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「論語」の人間問答 登場人物のエピソードで読む
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歴史
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第二章 多士済々の弟子たちとの対話

『「論語」の人間問答 登場人物のエピソードで読む』
[著]狩野直禎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:2時間25分
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論語』には、ずいぶんとたくさんの人の名が出てきます。たった一回しか名前の出てこない人もありますし、一〇回、二〇回、いやもっと多く出てくる人もあります。しかし何と言っても『論語』登場人物の中で、一人一人の出てくる回数は別として、弟子たちの名が一番多いことはたしかです。


 いったい、孔子はその生涯にどれほどの弟子を教えたのでしょうか。その数は残念ながらはっきりとしません。普通に言われるのは、孔子の弟子は三〇〇〇人に及んだが、その中で業を受けて身六芸に通ずるものは七〇人余り(七二人、七七人と諸説があります)ということです。司馬遷は『史記』の(ちゆう)()弟子列伝に七七人の名をあげています。


 ところでこの七〇人余りの弟子の中で、よく言われるのが孔門の(じつ)(てつ)──孔子門下の一〇人の秀でた弟子ということです。孔門の十哲とは、

徳行=道徳の実行には顔淵・(びん)()(けん)(ぜん)(はく)(ぎゆう)(ちゆう)(きゆう)、言語=弁舌には(さい)()()(こう)、政事=政治には(ぜん)(ゆう)()()(子路)、文学=学問には()(ゆう)()()


 と先進篇に挙げられた一〇名を言います。四つの分野に通じた一〇人なので「()()十哲」とよくいわれます。この一〇人の中にこそ入っていませんが、著名なところで曾子とその父(そう)(せき)、子張、(ゆう)(じやく)、公西赤、(はん)()、司馬牛、(げん)(けん)()()といった人の名が浮かび上がります。


(がん)(かい)(がん)(えん)──孔子がもっとも愛した有徳の人



 孔子の弟子の中で、孔子が一番可愛がっており、ひそかに自分の学問の後継者と考えていたのが、顔回でしたので、まずこの人を取り挙げていきます。第一章7節にもちょっと書きましたように、残念ながら彼は孔子に先立ち、はっきりとはわかりませんが、前四八二年、四十一歳の若さで死にました(彼の死んだ年齢は異説もありますが、この本では前四八二年、四十一歳で死んだことで話を進めます)


 ある時、季康子が尋ねました。

お弟子さんの中で、だれが学問を好んでおられますか」

孔子「顔回というものがおり、学問を好んでいましたが、不幸にも短命で死にました。今はもうおりません」(先進)


 同じようなことを、哀公も問うています(雍也)。これは一つのことが、二つのこととして伝えられたのか、二人が別々に質問をしたのか、よくわかりませんが、哀公に対する答えの方は、顔回の人がらをもう少し(くわ)しく説明しています。

顔回という者がおりまして、学問を好んでいました。怒りにまかせて他人に八つ当りをしませんし、同じ過ちを二度することもありませんでした。今はもうおりません。それから後、学問を好んでいるものを聞いておりません」

今は学問を好んでいるものを聞いておりません」と言われては、残っている弟子たちもさぞ耳が痛かったことでしょうが、それほど孔子は顔回を高く買っていたのですし、回を失った悲しみは深かったのです。


 顔回、(あざな)は子淵。それで顔淵とも呼ばれ、『論語』には両方の呼び方で出てきます。顔という姓は魯に多かったようで、実は孔子の母親も顔氏の出身でした。ただ二人は親戚ではなかったようです。顔回の父顔路も孔子の弟子でありましたから、親子二代に及ぶというところです。親子二代というのは、もう一組、曾子父子参照1、参照2)があります。


 顔回は孔子より、三十歳の年下ですから、前五二二年の生まれということになります。彼がいつごろ、孔子のところに弟子入りしたのかはわかりませんが、もしいわゆる志学(十五歳)のころであったとするのなら、孔子が四十五歳前後のころにあたります。それは斉から魯に帰ったものの、まだ魯に出仕するには至らないまでの間ということになりましょう。


 ところで三十歳の年下と言いますと、ちょうどワンジェネレーションの差、言い換えれば親子の間の年齢の違いということになります。孔子自身は十九歳で結婚し、翌年には(こう)()(字は(はく)(ぎよ)という子供をもうけたとされていますから、鯉と回とでは十歳近い年齢の差がありますけれども、四十五歳の孔子は十五歳の青年顔回を自分の子供のように思ったとしても不思議ではありません。後にも()れますが、回とほぼ同年齢の弟子は子貢などほかにも幾人かおりますから、回だけにというより、回と同年代の弟子たちに、そうした感情を持ったであろうと言っておきましょう。しかし人にはそれぞれ性格の違いがありますから、頭がよくて、勉強好きで、しかも素直な回に、特別の親近感を抱いても、おかしくはありますまい。また偶然にも姓が自分の母親と同じだったことも、親近感を抱く一つの要素になったかもしれません。顔回は先生の教えを素直に受け入れ、学び取り、それを実行しようとする優等生タイプの人であったようです。


 顔回が孔子を尊敬していたことは、次の言葉によく表れています。

顔回は、ああとため息をついて言いました。仰げば仰ぐほどいよいよ高く、(きり)でもんで入ろうとすればするほどいよいよ堅い。前におられるかと思うと、たちまちの間に(うしろ)にまわっておられる。このように先生は、自由自在に私を見ておられる。そして先生は順序よく、たくみに私を誘導され、私の知識を書物でもって広げてくださり、それを礼でもって集約し、筋道をつけてくださる。途中で()めようとしても止められない。私はもう才能のある限りを出しつくして追いつこうとするのだが、先生はたかだかと、新しいところに立っておられる。ついてゆこうと思っても、どうやってよいのか、方法がない」(子罕)


 知識を広め、それを礼で集約するというのは、孔子が弟子たちにとった教育法だったのですが、顔回はその教えに、真っ正面からついていったのです。ですから孔子は、

話をしてやって、怠らないものは回だけであろうか」(子罕)


 と評しています。そして、

惜しいことをしたなあ〔彼の死は〕。いつも進歩して止まるのを見たことがなかったなあ」(子罕)


 とも言っているのです。


 しかし顔回は子路や子貢のように、孔子を前にしては、口数多く話をするタイプではありませんでした。それで孔子は、

回という人は、私を啓発し、私の学問の進歩するのを助けてくれるものではない、私の言うことを理解し、反論するところがない」(先進)


 と言って、彼の理解力を高く買いながらも、やや物足りなさも感じていたようです。こうした顔回に対する評価を、孔子は次のようにも言っています。

わしと回とが話をしていると、一日中、少しも私にさからったり、異説をとなえたりしないので、まるでばかみたいに見える(原文=愚なるがごとし)。しかし、私の前から退いて、独りでいる時の様子を見ると、わしが教えたことを発揮するのに十分なことをしておるのだ、回はばかではないぞ」(為政)


 と語って、顔回の日常の態度や(ふる)(まい)が、自分の教えた通りであることに感心しているのです。こうして顔回はたくまずして、自然に先生である孔子の自分への信頼度を高めていったのです。

顔回は教え始めてから三月すると、もう仁の徳に違うことがなくなった。その他の文学や政事はわずかな月日で獲得できたのだ」(雍也)


 と孔子は言っています。仁の徳に違うことがないというのは、前にあげました「怒を遷さず(八つ当りをしない)」とか、「過ちをふたたびせず」を指すのでしょう。

顔回は自分の前では無口であった」と、孔子が言っていますが、孔子から質問されれば答えましたし、顔回の方から孔子に質問をすることももちろん、やっています。


 顔回と子路とがある時、二人だけで孔子のそばにおりました。孔子が口を開きます。

どうして、お前たちはそれぞれに自分のやりたいこと(原文=志)を言わないのかね」


 こういう時に真っ先に口を開くのはきまって子路です。子路のことはあとで詳しく述べますが、顔回との比較の意味で、まず彼の答えを紹介しましょう。

願わくは、外出用の車馬・衣服・コートを友だちに貸して、これを使いふるしにしてやぶかれてしまっても惜しいとも思わぬような交友関係を持ちたいものです」


 と、自分の持ち物を犠牲にしても篤い友情をと情熱的に語りました。顔回がそのあとでゆったりと話します。

願わくは善行をしたからといって、それを自慢することなく、手間ひまのかかるつらいことを人におしつけることのないように」


 と、慎み深く、「~しないように」という打消しの言葉を使って答えています。このあたりにも顔回らしい気くばりが見られます。


 なおこの対話には続きがあって、子路が、

どうか先生のなさりたいこと(志)をお聞かせください」


 と問いかけました。孔子は、

老人(としより)からは安心して頼られ、友人からは信用され、若者からはなつかれたいな」(公冶長)


 と答えています。


 次に顔回が質問をしたことが二回、『論語』には記録されています。その一。

顔回「仁についてお尋ねします」

孔子「我が身をつつしんで、礼に復帰するのが仁なのだよ。一日でも身をつつしんで礼に復帰すれば、天下の人はみな、仁になびきよるようになるぞ。仁をなすのは自分なのだ、どうして他人にたよろうか」


 慎み深い顔回の性質をとらえての孔子の答えでした。この言葉を聞くと、顔回は、

どうかその要点をお聞かせください」


 と重ねて問いました。孔子が答えます。

礼に違うことを見てはならない、礼に違うことを聞いてはならない、礼に違うことを言ってはならない、礼に違うことに身を動かしてはならない」

顔回「私はおろかではございますが、どうかこのお言葉を実行させて頂こうと思います」(顔淵)


 こうして顔回は先生の教えをひたすらに実行し、だんだんと徳行を積んでいったのです。ある時、孔子が顔回に向かって語りかけました。

自分を用いてくれたら出て働き、捨てられたら引きこもり隠れる。こうしたことは、ただわしとお前だけにできることじゃな」


 たまたまそばにいた子路が、あまりにも先生が顔回をほめるので、少し頭にきたのでしょう。

先生が三軍を指揮される場合、だれといっしょになさいますか」


 と、口に出しました。言外に「まさか顔回とではないでしょう。この私ですね」という気分をこめているように見えます。なお三軍というと、すぐに陸海空三軍を連想される方があるかもしれませんが、もちろんそうではありません。一軍が一万二五〇〇人、三軍だとその三倍の三万七五〇〇人の軍隊となります。これは大国の軍隊を指します。ちなみに天子の軍は六軍(七万五〇〇〇人)でした。これに対する孔子の答えは、

虎に素手で立ち向かったり、黄河を歩いて渡ったりするような無鉄砲なことをし、(いのち)は大切なのに、すぐに死んでも悔やむことはないというような男とは一緒にやらない。必ずや物事に臨むと慎重で、計画をめぐらして成功するものとだな」(述而)


 でした。虎と素手で勝負し、黄河を歩いて渡る(原文=暴虎(ひよう)()無鉄砲な男とは、子路を暗に指したものでしょう。あとで詳しく述べますが、孔子と子路の関係はこのような言葉で崩れてしまうようなもろいものではなかったのです。お互いに茶化し合うような場面がよくあったのです。


 子路の横槍で、ちょっと話がこんがらがりましたが、顔回は孔子と出処進退、同じことをめざしていたのです。それですから、政治を行う場合には何が大切なのかを考えていました。実は顔回が孔子にした二つの質問のもう一つは、政治についてでした。

顔回「国を治めるにはどうしたらよろしいでしょう」

孔子「()の時代の暦を用い、殷の時代の()の車に乗り、周の時代の冠をかぶる。音楽は(しよう)の舞じゃ。鄭の音楽は追放し、口達者なものを遠ざけよ(原文=(ねい)人を遠ざく)。鄭の音楽は下品(原文=(みだら)だし、口達者な奴は危険だ(原文=(あやう)し)からな」(衛霊公)


 夏は黄河の治水の功により、帝舜から位を(ぜん)(じよう)された()が開いた王朝で、その暦は陰暦の正月を一年の始まりとしていましたので、農業にはいちばん便利でありました。ちなみに殷の暦は十二月、周は十一月が一年の始まりです。殷は夏の次の王朝で、その車は質素であり、周の冠は上に板がつき、前後に房が垂れ、儀礼用として立派でした。鄭の音楽とは孔子の時代、鄭の国で流行したもので、強いて現代にあてはめれば、いわゆるクラシックに対してポピュラーにあたるのでしょうか。孔子は(いにし)えの夏殷周三代、つまり理想的な時代の制度の中から取捨選択して、現在に合うようにして政治を行えと言ったのです。そして口達者なものを遠ざけよと教えました。口達者なものを憎んだことは『論語』の中にも何回か見えます。現在の日本においても与党・野党を問わず、党首たるものぜひこの「佞人を遠ざく」だけは実行してほしいものです。


 さて顔回は結局仕官の(みち)に恵まれぬままに、貧乏のうちに死んでいきました。

えらいなあ回は。一(わん)(めし)に、水筒一杯の水、路地の奥に住んでいる(原文=一(たん)の食、一(ぴよう)の飲、(ろう)(こう)に在り)。普通の人間ならその辛さに()えられない。回はそんな生活でも、自分の楽しみを変えようとしない。えらいなあ、回は」(雍也)

えらいなあ、回は(原文=賢なるかな回や)」という句を最初と最後において、文意を強調していることに注意してください。また、

回は、まあ完全な人格者に近いが、年中貧乏暮しをしている」(先進)


 という孔子の言葉も見えます。なおこの言葉はそれに引きかえ、「商人の子貢は投機で成功し大金持ち」という言葉と(つい)になって出てきます参照)


 実はこの子貢は顔回の一歳年下で、いわばよき競争相手でもあったのです。ある時、孔子と子貢が次のような問答をしました。

孔子「子貢よ。お前と回とはどちらが秀れているかね」

子貢「私めはどうして回の足下によりつけましょうか。とてもかないませぬ。回は一つのことを聞けば十のことがわかります。私めは一つのことを聞いてせいぜい二つのことがわかるだけです」

孔子「及ばないよなあ。わしもお前と同じで及ばないよ」(公冶長)


 子貢も十哲の中に数えられ、孔子の弟子の中で代表的な人物の一人ですが、顔回には及ばぬと自覚していたのです。孔子は半ば子貢をなぐさめるつもりで、最後の一句をつけ加えたと、昔から考えられています。


 しかし顔回は孔子より先に死んでしまいました。孔子の嘆きは深いものがあったのです。

ああ、天が予をほろぼした、天が予をほろぼした」(先進)


 と言って嘆いています。かつて匡の難に遭った時、あるいは(かん)(たい)に囲まれた時、

天がこの文化〔を身につけた自分〕をほろぼさないからには」


 と、天に絶対的な信頼を置いていた孔子は、顔回の死に遭って、あの天さえも、私をほろぼそうとするのかと言ってしまったのです。そして動転した孔子は、礼のきまりでは(こく)する(声をあげて泣く)ということになっているのに、つい(どう)する(身もだえをして泣く)にまで(いた)ってしまいました。お供の者が、驚いて、

身もだえして泣かれました」


 と言うと、孔子は、

身もだえして泣いたか。知らなかった。だがあの人のために身もだえして泣かなければ、だれのためにそうすればよいのだ」


 と答えたのです。孔子はきっとこうした中で、昔、匡で困難に出会った時参照)の顔回の言葉を思い出し、なぜお前、あの時はあんなことを言っておきながら死んでしまったのかという思いにふけったことでしょう。それは匡の難の時、どうしたことか顔回が一行から遅れてしまいました。追いついてきた顔回に、

わしはお前が死んだのかと思ったぞ」


 と言いますと、

先生がいらっしゃいます、私はどうして死ねましょうか」(先進)


 と答えたのでした。


 顔回が死んだ時、その葬式をめぐって、ごたごたが起こりました。人の死という異常な時には、その葬式をめぐって、よくあることと言えば言えるでしょう。


 一つは顔回の父、顔路からの申し出でした。顔路自身が孔子の弟子であったことは、この項の最初に紹介しましたが、『論語』の中で彼の名が見えているのは、ただの一か所、彼の自慢の息子回の死にまつわるものであったというのは、さびしいことではあります。


 路は息子が死んだ時、「(かん)を入れる(かく)を作りたいから、先生の車をください」と申し出ました。棺を入れる椁を作るというのは、葬式を鄭重なものにしたいからであって、必ずしも必要でなかったのです。しかも椁を作る費用を多分持っていなかったのでしょう。孔子の車をもらい受け、それを売ってこれにあてようとしたのです。孔子はこれをはねつけました。

才と不才の差はあっても、親というものは自分の子供のことを言いたがるものだ。わしは息子の鯉が死んだ時、棺は作ったが椁は作ってやれなかったのだ。わしが車に乗るのをやめ、歩くことにして椁を作らなかったのは、わしが大臣のお供をしていく時、歩いて行くことはできないので、車はぜひ必要だからだ」(先進)


 これが断りの言葉でした。一方弟子たちは弟子たちで、顔回を手厚く葬ってやりたいと言い出しました。孔子は、

いけない」


 と答えました。「不可」と漢字二字です。しかし門人たちは、先生の意に(そむ)いて、手厚く葬りました。これを知った孔子は言いました。

回はわしをまるで父親のように見てくれていたのだ。しかしわしは回を自分の子のように取扱ってやれなかったのだ。わしのせいではないぞ、二三のものがよけいなことをしたからだぞ」(先進)


 孔子は顔回に身分相応の、質素だが心のこもった葬式をしてやりたかったのです。そのことで自分の子を失ったのと同じ悲しみにひたりたかったのに、形だけの、派手な葬式になったことを、強く怒ったのでした。

礼はぜいたくであるよりは質素に、葬式は世間体を飾るより、(いた)み悲しむことだ」(八


 これが孔子の平素からの信念でもあり、教えでもありました。いざとなると自分の教えが守られなかったのは、孔子にとってショックだったのでしょう。


()()(ちゆう)(ゆう)・季路・季由)──“勇”を重んじた豪傑タイプの高弟



 十哲の中でまず顔回を取り上げましたが、以下はほぼ年齢順に紹介してゆきましょう。孔子との年齢差が十歳以内と考えられる人物が三人います。一人は顔路で六歳の年下、ついで九歳年下の子路ということになります。そのほか、顔路と同じように、息子の(しん)を孔子のもとに弟子入りさせた(そう)(せき)です。顔路についてはもう改めて述べることはありませんから、子路・曾晳の順で紹介しましょう。


 仲由、字は子路。またの字を季路といいます。ですから、仲由、子路、季路、そして季由として表現される場合もあります。魯の(べん)(山東省()水)の人でした。若いころはやくざであり、乱暴者でした。『史記』によりますと、(おん)(どり)の羽根で作った冠をかむり、長剣を()び、(おす)(ぶた)の皮で作った飾りを剣につけていました。孔子を軽んじ暴力をふるったこともあったようですが、孔子が礼をもって導いたので、ついに孔子の弟子になりました。いつのころかよくわかりませんが、十哲の中ではおそらく一番古い弟子だったでしょう。


 顔回のところで、孔子が子路のことを、虎と素手で闘うような蛮勇の持ち主にひそかになぞらえていたことを記しましたが、孔子は子路の名をはっきりと上げて、次のように言っています。

この世に道が行われず、いっそ(いかだ)に乗って海に浮かぼうとした時、私についてくるのは、それ由だろうか」


 と、どうかすると無分別な行動を言ったりしたりする子路をたしなめようと、わざと褒めたようにも取れるようなことを言いました。ところが、そこがいかにも子路らしいのですが、この言葉を聞いて、子路は孔子が自分のことをそんなにも買ってくださっているのかと思い、喜んだのです。

子路はこれを聞いて喜んだ」


 と続きます。早とちりして思い込むのが子路の持ち味であり、言葉を換えれば真っ正直で、人の言葉の裏を考えないということかもしれません。孔子はこれを聞いて、子路のやつを、もう少しからかってやろうと思ったのでしょう。

由の奴は勇を好むことわし以上だ。いったいどこから、そんな大きな桴を作る材料を取ってくるのかね」(公冶長)


 と。子路がこれに、さらにどう対応したのかは、残念ながらわかっておりません。


 そうは言うものの、孔子は、

仁者は必ず勇がある」(憲問)


 と言っていますから、勇をまったく否定しているわけではありません。現に、

勇を好むこと、わし以上だ」


 と言っているのです。孔子自身も勇を好んでいたに違いありません。ただ蛮勇を憎んだのです。だから子路が、

君子は勇を尊びますか」


 と尋ねますと、孔子は相手が勇を好む子路だけに慎重でした。

君子は正義を尊重するものだ」


 と、まず君子の資格を定義しました。そしてこの前提の上に立って、

君子が勇だけあって正義が無ければ乱を起こすぞ」


 と、勇というものも正義を背景にして振わねばならぬと言いました。そしてさらに、君子と、対照して上げられる小人のことに及んで、

小人が勇だけあって正義が無ければ、盗賊となるよ」(陽貨)


 と結びました。ところで孔子は、勇と乱との関係について、子路に次のようにも言っています。

由よ、お前は六つの言葉とその言葉の裏にある六つの弊害を聞いたことがあるかね」

子路「まだです」

孔子「お坐り、わしがお前に話してやろう」


 この時代の礼儀として、弟子が先生に教えを乞う場合には、一度立ち上がることになっていたので、子路も立ち上がったのです。孔子はそこで子路を坐らせ説き始めました。

仁を好んでも学問を好まなければ、その弊害はただのお人よしとして(ばか)にされる。知恵を好んでも学問を好まなければ、その弊害は知識の羅列となって、でたらめになる。信義を好んでも学問を好まなければ、その弊害は盲信的になり、お互いに傷つけ合う」(陽貨)


 と説いたのです。子路は善いと思ったこと、あるいは先生が善いと言った徳目を実行するのが第一で、本など読んでもしょうがないと考えていたふしがあります。孔子はそれですから、勇には正義という前提があるよと言い、また学問をすることを背景にして実行しなければ弊害が起こるよとも言って、子路に教えたのでした。なお孔子が直接子路に言ったのではないのでしょうが、

うやうやしくしていても(恭)礼の裏打ちがなければ(つか)れるだけだ。慎重であっても礼の裏打ちがなければいじけるだけだ。勇であっても礼の裏打ちがなければ乱暴になるだけだ。正直であっても礼がなければ窮屈になるだけだ」(泰伯)


 またちょっと角度を変えた言葉として、

勇を好んでいるものが、自分の境遇が貧しく、それを憎むようになると乱暴になる」(泰伯)


 とも言っています。


 それにしても、現在でも勇気を出したつもりで、(へい)()()(らん)を引き起こす言葉を吐く人がおうおうにしてあります。読者のみなさんの近くにも、そういう人を見かけるのではないかと思いますが、そういう人は学問とか礼といったものを身につけていない人と思って間違いないでしょう。


 話を子路に戻しましょう。孔子は、

やぶれた綿(わた)入れの服を着て、狐や(むじな)の毛皮を着た人と並んで立っていても、少しも恥ずかしがらないのは、あの由だろうね」(子罕)


 と言っています。子路は服装などには何の頓着もしない。そんなもので人を評価するものじゃないし、人に何と思われても気にしないと考えていたのです。


 さて孔子は弟子たちが、それぞれの個性を発揮して、自分の周りに坐っているのを楽しんでいましたが、そういう時に子路は、

(こう)(こう)(じよ)(気の強そうなありさま)


 としていました。孔子はそんな子路の様子を見て、ふと、

由のようでは、(たたみ)の上では死ねない。そうじゃないかね」(先進)


 ともらしました。そしてあとで述べますが、不幸にも孔子の恐れが現実になり、衛の国の内乱に巻きこまれて死んでしまったのです。


 子路はまた「果断」という評価を孔子から受けたこともあります。


 勇・剛・直といった彼の性格を一まとめにして、孔子は、

子路のやつは(げん)である」(先進)


 と言っています。というのは、「あらあらしい」とか「(つよ)い」「やんちゃ」というような意味ですし、時には「はったり」という言葉にも通じます。もっともこの言葉の載せられている章は、子路のほかにも(こう)(さい)・曾子・子張への批評の言葉も見えますが、いずれも弟子の欠点をとくに取り上げています。それはこの章に続く「顔回は完全に近い」という句を引き立たせるためのものとも考えられます。顔回の引き立て役として使われて、子路たちは名誉と思ったか、迷惑だったか、どちらだったでしょうか。


 それはさておき「」というのは、やはり勇が礼とか学問等々によるコントロールを失った時に現われて来るのでしょうし、子路がともすれば、そうした方向に行きかけるのを、孔子は見てとっていたのだと考えられます。


 子路と孔子とは年齢も近く、古い弟子であり、その上、子路の持って生まれた性格もあって、しばしば孔子のしようとすることに反対し、苦言を呈してたしなめようとさえしています。


 (こう)(ざん)(ふつ)(じよう)というものが、彼の領地である()(そむ)きました。(きよく)()から東南約一〇〇キロメートルのところです。弗擾は孔子を招きました。孔子知命の年だとされています。孔子が招きに応じて赴こうとしますと、子路は面白くないという顔をして言ったものです。

どこへも行くところがないのなら、それまでじゃないですか。わざわざ公山氏のところへ行くことはありますまい」


 孔子はこれに答えて、

いったい私を呼ぶからには、ただ何もないということはないだろう。もし私を使ってくれるものがあるなら、きっとその国を周の再来にしてみせよう」(陽貨)

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