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わらわしたい 正調よしもと林正之助伝(KKロングセラーズ)
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ルポ・エッセイ
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第四章 お笑い戦線異状なし

『わらわしたい 正調よしもと林正之助伝(KKロングセラーズ)』
[著]竹中功 [発行]PHP研究所


読了目安時間:20分
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見よ、我ら「わらわし隊」


 全国に四十七館の直営館を持ち、正之助たちが笑いの帝国を築き上げ、我が世の春を迎えていた昭和十二年(一九三七年)七月、日中戦争が始まった。


 昭和七年、満州国の建国が宣言され、日本軍はさらに華北の満州化をねらって進撃(昭和八年)。そして、ついに蒋介石国民政府と全面戦争に突入したのである。この戦争は国民には正義の戦いであると宣伝され、大衆は誰ひとりそれを疑うものはおらず、正之助たちもそう信じていたにちがいない。

「昭和十二年七月、蘆溝橋に於て戦火が交えられ、近衛内閣の不拡大方針にも拘らず、北支から中、南支へと戦線は拡がっていった。国内に於ても、漸く戦時色濃厚になり、演芸の吉本も防空演習、軍用機献納運動、戦地慰問の『わらわし隊』派遣を始め、娯楽を通して挙国一致の国民精神発揚を努めるといった仕事迄引き受けた。


 昭和十二年七月、好評噴噴であった雑誌『ヨシモト』も紙の制約と編集要員の召集による不足等の為遂に廃刊された」(『吉本興業株式会社沿革』)


 そして、

「支那事変も、二年、三年目となると、戦時色益々濃厚となり、軍に協力するに非ずんば非国民呼ばわりされる様になり、応召される者も多くなった」(同前)


 映画、演劇、演芸などの興行主は軍部ににらまれることを恐れ、吉本でも満州事変(昭和六年)の直後、いち早くエンタツ・アチャコらの慰問団を満州に派遣するなどしていた。また、日中戦争開始後、新聞各社が大陸に慰問団を派遣するという動きの中で、大阪朝日新聞主催の「皇軍慰問団」として、アチャコ・今男、エンタツ・エノスケらを派遣した。それが吉本の通称「わらわし隊」である。

「わらわし隊」とは当時花形であった陸軍、海軍の航空隊をマスコミが「荒鷲」と呼んでいたものをもじったもので、「皇軍慰問団」とはいえ、じつにノリの軽いものであったといえる。


 昭和十三年一月の「わらわし隊」の出発を追ってみよう。

「わらわし隊」は大連・北京方面の北支班と上海・南京方面の中支班に分かれ、北支班は花菱アチャコ、千歳家今男、柳家金語楼、柳家三亀松、京山若丸。中支班は横山エンタツ、杉浦エノスケ、石田一松、玉松一郎、ミス・ワカナ、神田ろ山というラインナップで、中支班には正之助自ら陣頭指揮に立った。


 一月十三日、全員が東京に集合。宮城遙拝、明治神宮・靖国神社参拝、海軍省・陸軍省訪問。そして夜行列車で大阪へ。


 一月十四日、大阪駅に到着。柳家三亀松は軍刀をひっさげ、アチャコは何を思ってかピッケルを持って雪山に行くような格好をし、ミス・ワカナは従軍服を着ているが帽子には紅バラを飾り、こちらもなぜかスキー靴を履くという浮かれた気分で大阪駅頭に降り立った。そしてファンの声援を浴びつつ車を連ねて難波の八阪神社に参拝。


 神社で祝詞をあげてもらったが、神社では苗字と名前の間に「の」を入れるのが慣わしで、「横山のエンタツ」、「千歳家の今男」、「柳家の金語楼」などはよかったが、神田ろ山の「かみたのろうやま」、花菱アチャコの「はなびしのア・チ・ヤ・コ」、柳家三亀松の「やなぎやのさんかめまつ」で爆笑。その後、宗右衛門町の「浜作」で吉本興業主催の「出発お祝いの会」を開いた。午後六時半、大阪朝日会館で「皇軍将士慰問演芸班を送る夕」。そして午後十一時二十七分発の特急富士で下関へ。


 一月十五日。午前九時二十五分、下関に到着。ここから北支班の花菱アチャコ、千歳家今男、柳家金語楼、柳家三亀松、京山若丸は「扶桑丸」で大連に出発。中支班は再び列車に乗り長崎に向かう。

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