昔の自分自身に会う。
自分自身の歴史に会う。
照れるけど、三十三歳の自分自身がいる。
自分の書いたモノを読んで恥ずかしいということは、まだまだモノを書く身として精進が足らないということだろうか?
しかし一九九二年に上梓した自分の書物を改めて読むのは恥ずかしい。
この本は吉本興業を創業期から一九九一年まで経営のトップに立ち、芸人と金を愛して止まなかった林正之助の人物伝である。
ただ伝記とは言え、私はこの会長の下で直接働いたのはたかが十年ほどである。この本は読みようによっては「竹中功の三十三年史・全仕事集」みたいなものかもしれない。たかが十年ではあるが、会長から怒鳴られて、毎日ビビっていた経験が当時の体に染み付いていたことは紛れもない事実である。
この本の元になるものは約二十五年前に発行されたのだが、当時発行してくださった出版社の役員が私への執筆依頼に関して、
「人物伝をまとめるのにあたって、手慣れた、名だたる先生に資料だけを渡して書いてもらうより、怒鳴られたこともある、そして会長室から臭う酢の香りまで知っているあなたが書くことに意味がある」とおっしゃってくださり、慣れないペンを進めたのだった。
一九八一年四月「自宅から通える芸能界」という思い付きから選んだ吉本興業に入社できて、その年の七月に広報担当になってそれ以来、広報畑が長かった。
今日ではパソコンもメールもFAXもあるが、それらすべてが存在さえしない時代の「広報パーソン」から見た会長の物語だ。
入社後、十年が経ち、一九九一年四月二十四日、林正之助会長が亡くなったその日は広報担当者としては長い一日であった。
私は総務部と組み、逝去に関してのデータや葬儀のことなどの詳細をスピーディに発表し、次期代表者の案内も同時に行った。そんな会長逝去の朝から、この本は書き進められている。
二〇一七年秋のNHKの朝ドラで我らの御寮さん、吉本せいをモデルとしたドラマが始まるそうだ。吉本興業にすれば創業百五年目の節目に当たる年なので、いい記念番組になると言えるだろう。
現実では彼女を二人の弟が支えた。吉本せいの十歳下の林正之助、そのまた八歳下の林弘高。創業者であり、せいの夫・吉本吉兵衛(のちの泰三)は一九一二年の創業から数えて十三年後に没したが、それと前後して、正之助、弘高が参画し、三兄弟の経営方針や精神は完全に現在のものの土台となっていると言える。
吉本興業は自前の劇場を積極的に持つことで、多くの芸人を傘下に置き、地位や待遇をカネでコントロールし、競争を必至にし、多くの人気者を輩出した。当時で言うと新進気鋭のメディア(ラジオ・テレビなど)が出てきた際も旧メディア(寄席小屋)を中心に「演芸」を見据えて、「どう落とし所をさがすか!?」を思案し、結果的に今で言うと、メディアミックスを成功させていった。
こんな言葉がある。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
「愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む」(オットー・ビスマルク。出典Wikipedia)。
吉本興業には百年を超える経験と歴史がある。そして先人たちの足跡をたどることもたやすく出来る。
芸人が売れるとか、売れないについての法則はなかなか見つからない。私の経験から言えば必要なセンスは目の前におられる「お客様」との駆け引きだ。お金を払って「お笑い」を買いに来られた方に、どのような味付けの物を提供できるかである。その味を上手いとか不味いと決めるのは相手の「感性」次第なのである。
「吉本興業は経験に学び、歴史に学び、誤りを避けるために他社や他人の経験からも学ぶ『生命体』である」と言いたい。
そしてそれを私は林“ライオン”正之助という人物を通して大いに学んだということだ。