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わらわしたい 正調よしもと林正之助伝(KKロングセラーズ)
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ルポ・エッセイ
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第五章 光と闇の中で

『わらわしたい 正調よしもと林正之助伝(KKロングセラーズ)』
[著]竹中功 [発行]PHP研究所


読了目安時間:33分
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VIVA! アメリ力映画からの快進撃


 昭和二十年(一九四五年)八月十五日の終戦の日を会長はどんな気持ちで迎えたのだろうか。空襲によって寄席の大半を失い、芸人も花菱アチャコただひとりを残して散り散りになってしまった。アチャコだけはどう説得しても吉本を離れると言わなかった。会長への忠誠心のためだろう。

「遂に終戦、尚打ち続く虚無状態、極度の物資不足により、自然に演芸陣も解散していった。戦後は米軍の進駐によりアメリカ一色に塗り替えられてしまった世相を勘案し、映画(主として米画)興行を主体に行うべく昭和二十一年よりその名もグランド劇場として、逐次梅田、千日前、新世界にそれぞれ三洋画劇場をひらき、当時唯一のアメリカ映画配給元のセントラル・モーション・ピクチュア・エクスチェンジを通じ、蒔直し第一歩を踏み出した」(『吉本興業株式会社沿革』)


 当時、どんな映画が封切られたのだろうか。


 マッカーサーからの押しつけのアメリカ映画輸入のため、セントラル映画社(セントラル・モーション・ピクチュア・エクスチェンジ)が設立され、第一回封切り作品は「キュリー夫人」「春の序曲」だった。当時の日本映画は入場料が最高三円だったのに対してアメリカ映画は十円と高かったが、アメリカ映画に飢えていた洋画ファンが殺到し、ジョン・ウェイン主演の「拳銃の町」「スポイラーズ」や、ハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマンの「カサブランカ」ほか「肉体と幻想」「疑惑の影」「南部の人」などが上映された。また「巴里の屋根の下」「望郷」「舞踏会の手帖」などのかつての作品、さらに「うたかたの恋」「大いなる幻影」など戦時中に上映禁止になっていた作品も公開された。



 終戦から、うめだ花月で演芸を再開する昭和三十四年(一九五九年)までの十四年間、吉本興業は映画館経営をはじめ、面白いように様々な事業を手がけている。会社の資料からピックアップしてみよう。


 まずは先に書いた洋画の三映画館経営以外に、千日前の常盤座と京都花月は邦画上映と実演、京都のヤサカグランドは指定席による米画上映を行なった。祇園に進駐軍向けのキャバレー、グランド京都を開いたのもこの昭和二十一年頃である。


 暗黒時代の幕開けにふさわしい華やかさの中、吉本興業合名会社は、昭和二十三年一月七日、資本金六百五十万円の株式会社に改組した。会長に吉本せい、社長に林正之助が就いた。しかし、二年後の昭和二十五年三月十四日、せいは六十二歳で肺結核のために亡くなった。


 その後の吉本興業の攻めは止まるところを知らない。

「京都花月二階西側に喫茶ハッピーシップ開店」「神戸花月(映画館)オープン」「本社移転」「千日前グランド二階ロビー隅に喫茶グランド開店」「千日前グランド地下をパチンコ・アルファに賃貸」「新築梅田グランド地下に梅田花月(映画館)オープン」「梅田花月ロビー隅に喫茶ガルテン開店」「千日前グランド地下に喫茶パラカ開店」などが挙げられる。


 この「パラカ」は喫茶といっても、今でいうライブハウスみたいなもので、ロックバンドが生演奏もしていたのだ。グループ・サウンズのブームはまだやって来てはいなかったが、東京のバンドのブッキングのために内田裕也とコンタクトをとっていたりした店だ。紙コップの中に、そのコップと同じぐらいの大きさの氷を入れてコーラを売っていたのもこの店だ。


 そして昭和三十四年三月一日の演芸場、うめだ花月がオープンした後もこの勢いは止まらなかった。

「新築貸しビル、吉本ビル完成」「吉本ビル五階をポーラ美容室、日立サルーン・日立ホールに賃貸」「ときわ会館内にときわガン・コーナー開店」「京都花月を演芸興行館に」「千日前グランドを演芸興行館なんば花月に」「ボウル吉本を新築」「吉本ビル地下におしるこサロン、花のれん開店」「京都花月二階に串カツ屋、花びし開店」「ボウル吉本屋上にインドア、吉本ゴルフセンター開店」「ボウル吉本二階男子ロッカー室を改造しビリヤード吉本開店」「京都花月内にゲームセンター・オリンピア開店」「阪南町に泉南ボウル吉本を新築」「京都花のれん開店」「なんば花月西側に花月ゲームセンター開店」、そして大阪万博の年一九七〇年に「大阪蝋人形館」をなんば花月の地下に開店した。


 この中で、大笑いさせてくれるのはやはり「蝋人形館」である。大阪北摂の地、千里丘において万国博覧会が催され、空前のお笑いブームが吉本興業にやって来た時、その花月の地下に蝋人形館があったとは何とも陰気な感じではないか。


 仁鶴、三枝、やすし・きよしが大人気を博し、花月はもちろん大繁盛し、彼らはテレビやラジオでも引っ張りだこだった。そんな劇場の真下で、マリリン・モンローやチャップリンらが無口にジッと立ち並んでいたなんて異様な風景だ。


 別に笑わそうとしてこんな事業をしてきた吉本興業ではない。真面目に企業を経営していたのだ。


“我等の意気は天を衝く”『吉本行進曲』


 ここで良い機会なので、昭和十年頃に作られた社歌とも呼べる「吉本行進曲」を紹介しよう。


一、大衆娯楽の旗じるし


  起ちて新興ヨシモトの


  東に西にゆくところ


  きけ大衆の支持の声


  我等の意気は天を衝く


  進め今日の先駆者よ

二、諸芸百華のヴァラエティ


  粋を集めし精鋭の


  技と熱との凝るところ


  見よヨシモトの芸の園


  百花は絢らん乱れ咲く


  競え演芸豪華陣

三、娯楽日本のパイロット


  我等は若き鷹の群れ


  力をあわせ翔くところ


  うたわんかなやヨシモトの


  勝利のうたをもろともに


  たたかえ明日の開拓者



 お見事な歌詞である。時代を反映しているではないか。戦前の吉本の勢いを垣間見ることができるだろう。立派なオーケストラをバックにしたものでCDでも作ってみようか。時を乗り越えた吉本のプロパガンダとして今日、使うことは十分に考えられる。


 実はこの「吉本行進曲」の音盤制作、私が「ウィアー・ザ・ワールド」が流行った時に考えたことのあったネタでもあったのだ。


米兵さん、いらっしゃい。

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