読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン

12/21に全サービスをRenta!に統合します

(2021/12/6 追記)

犬耳書店は2021年12月21日に、姉妹店「Renta!(レンタ)」へ、全サービスを統合いたします。
詳しくはこちらでご確認ください。

0
-2
kiji
0
0
1281999
0
さよならムーンサルトプレス 武藤敬司35年の全記録
2
0
0
0
0
0
0
趣味
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
3章 スペース・ローンウルフvs「UWF」

『さよならムーンサルトプレス 武藤敬司35年の全記録』
[著]福留崇広 [発行]イースト・プレス


読了目安時間:56分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ


アメリカでムーンサルトプレスを初披露



 1985年11月4日、武藤は初のアメリカ武者修業へ旅立った。降り立ったのはフロリダ州タンパだった。当時、新日本プロレスは、フロリダにある「チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ(CWF)」というプロモーション会社と提携していた。CWFは坂口征二が信頼する元日系人レスラーのデューク・ケオムカと、昭和30年代からアメリカマットで活躍したヒロ・マツダが運営していた。坂口はこの団体に、将来のスター候補を預けることに決めたのだ。


 渡米は、外国人レスラーの発掘も兼ねた坂口も一緒だった。初めての海外でいきなりビジネスクラスの好待遇という心地よさで夢の大陸に降り立った。

「坂口さんがいたから、ビジネスクラスに乗れたんだよなあ。アメリカに行けるなんて新日本に入る前までは、考えられないことだったから海外に行けることだけでうれしくてね。山梨から東京に出た時、すげぇビルばっかり並んでて、東京ってすげぇところだなって思ったからね。だったら、米国って東京よりもっと(すご)いんだろうと思ったら、フロリダは山梨と変わらなかったよ」


 期待とは違った牧歌的なムードのタンパ。肝心の試合も、当初はなかなか組んでもらえなかったが、デビュー戦は思いも寄らない形で実現した。

「住んでたところのルームメイトが新日本に留学してたロッキー・イヤウケアで、ロッキーは試合があるんだけど、オレはなかなか仕事がもらえなくて、やることがないからロッキーの試合にいつも勉強も兼ねてついて行っていたんだよ。ある時、試合で欠員が出てプロモーターから『お前、できるか?』って言われて、急きょロッキーのリングシューズを借りて、初めて試合をやってね。そしたら、『お前、凄いな』って言われて。そこからデビューにつながった」


 飛び入りでのアメリカマットデビューで、プロモーターの評価を受け、すぐに本格的な試合が組まれた。事実上のデビュー戦はNWA世界ジュニアヘビー級タイトルマッチで、王者のデニス・ブラウンに挑戦した。渡米してから三か月あまりの2月14日、アメリカで初めてムーンサルトプレスを(さく)(れつ)させた。

「いきなりタイトルマッチでね。そこで初めて米国でムーンサルトをやったら凄い歓声だった。試合はオーバーザトップで負けたけど、そこからどんどんオファーが入ったよ」


 米国でのし上がる第一歩はやはり、月面水爆だった。一気に注目された武藤はマツダのアドバイスで、新たなリングネームで戦うことになる。

「マツダさんから、ブラック・ニンジャっていう選手がいるから、お前はホワイト・ニンジャでやろうって言われて。そこから、リングネームはホワイト・ニンジャってなってね。急きょ、東洋のグッズが売っている忍者ショップに行って、コスチュームを買ったんだけど、それが全然、ホワイトじゃなかったから、ザ・ニンジャっていう名前で上がることになった」


 ザ・ニンジャとなった武藤は、フロリダで一気にスターダムに駆け上がった。地区によっては「ホワイト・ニンジャ」、あるいは「ザ・ニンジャ」と名前を変えていたが、トップヒールにのし上がり、レックス・ルガー、バリー&ケンドールの「ウインダム兄弟」らと抗争を展開した。同じ相手との戦いの中で学んだことがあった。

「住んでいたのがタンパでそこを拠点に、日曜日はオーランドかジャクソン、水曜日はマイアミとかの大都市、その他の曜日は地方、と決まったスケジュールで試合を重ねていた。必ず一週間に一回とか二週間に一回とか同じ町で試合をする。そこで毎回、同じ相手とやらなくちゃいけないから、その中でどうやって試合を進化させていくかっていう発想が生まれてくるんだよ。一つの試合という、点をいかに線にしていくかが勉強になった」


 それは、必殺のムーンサルトプレスも同じだった。

「米国でもヘビー級であれだけの技を出す選手はいなかったから、お客さんは、沸くわけだよね。だけど、同じ町で同じ相手に同じタイミングで出すと、飽きられるわけだから、どこで出すかも考えていった。それと、アメリカは日本と違って、試合会場によって毎日毎日リングの大きさも高さも違うんだよ。見ている方は分からないと思うけど、試合ごとにリングが違うって、レスラーにとっては難しいもんなんだよ。試合前にリングに上がって練習なんかしないから、すべてぶっつけ本番だよ。ムーンサルトプレスも、毎日違うリングでやっていたから、結構大変だったよ。しかも、ビッグショー以外は、会場に着くまで対戦相手が分からないなんて当たり前だからね。ただ体がデカイだけで何もできないヤツとかいたからね。そんなのと試合するのも本当、大変でさ。あらゆることが全部、ぶっつけ本番だったから、そりゃ自ずと鍛えられたよな」


 米国マットで「プロレス」を学ぶ一方、新日本で築いたベースを生かせることにも気づいた。

「あの当時の米国の試合って凄く大味だった。パワーでぶつかる単調な試合が多かったし、大ざっぱなタイプのレスラーばっかりだった。だから、その中で新日本で猪木さんがやっていたインディアンデスロックとか出すと逆に沸くんだよ。米国人には、ああいう関節技みたいなのが、異様に見えたみたい。日本では普通の動きをアメリカでやることで、他のレスラーと違う何かをアピールできたんだよ」


 日本のスタイルをアピールし、アメリカンプロレスを吸収しながら進化を遂げた日々で、一日三試合という過酷なスケジュールをこなす時もあった。そのほとんどすべてでムーンサルトプレスを繰り出し、観客を熱狂させ、プロモーターから評価を受けた。アメリカでの成功を確実に手にし始めてきたが、両膝には知らず知らずのうちにダメージが蓄積していた。

「無茶な試合やってたからね。一試合で三回もムーンサルトプレスを出したりさ。それだけ必死だったということなんですよ。ただ、今考えれば、そりゃケガするよって思うよね」


 アメリカでスターになろうと必死でアピールした23歳の武藤は、フロリダで一人の日本人レスラーに出会った。それが桜田一男だった。


フロリダで公私共に「タッグ」を組んだ桜田



 北海道網走市出身の桜田は、中学を卒業し大相撲の立浪部屋に入門したが、7年あまりで廃業、1971年に日本プロレスへ入門し、その後、全日本プロレスへ移籍した。1976年10月から渡米して、そのまま全米各地を転戦していた。日本マットでは、全日本で覆面レスラーの「ドリーム・マシーン」、新日本で1985年10月のシリーズ「バーニングスピリット・イン・オータム」に素顔の「ランボー・サクラダ」として参戦している。フロリダで武藤と出会った時は、ペイントレスラーの「ケンドー・ナガサキ」のリングネームで、フロリダ地区などでヒールとして活躍していた。桜田は武藤とタッグを組んでフロリダマットで暴れ回り、私生活では同じマンションで暮らし、公私共に面倒を見た。

「部屋はベッドルーム二つにリビングがあった。食事はオレが作ってね。あいつは洗い物担当だった。相撲時代の経験があるから、あいつに『何食いたい』って聞いて、望んだものは何でも作りましたよ。ちゃんこも作るし、飯も炊いた。カリフォルニア米は美味しかったけど、生の魚はダメだよね。一度、マグロを刺身にしたら、二人であたって参ったことがあるよ。昼に食ったら、午後から二人共腹が痛くて痛くてね。その状態で、夜はタッグで試合でね。45分ぐらいかかってさ、今でもあの試合は覚えている。後になって『あれは疲れたな』って二人で笑ったよ」


 桜田は、武藤にプロレスも教えた。

「フロリダで武藤と一緒に仕事をするようになって、色々アドバイスはしたけど、とにかく覚えるのが早かったよ。一回言ったら、二回は言わなかったね。最初に教えたことは、技の出し方、お客の感情をどうキープするかとか、リング上でお客にどう見られているかとかを教えたね。オレたちは、お客の視線を意識して試合をやるから、相手と闘っているんだけど、お客と闘っているようなものなんだよね。最初のころは試合が終わって、分からないことがあると聞いてきて、『相手がこうきたらこうやるんだよ』とか試合の運び方を教えたけど、一か月ぐらいしたらもう大丈夫だった。普通はあまりできないんですよ。だけどあいつは、すぐにできた。センスが抜群だったよね。これって持って生まれたものでね。プロレスで一番難しいことって、対戦相手の気持ちを知ることなんですよ。相手が今、何を望んでいるのか、お客は何を待っているのかって、これが分からないとできないんですよ。いいレスラーとそうじゃないヤツの違いって、そこなんですよ。だけど、これって最終的には教えられないんだよね。だってセンスだから。それを武藤はピタッと覚えて、すぐにできた。あれは凄いよ」


 ムーンサルトプレスは、アメリカでもやはり衝撃を与えていた。

「オレは日本で見て知っていたけど、あの技を見た外国人はみんなビックリしたよ。プロモーターも喜んでいたよね。あれだけの素質を持った日本人って他にあまりいないよね」


フロリダでの肉体改造



 抜群だったプロレスの感性に加え、練習熱心だった姿が今も桜田の記憶に残っている。

「当時、あいつはやせてたから、『体を大きくしたい』って言って、毎日のようにジムに行きましたよ。率先してウエイトトレーニングをやってたよ。練習が好きで『ジム行きましょう』ってよく言われて連れて行った。どこへ行っても二時間は筋トレをやっていたよ。あいつは素直だから、『体大きくするんだったらプロテインがいい』って飲ましたら、ちゃんと飲んでたよ。マジメだったからオレも可愛がったし、教えがいがあったよね」


 肉体改造に励むアメリカでの日々だったが、筋力トレーニングは、入門した当時から熱心に取り組んでいた。武藤の理想は、ファンのころから見ていたハルク・ホーガンだった。

「オレはもともと、ホーガンとかマッチョが好きだったからね。ああいう彫刻みたいな体に憧れて、入門した時から道場でよく筋トレをやっていたよ。だから、上の人からやらされるヒンズースクワットが嫌で嫌でしょうがなくてさ、あんなマラソンの選手みたいに持久筋を鍛えるだけじゃ筋肉はデカくならないんだからさ。逆に膝を痛めるしね。こっちは大きい筋肉が欲しいのに、1000回とか2000回もしょうもないことをやらされたよな。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:23710文字/本文:27966文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次