まれていた。そこに「桶狭間合戦」が起こる。東海の大勢力であった今川氏の没落は、バランス・オブ・パワーを大幅に変化させ、相対的に信玄の力を増加させ、脆弱な東海地方をにらむ形とした。


 より直接的な軍事情勢は、信玄にさらに魅力的な事態を引き起こしていた。優れた諜報機関を持っていた信玄は、「桶狭間合戦」によって総帥の今川義元が討たれ、今川軍が総崩れとなって敗走していくことを知っていたはずである。今川氏の同盟者であった氏康は、関東管領となった謙信による大規模な関東侵入を目前としている。謙信は定められた国境を侵さない限り信玄との小康を守っている。信玄は川中島をめぐって謙信と対立関係にあったから動員は誰にも疑われずに堂々と行えた。


 その気になりさえすれば、「桶狭間合戦」直後に大軍を動員し、ほとんど戦闘を交えることもなく南下し、瞬時にして武田軍はがら空きの駿河国、遠江国を併合できるばかりか、三河国、さらに今川氏が勢力圏としていた尾張国の一部までも射程に入れることが可能であった。これは太平洋への進出と領土倍増を併せて行うことである。しかし、この絶好の機会を信玄は生かさなかった。


 信玄は「計なり機熟し、しかり後動く」が、それは情勢の変化に対応してよりも、自らの計略の完了をもって動くことを常としていた。そのために行動に移ってからの迅速さに比して、通常はむしろ鈍重の観さえある。『孫子』的慎重さの表れであるが、この東海地方の進出においては、そして、その先にある上洛を考えれば、これはマイナスに働き、タイミングを逃すこととなる。信玄が今川氏の領土に食指を動かすのは、「桶狭間合戦」よりも九年の歳月を経てからであった。


 一方、氏康の目的は関東地方の覇権にあったから、今川氏の没落は、何ら魅力ある獲物を示すものではなかった。かつて今川氏と争った駿東地区でさえも、とくに奪還の意思を抱いていない。むしろ南下する謙信との戦いにおいて、背後を支える今川氏の勢力減退はマイナスでしかなかった。氏康が領国安定を願い、むき出しの領土欲を持たなかったということも、今川氏にとっては幸いした。


 氏康と信玄は、ともに慎重さと謀を重んじ、『孫子』的なるものをもった武将である。

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