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わらわしたい 正調よしもと林正之助伝(KKロングセラーズ)
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ルポ・エッセイ
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第三章 笑うモダンシティ

『わらわしたい 正調よしもと林正之助伝(KKロングセラーズ)』
[著]竹中功 [発行]PHP研究所


読了目安時間:30分
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漫才はモダンシティに生まれた


 一粒三〇〇メートルの巨大なグリコのネオン。「かに道楽」の動く赤い蟹の大看板。リドリー・スコット監督の映画「ブラックレイン」の舞台にもなった、奇怪な行燈のようなキリンプラザ・ビル。見ようによってはコワイともいえる「くいだおれ」の人形……。


 大阪の道頓堀界隈を代表するものとしては、こんなものが挙げられるだろうか。これらは大阪の「どぎつさ」「けばけばしさ」「猥雑さ」を象徴しているが、高松伸設計による超近代的なキリンプラザは別格として、道頓堀界隈を支配しているのは、時代からかなり遅れたアウト・オブ・ファッションな雰囲気である。


 そして、大阪人はそれをあるがままに愛し、誰もそこに時代の新しさを求めてはいない。


 食べ物で言えば、イタリア料理よりきつねうどん、肉うどん。ティラミスより三笠饅頭。パエーリアよりかやくごはん。カシスのジェラートより宇治金時のノリである。


 また人に例えるなら、新しいことは皆目知らないが、その人柄はとても愛せるタコヤキ屋のおっさんといったところか。


 だが、そのタコヤキ屋のおっさんには驚くような過去があったのである。


 吉本が安来節をヒット商品にし始めた年、すなわち大正十年(一九二一年)。神戸六甲では五人の若者が集まって、舶来の音楽を試みていた。


 リーダーは宝塚歌劇団のオーケストラをクビになった井田一郎。彼は舶来の音楽のうちでもとりわけジャズに心を奪われていた。一九一〇年代、世界の文化は第一次世界大戦の勝利を決定づけたアメリカを中心に動き始めていた。ジャズはそんな新興国アメリカの息吹にぴったりとマッチしていた。


 また、この時期、世界的な交通の発達で世界の国はつながり、世界規模の「流行」が生まれつつあって、ジャズはそれまでのヨーロッパ的な音楽に代わってダンス・ミュージックの王座を奪いつつあり、やがて一九二〇年代、ジャズは音楽という領域を越えて、あらゆる文化に大きな影響を与えるに至るのである。


 井田一郎は宝塚歌劇団でジャズの研究演奏を始め、それでクビになったと伝えられているが、これは日本では当時まだヨーロッパ的音楽が主流であったことを伝えている。


 彼が神戸六甲で結成したバンドの名前は「ラフィング・スターズ」。日本で初のジャズバンドといわれている。しかし、まだジャズでは食えず、バンドは五か月で解散。だが、世界的なジャズの流行は日本にも及び、関東大震災後、大阪のしかも道頓堀界隈にダンスホールが集中的に誕生した。


 難波新地の「コテージ」が評判を呼ぶと、(えびす)(ばし)北詰の「パウリスタ」、千日前の「ユニオン」、「パリジャン」、道頓堀の「赤玉」など大小二十のダンスホールが、ジャズには失礼だが、まるでかつてのノーパン喫茶のように、瞬く間に誕生したのである。


 なぜ東京でなく大阪・道頓堀だったのか。それはひとつにはこの時期、関東大震災によって東京は壊滅状態であったからであるが、もうひとつはひとつ当たると次々に追随者が生まれる大阪という土壌もある。しかも、それで質的に低下しなかったのは関東大震災によって東京からジャズを志すものたちが続々と大阪にやって来て人材に事欠かなかったからであろう。


 もっともジャズといっても、マイルス・デイヴィスや渡辺貞夫、山下洋輔のような現代のジャズではなく、当時はダンス・ミュージック、エスノ・ミュージック、ポップスであったといっても言い過ぎではないだろう。


 宝塚では早すぎた井田一郎も道頓堀ではボスとして君臨し、道頓堀から服部良一をはじめとする多くのミュージシャン、クリエイターたちが震災から復興なった東京に進出し、やがて日本のモダンエイジをゴージャスなサウンドで彩っていく。


 井田のかつてのバンド仲間塩尻精八が作曲したジャズ風の「青い灯 赤い灯 道頓堀の 水面に映る 恋の灯に」の歌詞でおなじみの『道頓堀行進曲』が時のスター岡田嘉子によって、オープン間もない白亜の西洋建築劇場、松竹座で歌われて大ヒットし、道頓堀界隈にはジャズがあふれた。


 こうした時代の気分は寄席にも反映したに違いない。『吉本興業株式会社沿革』の中の記述。「大正十五年頃になると、さしもの落語も食傷気味というか、新鮮味も薄らぎ、上方落語のメッカといわれた法善寺紅梅亭に於ても、落語一本では大衆を満足させる点で何か欠ける様になってきた」。ジャズのあふれる町で、さすがに落語は前時代的に感じられたに違いない。


 そこで吉本では「上方落語の保存と愛好者獲得に意を用い、それには落語と落語の間に色物を入れ、お客の気分転換を図るのが最良の方法であるとし、ようやく抬頭しつつあった万才を重要視」した。


 昭和五年(一九三〇年)、正之助は千日前の南陽館で十銭万才を始めた。これは、正之助が収容数の少ない小さな小屋でこの低料金ではとても引き合わないというまわりの多数意見を押しきって敢行したものであるが、結果は成功に終わり、吉本に万才の専属希望者が殺到した。


 そしてこの年、万才に革命を起こしたコンビが結成された。エンタツ・アチャコである。


 花菱アチャコは本名藤木徳郎。明治三十年、福井県勝山の生まれで、生家は仏壇屋。十六歳の時に俳優を志して旅回りの劇団に入り、ここで張り扇万才を覚えて、何度もコンビを組んでは別れ、吉本にスカウトされた時は千歳家今男と今男・アチャコのコンビを組んでいたが、千歳家今男がほかに引き抜かれ、困っていた。

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