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ウラ読み「戦国合戦」
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歴史
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第十三章 大坂の陣

『ウラ読み「戦国合戦」』
[著]谷口研語 [発行]PHP研究所


読了目安時間:31分
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概要



 (とく)(がわ)(いえ)(やす)(とよ)(とみ)(ひで)(よし)の遺児(ひで)(より)とその母(よど)殿(どの)を大坂城に滅ぼした戦いである。公儀という面でとらえれば、武家政権の江戸幕府が、全国の大名を動員して、関白政権の(ざん)()である豊臣氏を滅ぼしたということになる。


 豊臣秀頼を幕府の統制下に組みこむことは、高齢の家康にとって、死ぬ前に片づけておかなければならない最終的な課題だった。


 家康は秀頼が再建した秀吉ゆかりの(ほう)(こう)()(しよう)(めい)を政治問題化し、秀頼が江戸へ参勤するか、秀頼の母淀殿が江戸へ移住するか、秀頼が大坂からの国替えを受け入れるか、この三者択一を迫った。抗戦派が主導権を握る大坂方は、これを拒否し、(ろう)(にん)を多数召し抱えて抗戦の構えを示した。


 家康はおそらく、(こう)()(うれ)いを絶つために、豊臣氏の滅亡を望んでいたはずである。大坂方の抗戦は願ってもない事態であった。


 (けい)(ちよう)十九年(一六一四)十月、家康は全国の大名に陣触れを発し、二十三日には京都()(じよう)城に入城、十一月はじめ、二十万の軍勢で大坂城を包囲し、冬の陣がはじまった。


 大坂(ろう)(じよう)勢は豊臣家臣に牢人衆を合わせて十二、三万。


 家康は力攻めをせず、包囲網を縮めながらの持久戦をとった。砲撃やこれみよがしのトンネル掘りなどの心理戦も用いつつ、籠城勢内部の分断をはかったが、結局、堅固な城を攻めあぐみ、十二月十九日には講和した。


 講和の条件として、大坂城の二の丸・三の丸を壊すこと、堀を埋めることなどがあった。豊臣方では、堀とは外堀のことで、二の丸と三の丸を隔てる内堀を含まない、と解釈していたが、徳川方は内堀までも迅速に(かい)(へい)してしまった。


 京都にいた家康は、大坂城を裸城にした上で、豊臣方に牢人衆の追放を求めた。豊臣方は拒否し、かえって多くの牢人を集めた。この行為を()(ぼく)違反として、翌年四月、家康は再び大坂城攻撃を命令、夏の陣となる。


 大和(やまと)路と河内(かわち)路を進む徳川方は、(どう)(みよう)()で合流して大坂城を目指した。拠るべき城を裸城にされた大坂方は、城を出て野戦せざるをえない状況に追いこまれた。


 決戦開始は四月二十九日。()(しゆう)方面から進む徳川方(あさ)()隊を、豊臣方(ばん)(だん)右衛()(もん)(なお)(ゆき)の部隊が攻撃したが、団右衛門は戦死。五月六日には道明寺・()()(わか)()で交戦があり、豊臣方の()(とう)(また)()()(もと)(つぐ)(すすき)()(かね)(すけ)()(むら)(しげ)(なり)が戦死。七日には(てん)(のう)()口で激戦となり、(さな)()隊が家康の本陣を襲ったが、(しゆう)()敵せず、真田(ゆき)(むら)(のぶ)(しげ)もついに戦死した。そして同日、大坂城天守閣は炎に包まれた。翌日、秀頼母子が自殺し、豊臣氏は滅亡した。豊臣氏の滅亡を見届けた家康は、翌年四月に死去した。



鐘銘問題での家康の二枚舌が豊臣方を分断した?



 (せき)()(はら)合戦後、豊臣家は故秀吉の()(だい)(とむら)うために()(ない)の寺社の再興に励んだが、その代表的な事業が、方広寺大仏の再建だった。この大仏を安置する大仏殿の(かね)の銘文をめぐって、いわゆる方広寺鐘銘問題が起き、それが大坂の陣の引き金となった。


 そもそも方広寺大仏は、豊臣秀吉が(てん)(しよう)十三年(一五八五)の関白就任を機に、奈良(とう)(だい)()の大仏に()(けん)するものを、と建造したものだったが、慶長元年(一五九六)の大地震で大破してしまった。ちなみに、翌二年からしばらく(しな)()(長野県)(ぜん)(こう)()本尊が仮安置されていたことは、さきに第二章で触れた。


 その後、秀吉も、妻の(こう)(だい)(いん)(ねゝ)も大仏再建を考えたが、秀吉が没し、ついで関ヶ原合戦が起こるなどで実現せず、ようやく大仏再建に着手できたのは慶長七年十一月のことだった。徳川家康が豊臣家の家老(かた)(ぎり)(かつ)(もと)を通じて豊臣家に再建を勧めたという。


 片桐且元は(しず)()(たけ)合戦の七本(やり)に数えられる秀吉子飼いの家臣であるが、豊臣家の家老という大役に就いたのは、関ヶ原合戦後のことである。お膳立てしたのは徳川家康だった。豊臣政権の主だった政務担当者を、ほとんど関ヶ原合戦で処分してしまったからである。年齢、キャリアはもちろんだが、何よりも、家康の意を入れて動いてくれる者が必要だった。そこで家康は、片桐且元に白羽の矢を立て、家老としての体裁を整えさせた。


 片桐且元は徳川家との協調路線で豊臣家の存続を考えており、それは豊臣恩顧の大名たちも支持するところであった。家老となった且元は、豊臣秀頼の名代として政務を執行する際には、必ず徳川幕府の京都所司代(いた)(くら)(かつ)(しげ)ら徳川氏の担当者と綿密に打ちあわせて、事を進めていった。


 方広寺大仏の再建の際も同様で、資材調達費用は秀吉遺蔵の分銅金が江戸の金座で吹きかえられて使用され、食料費ほか工事関係費用は徳川方が公儀として負担することで、工事ははじまった。

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