『「論語」の人間問答 登場人物のエピソードで読む』
[著]狩野直禎
[発行]PHP研究所
誕生より志学まで
「私は十五歳の時、学問に志し、三十歳で学問で身を立てられるようになった。四十歳で自分の向かっている人生に迷うことがなくなり、五十歳で天から自分に与えられた使命が何であるかを知り、六十歳で人の言葉を聞いても反発を感じなくなり、七十歳で自分がしたいと思う通りにしても、人間として守るべきわくを越えることがなくなった=吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲するところに従って、矩を踰えず」(為政)
孔子は七十四歳(数え年。以下同じ)で亡くなっていますから、これは孔子が最晩年に、自分の生涯を思い出しての言葉です。それぞれ志学(十五歳)・而立(三十歳)・不惑(四十歳)・知命(五十歳)・耳順(六十歳)と言って、おのおのの年齢を示す代名詞のように使われています。とくに最近では、不惑・知命といった言葉が、中年の男性のサラリーマンなどに使われることが多いように、私などは感じています。私事で恐縮ですが、私は不惑の年から早や三十年余りも過ぎてしまいました。
『論語』には孔子が自分で、自分の生涯を振り返るような言葉があまりないだけに、この言葉は貴重なものと言えましょう。
孔子の生涯には不明なところがたくさんあります。特に若いころのことはよくわかっていません。まずは孔子の生まれた年が、紀元前の五五二年と考えられますが、前五五一年という説もあります。私は前五五二年説を採りました。そして生まれたところは魯の国、すなわち現在の山東省曲阜に当ります。
当時中国は春秋時代と呼ばれ、洛陽にあった周王が支配していたとはいえ、多くの国に分立していました。国と言ってもいわば城郭を持った都市(邑と言いますが)、これが国であって、古代ギリシアの都市国家ポリスに似ていました。春秋時代の列国の中で、北の晋と南の楚、東の斉と西の秦が強国で、そのほかにも新興の国として、呉や越がありました。魯の国は斉の近くにありましたが、他の衛や鄭といった国と同じように、歴史は古いけれども力はあまり強くないという状況でした。なお王と呼ばれるのは周の君主だけで、あとの国は、公とか侯といったように、爵位で呼ばれていました。
次に孔子はどんな家に生まれたのか。これももちろん、孔子自身は何も語っていません。父親の叔梁は、魯の国の下級の武士ですが、武勇の士としてその名は当時鳴りひびいていました。母親は顔氏で、一説には徴在という名であったと言われています。さて孔子は両親の野合(正式の婚姻によらない)の子であるとも伝えられています。また野合には非常に年齢の離れたもの同士の結婚という意味もあるようです。いずれにせよ父の晩年の子であったようで、幼い時に父とは死に別れ、母の手で育てられました。
なおこれまで、孔子と言ってきましたが、これは孔先生といった意味で、本名は孔丘と言います。何でも生まれた時、頭のてっぺんがくぼんでいて周囲が高く、まるで小山のようであったので丘と名をつけられたのだそうです。中国では名前(諱と言います)のほかに字があります。他人からは字で呼ばれるのが普通です。孔子の字は仲尼です。仲尼の仲は通常兄弟の順番を示す言葉で、上から伯仲叔季と呼ばれました。今でも両親の年上の兄姉を伯父・伯母、年下の弟妹を叔父・叔母と呼ぶ慣習に残っています。尼は故郷の近くの尼丘山から採ったものです。ですから尼丘山の尼と丘を諱と字に分けたとも考えられますし、逆に孔子の諱と字を採って山の名をつけたとも考えられますし、ほんとうのところはよくわかりません。
さらに不思議なことは、孔子の母徴在が尼丘山に登って、子授けの神に禱ったところ、たちまち黒色の龍が現われ、その精に感じて妊娠したという話があることです。孔子は普通の人間の子ではない、特別な生まれ方をした子供なのだというのです。中国では王朝の開祖や、秀れた聖天子は、特別の生まれ方をしたのだという伝説がありました。むずかしい言葉で「感生帝」と言います。孔子の場合も、この感生帝伝説が、おそらく漢代には生まれたようです。
さて、孔子が「学に志す」と言った際の「学」というのは、たんに「何か勉強を続けていこう」というのではなく、彼が生涯、敬愛してやまなかった「周公」たち聖人が説いた教えを学ぶことであったのです。
周公の名は旦と言って、周の国を作った文王の子で、武王の弟に当りました。周の国の基礎を築いた人と言われています。孔子は周公の説いた道、人と人の関係(仁)、家族間の情愛(孝と悌)、社会の秩序(礼)などなど、主として人間が、一つの完成した人格を持ったものとして生きて行く上に大切なことを、重要であるとして受け止めたのです。あまり思索的な、形而上的なものは含んでいませんでした。
「私は昔、一日中食事も摂らず、一晩中寝ることもしないで、思索に耽ったが、何の益もなかった。聖人たちの著わした書を読むことによる学問に及ぶものはない」(衛霊公)
とも言っています。もっとも思索をまったく無視したわけではありません。
「学問をしても、思索しなければ則ち物事がよくわからない。思索をしても学ばなければ則ち不安定である」(為政)
とも言っています。孔子はつねにバランスをもって行動をしようとした人でもあったのです。
孔子がこうした学問の世界に身を置き、それを実際の社会に役立てていこう、実践に移そうと自覚するまでには、さらに十五年の歳月が必要で、三十歳を迎えた孔子が、この時に「而立」することに自信を持ったのです。
人間はだれでも、ある一つのことを自分の生涯のものとしていこうとするには、何かの「きっかけ」があるものです。それが人と人との触れ合いから生じる場合もあれば、書物を読んだり、あるいは何かの事件に触れて起こる場合もあるでしょう。しかし残念ながら、孔子が学問に志したきっかけが何であるかは伝えられていません。
孔子は十五歳で学に志したわけですが、それ以前、何も勉強していなかったわけではないでしょう。おそらく、当時の中国の人が家庭において教えられたのと同じように、いわゆる六芸を学ばされたに違いありません。六芸というのは礼(礼の意味は広いのですが、ここでは日常の挨拶から始まって、人間の生活のきまりとでも言ったらよいでしょう)、楽(音楽。雅楽です)、射(弓を射る)、御(馬を馭す)、書(字を書く)、数(物を数える)を指します。六芸を習う中で、周公の道に触れる機会があったのでしょう。あるいは孔子の晩年の言葉、
「自分は年を取ったものだなあ、夢に周公を見ることが長い間なくなってしまった」(述而)
を逆手に取れば、周公の夢のお告げが、きっかけだったのかもしれません。
志学から而立までの十五年間、家庭的には結婚、子供(孔鯉、字は伯魚と言います)の誕生、そして母親の死といったことがあったようです。それと学問に志しましたが、生活のためには、いろいろな仕事をしていたようです。
吾れ少きや賤なり(志学より而立まで)
孔子は『論語』の中で、「而立」以前の自分の人生については、ほとんど語るところがないのですが、子罕篇で、弟子の子貢との対話の中に、ちらとその片鱗を語った貴重なところがあります。
臥薪嘗胆の故事で有名な呉王夫差、その夫差の大宰(大臣)をしていたという人物が子貢に、
「孔先生は聖人なのでしょうかね、それにしては何と多くの才能を持っていらっしゃる」
と、いささか皮肉っぽく尋ねました。子貢がきっぱり答えます。
「もちろん、天がお許しなさった、聖にほんとうに近いお方で、その上多くの才能を持っていらっしゃるのです」
二人の会話の内容を聞いた孔子は、
「大宰殿(のこと)は私のことをよく知ってくださっていらっしゃる。私は若いころ貧乏だったので、つまらぬことに多くの才能を持っている。君子というものはいろいろ多くのことをするものだろうか、いや、いろいろ多くのことをしないものだ」
そして『論語』は、この条に続けて、弟子の牢というものが、
「先生がおっしゃられたことがある。『私は自分の才能を、十分に試してみるような地位を与えられなかった。だから、いろいろな技術を知っているのだ』」(子罕)
と言っていたという一条を置いています。「いろいろな技術」と書きましたが、原文では「芸」という一字で表現されております。