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世界を変えた暦の歴史
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歴史
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第II章 スエズ運河開通計画は紀元前からあった

『世界を変えた暦の歴史』
[著]谷岡一郎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:39分
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古代バビロニアでは暦をもとに納税日が決められた

『万葉集』には、何人かの有名男性と浮名を流す(ぬか)(たの)(おおきみ)(630ごろ~690ごろ)による次のような歌がある。


(にき)()()に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ()でな(『万葉集』巻一・八)



 六六一年、百済の要請を受けて、伊予(いまの愛媛県松山市)の熟田津港に集結した船団が出発の時を待つにあたり、いい月の形を待っている歌である。


 特定の月を待つのは、外洋に出るのに適した潮を待つのと同じ意味があったからだ。このように、日本は海辺の民──漁師や交易に携わる人びと──を中心として、月の満ち欠けに敏感にならざるをえなかった。安全や労力に直結していたからである。


 月と潮の高低が関係していると気づいたのは、いつごろのどんな人びとによってかはわかっていない。ただ、遅くともいまから五千年くらい前には、海洋を中心とする文明において、月と潮の関係性は常識であったと考えられている。


 本章は月と潮汐について、暦を中心とした歴史的意義をくわしく述べるつもりであるが、順番としてまずは天文学(と数学)を大幅に進展させた国、古代バビロニア王国から話をスタートさせたいと思う。


 バビロニア第一王朝第六代の王ハンムラビ(在位BC1792~BC1750ごろ)が家臣に宛てて出した、次のような手紙の文章が残っているという。



 租税の支払い期日が翌月の25日にあたる者は「タシュリートゥ月(第7月)25日に納税するのではなく、「第2ウルール月(第6月)」の25日に納税せよ。

(小林登志子『暦の大事典』岡田芳朗・神田泰・佐藤次高・高橋正男・古川麒一郎・松井吉昭編〈朝倉書店、二〇一四年〉所収)


「第二ウルール月」というのは、上半期(春分~秋分)の最後の六月(ウルール月)をもう一回行うために挿入される閏月のことである。閏月が定期的にいつ挿入されるかという決まりは、当時はまだなかったとのことだが、通常は一年か半年の最後(キリのよいところ)に入れられたらしい。


 住民たちに税を課すには、戸籍の管理や、それを記録する文字と記録媒体(主として粘土板)、そして税額の計算式などが不可欠であり、古代バビロニアではそれらが普通に執り行われていた証拠である。




 古代バビロニアにかぎらず、税のタイミングはのちの世でも別の地域でも、暦のもつ重要なポイントになるので覚えておいてほしい。


 当時のメソポタミアでは、乾燥した暑い「夏」と、雨期を含む寒い「冬」の二つのシーズンがあっただけで、日本のような四季の分け方はなかったという。


 じつはこれらは筆者の知見ではなく、借りてきたものである。


 以下の説明においても、使用した(そのつど言及するつもりであるが、とくに専門的知見についての)種本である『暦の大事典』所収の小林氏の文章を参考とさせてもらった。この場を借りて、お礼申しあげる。

一日=二十四時間は紀元前十四世紀に設定された


 メソポタミア文明において天文学を飛躍的に発展させたのは、バビロン第一王朝(BC19世紀はじめごろ~BC16世紀はじめごろ。以下、「古代バビロニア」とする)である。


 チグリス河とユーフラテス河の流域に(知られている範囲で)最初に文明を興したのはシュメール人(1)で、遅くとも紀元前三〇〇〇年までには、メソポタミア地方で都市国家を形成していた。


 そのころは都市国家ごとに独自の太陰太陽暦を使用しており、それらの暦が統一されるのは古代バビロニア以前のイシン第一王朝(BC21世紀~BC18世紀)のことである。この統一暦は標準暦と呼ばれている(2)


 標準暦は、シュメール人によるどの都市でもそうであったように、月齢を中心とした◯月の◯日という呼び方を中心に、太陽年とのズレが十分大きくなったと考えられ、必要と思われたときに閏月を挿入した。であるから、閏月の年は十三カ月あった。およそ三年に一回の割合で閏月が挿入されるのだが、そのタイミングは、紀元前十一世紀末にいたるまでは王の胸三寸の布告により、決まったシステムは存在しなかったそうだ(3)


 エジプトのようにナイル河の氾濫が一定の時期に起こるケースでは、とくに農作業のタイミングなどもあって、季節感をより表す太陽暦のほうが便利であったことは理解できる。しかし、定期的に氾濫するわけではなく、発展した都市国家が比較的内陸部にあったメソポタミア地方にとって、月の暦のほうが人びとにわかりやすい面が多かったはずである。


 月のスタートは新月であるし、七~十日前後に細分化するのも月齢のほうがわかりやすい。いきなり太陽暦を、たとえば三百六十日などと始めても、すぐにズレはじめるのは明らかで、テクニカルな問題が多かったはずだ。


 前述の小林氏は、次のように述べる。



 人間社会で重きをなす月は年を決定する者として太陽の上に位置づけられ、神話でも月神(シュメル語でナンナ神/スエン神、アッカド語でシン神)は太陽神(シュメル語のウトゥ神、アッカド語でシャマシュ神)の父とされていた。

(前掲書) 



 こうして、まず、月の満ち欠け一二回をおおよその一年と設定したうえで、春分や夏至の観測によって、ズレが明白となった時点で適宜、閏月を加えていったものと考えられる。これはエジプトの太陽暦を除き、多くの文明で行われた暦のつくり方であり、理にかなった方法でもあった。


 エジプトでは昼を一〇に、夜を一二に分割し、加えて黄昏(たそがれ)時の時間を二単位定めていた。これが紀元前十四世紀ごろ、一日二十四時間に変化したのである。

「メソポタミアの人びとはそれを参考にした」


 と主張するのは、ウィリアム・W・ハローである。彼は、その著『起源─古代オリエント文明:西欧近代生活の背景』(岡田明子訳、青灯社、二〇一五年)のなかで、以下のように述べている。



 メソポタミアの人々は二十四時間を四つに分割した六時間一単位制を案出して採用した。



 その時間単位(「シマヌ」と呼ばれた)は季節によって長さが変化したが、それは昼(夜)の長さが変化したことによる。


 古代バビロニアの人びとは一時間という概念をさらに六〇に分割し、いまで言う一分に、そして一分はのちに六十秒に分けられるようになるが、それはもう少しあとの話である。

紀元前に日食・月食を表示する計算機があった


 バビロニア地方の天文学が、どれほど進んだものだったかを如実に示すものとして、「アンティキテラの機械」と呼ばれる遺物(世界最古の科学計算機)がある。現在判明しているアンティキテラの機械の用途は、日食と月食のタイミングを計算するためのものだという(4)


 アンティキテラの機械は、一九〇一年、ギリシアの小さな島の沖合で二千年以上前に沈んだ難破船の中から発見された。その船が航海していたのは、古代バビロニアよりかなり時代が経過した紀元前七〇~六〇年ごろだそうだ。


 逆に言えば、このころには日食と月食の予測はある程度できており、機械でそれを表示する工夫までなされていたことになる。たんなる仮想であるが、神官たちが神秘性を発揮するには、もってこいの道具であったのだろう(それについては次章で少しふれる)

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