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世界を変えた暦の歴史
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歴史
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第V章 江戸時代まで日本は暦の後進国だった

『世界を変えた暦の歴史』
[著]谷岡一郎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:36分
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江戸時代まで自然暦や大陸の先端知識に頼りつづけた日本


 本章は、わが国における暦と社会とのかかわりを説明することにしよう。


 卑弥呼も登場する邪馬台国についての記述は、日本に関する最古の文献である(1)。その文献、『魏史』のなかの「倭人伝」(2)には、「(邪馬台国は)其の俗正歳四時を知らず、但、春耕秋収を記して年紀と為すのみ」との記述があったそうだ(3)

「正歳」とは暦と時間を指し、「四時」は四季を表している。つまり、三世紀の邪馬台国にはカレンダーは存在していないという記述である。邪馬台国にかぎらず、おそらく日本じゅうが同じ状況だったことだろう。


 当時の日本では自然暦と呼ばれる、主として農作業を中心とする、一年のサイクルと月齢とを併用した暦(らしきもの)が使われていたと考えられる。


 じつをいえば、江戸時代以前の日本は、独自の暦を開発してこなかった「暦後進国」であり、数学・天文学などの学問や哲学はあまり発達してこなかった。主として中国や朝鮮半島からの暦(とその解釈)や、大陸の先端知識に頼る習慣が十七世紀まで続いたのである。


 自分で暦をつくらなかったことは、暦が社会に影響を与えなかったということを意味するわけではない。ある面で、日本人ほど暦(の暦注など)に振りまわされた国民は少ないともいえる。


 自然暦とは、生活圏にある自然のサインを中心概念とし、生活リズムを決めることを指す。たとえば、特定の花が咲いたり、果実が実ったりする植物のサイン。特定の魚が獲れたり()(じよう)したりする水のサイン。猪や馬などが発情したり、熊や兎が冬眠から覚めて活動を開始したりという動物のサイン。燕が巣をつくったり雁が渡ったりする空のサインなどがよく使われる。


 それに台風や梅雨といった自然現象が加わり、農作業を中心とする一年のサイクルが定着する。日本は山脈があり、流れの速い潮流が近くにあり、また地理的にも縦(南北)に長いため地方ごとに気候が異なる。農作業の習慣や手順も、それにつれて同じではない。


 つまり、地方地方に風土があり、その体験に従った自然暦があった。そして、それらは、地元に見られる自然のサインが中心概念だったのである。長い冬が終わり、雪解けのころになると、農家の人びとにとってのいちばんの関心事は、「種をいつまくか」ということである。


 雪が解けて山肌に見えはじめる形が、特定の動物や形に見えることがよくある。これを「(ゆき)(かた)」と呼ぶ。たとえば、(しろ)(うま)(だけ)はその岩肌の険しさから、さまざまな紋様や形が表れる。そもそも「白馬岳」という名称にしても、山肌の雪形が馬に擬された名称であるという(4)


 雪形による自然のサインがいくつかある。次の北アルプスの「種まき爺さん」のほかにも、福島県吾妻小富士の「種まきウサギ」、白馬岳の「(しろ)()き馬」などがある。




 これらは、比較的イメージしやすい雪形の例であるが、『山の紋章・雪形』(田淵行男著、学習研究社、一九八一年)に紹介されている三〇〇以上もの言い伝えのなかには、わかりにくい雪形も多いという。地元の人びとの思いが込められた、独特な感性によるイメージなのだろう。


 いずれにせよ、たとえば、種まきウサギが現れたら一週間をめどに種をまく、というように、各地で作業日が決定されてきたという。それは公的な暦が頒布されてのちも、各地域で併用されていたそうである。


 太陽が黄道のどの位置(角度)にあるかがわかっていれば、特定の年が暦上十二カ月であるか、閏月のある十三カ月であるかは気にする必要はない。


 こうして、黄道上の太陽の位置によって一年を二四の節気に分ける二十四節気の考え方は、閏月のある太陰太陽暦に「自然暦的な視野で補足する機能」をもたせるにいたった。


 ちなみに、二十四節気の考え方は、中国から日本に暦がもたらされたときに輸入されたものと考えてよい。あるいは、交易に携わる船乗りなどにより、断片的知識として、それより早く伝わったところもあるかもしれないことは認めるが、正式には頒布された暦上に記載されていたと考えるのが自然である。


 日本の二十四節気と七十二候は、のちに日本独自の暦(じよう)(きよう)(れき)がつくられたときに、日本独自のフレーバーが加えられている。


 しかし、その話をする前に、そもそも日本の暦はいつ始まったのか、そしてどう変化したのかを説明しておこう。

最初に受け入れた暦は宋から下賜された「元嘉暦」


 日本に最初に(正式に)紹介された暦は、中国・宋(南朝)で五世紀に公布された元嘉暦であろうと考えられる。前章にも登場した数学者、何承天の手による太陰太陽暦である。


 五世紀以前を考えると、百五十年以上さかのぼらなければ日本から中国への訪問団(もしくはその逆)はなく、西暦四八〇年以降は大和朝廷が五〇二年に朝貢しているが、そのあとは百年近くたたなければ交流の機会(六〇〇年と六〇七年の遣隋使)がない。


 日本で頒布された十九世紀以前の暦は、あとでくわしく解説するように、すべて太陰太陽暦である。つまり、約三年に一回の閏月が挿入される方式であるから、暦上の季節と黄道上の太陽の角度計算による季節とは、ズレが生じることもあった。


 公的な暦が頒布されたあとでもなお、自然暦が併用されていたと述べた。太陽の位置で決定される一年のサイクルと、暦上の季節とが必ずしも一致しなかったことが原因の一つである。それは農業に従事する人びとのみならず、漁業などほかの職業でも同じことがいえただろう。


 サンマの大群がやってくるのが、普通は十月の満月のころだという先祖伝来の言い伝えがあったとする。しかし、ある特定の年に、九月の次の月は閏九月が挿入される予定だと仮定してみよう。


 漁業の集団を指揮するリーダーは、閏九月の満月の日をサンマの漁の日にするか、それとも翌月の十月の満月を待つだろうか。ここでリーダーが決定の決め手とするのは、暦上の十月の満月ではなく、おそらく海で獲れるほかの収穫などによる海のサインのはずだ。


 たとえば、(まったくデタラメの仮定だが)サンマはニシンが獲れてから十~二十日後によく獲れる、というようなことが自然のサインとして存在するなら、おそらく公的な暦より、そうした経験則を重要視することになるだろう。


 いずれにしても、日本で暦を研究する人びとのあいだで、ほぼ一致する見解は、日本に最初に導入された暦は元嘉暦であり、中国側の文献に登場する倭の五王の誰かが持ち帰ったと考えるのが自然だとする考え方。しかも元嘉暦がつくられた五世紀半ばから後半の時代にしぼられる(5)

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