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人類の歴史とAIの未来
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人文・科学
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第四部 コンピュータの意識 ジョン・フラムの物語

『人類の歴史とAIの未来』
[著]バイロン・リース [発行]ディスカヴァー・トゥエンティワン


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PART FOUR: COMPUTER CONSCIOUSNESS

The Story of John Frum



 オーストラリアにほど近い太平洋上にメラネシアという地域があり、4つの国が存在する。バヌアツ、ソロモン諸島、パプアニューギニア、フィジー。それに加えて小さな島々もある。この地域は第二次世界大戦の太平洋戦域の要所となった。そしてその頃の米軍との関わりから、後にカーゴ・カルトとして知られることになる奇妙な信仰がこの地域で生まれた。


 これらの島に土着する人々はある日、米兵がやってきて、滑走路を作るために土地を開拓し、監視タワーを作るのを目撃した。そうこうしているうちに、空から飛行機がやってきて滑走路に着陸し、莫大な量のカーゴ(積荷)を下ろしていった。ときには、兵士たちは島民に缶詰や工業製品などの物資を分け与えたこともあっただろう。


 そうして、カーゴ・カルトは生まれた。島民は自分たちで滑走路を作り、竹でタワーを作った。ラジオを持っていなかったから、ココナッツの実で似たような箱を作った。飛行機をガイドするライトもなかったから、滑走路に沿って竹を植えた。銃に見立てた棒を持ち、しばしば米兵が着ていた軍服を真似たコスチュームで身を包み、彼らがやっていた軍事訓練の真似事をした。ときには、飛行機を呼び寄せようと、藁で実物大の飛行機の模型を作ったりもした。彼らは米兵がしていたあらゆることを真似た。にもかかわらず、飛行機が着陸することも、積荷が届くこともなかった。


 今でも、バヌアツには第二次世界大戦期の米軍人を偶像化したとされるジョン・フラムを信仰する集団がいる。毎年2月15日にはジョン・フラムをたたえ、彼がいつか皆のために積荷を持って帰ってくることを願うパレードが行われている。


16 センシェンス



「痛み」とは何か?


 私たちが次に考えるべきことは、意識を持つコンピュータは実現可能なものなのか、それともそんなものを作ろうとする者はテクノロジー版カーゴ・カルトの信者であって、機械をある特定のやり方で作りさえすれば、飛行機が着陸してその機械は意識を持つようになる、という信仰に惑わされているだけなのだろうか、ということだ。


 私たちは意識についての問いに真正面から取り組むことになるが、そのためにはまずセンシェンス(Sentience)と自由意志という2つの概念について考えなければならない。この2つを完璧に理解することは、機械が意識を持てるかを判断するときにとても役に立つ。というのも、これらは意識と同義ではないが、重要な特性を共有しているからだ。まずはセンシェンスから始めよう。

「センシェンス」は日常的に誤った使われ方をする言葉だ。SFではだいたい、「知性」「賢さ」を表す言葉として使われる。「リゲル7の生命体が都市を作り始めた。明らかにセンシェンスがある」といった具合だ。ただしこの言葉にはそういう意味はない。センシェンスとは、何かを感じる、あるいは自覚することができる能力のことだ。リゲル7の生命体に関しては、サピエンス (賢い)という語を使うべきだろう。それが、私たちがホモ・センシェンスではなくホモ・サピエンス(賢い人間)と呼ばれる所以だ。


 センシェンスは「知性」とは異なるが、私たちにとって重要な概念であることは間違いない。私たちは例えば、動物がセンシェンスを持つかどうかを気にする。動物は痛みを感じるのだろうか? もし感じるならば、私たちは動物たちの扱いに気を遣う。私が抗生物質を飲んでやっつけるバクテリアはセンシェンスをもたない。叩いて潰す蚊もそうだ。でも、犬は痛みを感じるし、牛や類人猿も同様だ。だから私たちは動物愛護に関する法律を遵守するが、それをクラゲやサナダムシにまで適用したりはしない。動物界のどこからセンシェンスが始まるかについてはきちんとした合意はないものの、絶対にある、またはないと自信を持って言えるラインはある。


 コンピュータはセンシェンスを持つだろうか? 機械が痛みのようなものを感じることは、理論上可能なのだろうか? その答えは、コンピュータの意識についてどう考えるかに大いに関わる。経験できない存在は意識を持ちえないから、センシェンスは意識の必須要件となる。


 私が子どもだった頃、ミスティという名のワイマラナー(大型の犬)を飼っていた。一度私と友人スティーブがミスティと遊んでいたとき、ミスティは水道の蛇口を飛び越そうとして、不幸にも前足を切ってしまったことがあった。その時のミスティの悲鳴は、本当に痛々しかった。


 1998年にタイガー・エレクトロニクス社が売り出したロボットおもちゃのファービー人形は瞬く間に人気となり、3年間で4000万個が売れた。ファービーは徐々に人間の言葉を「学ぶ」ようにプログラムされていて、原始的なセンサーもいくつか搭載していた。そして、逆さまに持ち上げられると、「怖いよ」と悲痛な声で言うようにプログラムされていた。ファービーは本当に怖がっていただろうか? 誰もそうは思わないだろう。


 この2つの例の違いはどこにあるのだろうか。痛みとは一体何なのだろう。


 コンピュータに熱を検知できるセンサーを埋め込み、火のついたマッチをセンサーに近づけると「痛い、痛い」と言うようにプログラムしたら、そのコンピュータは痛みを感じているのだろうか? 感じていないというのなら、このコンピュータの悲鳴と、私の愛犬ミスティの悲鳴にはどういう違いがあるのだろう?


 宇宙の構成に関する根源的な問いを思い出してほしい。一元論か、二元論か? 覚えている人も多いと思うが、一元論は宇宙の中のあらゆるものが原子で作られていて、物理学に支配されていると考える立場だ。そのため、物質論または物理主義とも呼ばれる。あなたが一元論者なら、痛みと言う抽象的な概念自体も若干の問題を生む。


 一元論者はこう言うかもしれない。「痛みは純粋なる物理学だ。あなたもトンカチで親指を叩けば、その事実をすんなり受け入れられるだろう」


 しかし、この例における痛みとは、厳密には何のことなのだろうか?


 一元論者は型通りの定義を聞かせてくれるかもしれない。「疾患や怪我が原因で引き起こされる、脳内に生じる不快な感覚」であると。しかし、この定義はなんの助けにもならない。「不快な」という言葉は、快・不快とはどういうことかという新たな問題を生み、これは痛みが何かという問いと本質的に変わらない。「感覚」という語も問題だ。それ自体、私たちが今まさに理解しようと躍起になっているものではないか。何らかの感覚を得るというのはどういうことなのだろうか? また、もし脳内で痛みの場所を特定できるなら、脳に相当するものを持たない地球外生命体や奇妙な新種の生物や知性がある機械は、痛みを感じられないということになりそうだ。モナリザのような芸術品を描ける地球外生命体がいたとして、それがつま先をぶつけて飛び上がり、どれだけ痛かったか訴えてきたとしても、先ほどの痛みの定義に固執する一元論者なら、脳がないのに痛みを感じているわけがないと一蹴するかもしれない。この考え方には明らかに不満が残る。人と動物を含み、ファービーとバクテリアは除外し、木やコンピュータにはまだ可能性を残しておけるような、一元論者も満足できる痛みの定義はあるのだろうか? 難しい問題だ。


 あなたが二元論者であったなら、痛みに関してはまた別の問題がある。あなたは「痛み」が抽象的なものであること、実体のない存在であることには賛成するだろう。脳の中のどこにあるか、などと探す必要はない。あなたは、人や動物には当てはまり、ファービーは除外でき、植物や機械については可能性を残しておけるような形で痛みを理解することになんの問題も感じない。痛みは物理的なものではなく精神的な作用だ。これはまさに二元論の主張そのものだ。しかしこれでもまだ、一元論者がふっかけてくる、精神世界と物理世界がどうやって相互作用するのか、という議論は避けて通れない。もし痛みが物質ではない、物理世界の外に存在する何かだとしたら、一元論者はこう尋ねるだろう。「モノである親指をモノであるトンカチで叩いて、なぜモノではない感覚が生じるのだ?」


 どちらの立場をとるにせよ、共通していることがある。痛みが存在するためには、何かが痛みを感じなければならない。あなたが一元論者であっても二元論者であっても、そこには痛みを感じる「私」がいないといけない。私には、愛犬ミスティが痛みを感じる「私」を持っていたように思えた。ミスティに意識があった、と言っているわけではない。これについてはまたあとで論じる。ただ、彼女は痛みを経験できる自己を持っていたように見えたのだ。この話は、「自己」とは何かというあの根源的な問いに私たちを連れ戻す。


「痛み」を感じる証拠は何か?


 自己は脳のトリック、つまり脳の中の様々な部分が連携して作り上げた幻想だと考えるなら、似たようなトリックができるコンピュータを作れると考えるのは合理的であろう。それがセンシェンスをもつコンピュータだ。ただしこれは意識があるコンピュータではなく、単に何かを感じることができるコンピュータだ。もし、自己とは脳の創発特性であると考えるなら、この問いは未解決なものとして置いておかねばならない。創発現象はまだ解明が進んでおらず、予測可能な方法で機械的に再現できるかどうかも不明だからだ。そして最後に、自己とは肉体以外の何か、例えば魂や霊や生命力などといったものである、と考えるならば、感じることができるコンピュータを作ることなど論外だろう。人間が作った物体にその何かを宿すことができるというなら話は別だが。多くの人が、心霊スポットや幽霊屋敷の存在を信じているが、それが工場で大量生産できる類いのものであるとは考えにくい。


 どの生物が痛みを感じられるのだろう? 先ほども述べた通りこれはオープンクエスチョンで、今まさに熱い議論が繰り広げられているところだ。ここでは人から植物まで検証し、どういう結論が得られるか見ていこう。


 あなたは、あなた自身が痛みを感じることをもちろん知っている。あなた自身が感じていることだからだ。また、他人が痛みを感じているかどうかについても比較的自信をもって答えられるだろう。彼らがそう自己申告するし、うそをついているのでない限り、彼ら自身が痛みを感じている当事者に他ならないからだ。そして、私たちは哺乳類も痛みを感じるのではないかと推察する。彼らも人間と似たようなサインを出すし、私たちが痛みを感じる物事で同じように痛みを感じているように見えるからだ。類人猿がトンカチで自分の親指を打って吠えたら、あぁ痛かったんだな、と私たちは思う。その類人猿が手話でののしりの言葉を表現すれば、私たちはそれを追加の証拠として受け入れるだろう。しかし、哺乳類全般の痛みに関してはまだ完全なコンセンサスは得られていないのが現状だ。


 1990年より前に米国で教育を受けた獣医は、動物の痛みは考えなくて良いと教えられた。動物は何も感じていないと信じられていたからだ。こうした議論は今もなお、医薬品などの動物実験や、科学研究に動物を使うことの是非といった現実的な問題と関わっている。それから、20世紀後半になるまでは人間の赤ちゃんも痛みを感じないと信じられていて、麻酔なしで手術が行われていたというのも注目すべきことだ。


 哺乳類が痛みを感じるかどうかに関して万人の合意が得られていないという事実は興味深い。痛みを感じないという意見を持ち続けられるものだろうか? その考えが最近まで主流だったのはどういうわけだろう? 以下のような理屈らしい。「犬が針で刺されて後ずさるという行動には、単細胞生物のアメーバが見せる同じような動き以上の意味はない。単にDNAにプログラムされた反応だ。私たちが同じことをされれば痛みを感じるから、その感覚を犬に投影してしまうのだ」


 私には、哺乳類が痛みを感じないと考えるのは、人間にとってそのほうが好都合だからだとしか思えない。そう考えておけば、動物を扱うときに生じうるあらゆる倫理問題を回避できるからだ。誰も、ミスティが実は痛みを感じていなかったのだといって私を納得させることはできないだろう。だがしかし私のほうも、彼女が痛みを感じている「ようにみえた」としか言えない。厳密には、彼女が実際にそう感じていたかどうかを私は「知ることができない」からだ。


 哺乳類の痛みでこの始末だから、当然ではあるが魚や無脊椎動物についてはもっとコンセンサスが得られていない状況だ。彼らの行動から痛みを推し量ることはできない。耐えがたい痛みを感じながらも、捕食者に狙われないために全力でそれを隠しているかもしれないからだ。ただ、昆虫が痛みを感じないというのはどうやら本当のようだ。あなたも、身体のパーツが取れてしまっているのに全く気に掛けるそぶりもなく、何事もなかったかのように歩き回っている虫を見たことがあるだろう。サンゴは最も単純な作りをした生物の一種で、これも痛みを感じることはないようだ。そっと撫でられたときも、暴力的につつかれたときも、同じように反応するからだ。


 植物はどうだろう? 馬鹿げたことを、と思うかもしれないが、見えている以上のことが起きているかもしれないことを示す興味深い研究結果がある。植物が感じることができるというアイデアは、ピーター・トムプキンズとクリストファー・バードによる1973年発表の『植物の神秘生活─緑の賢者たちの新しい博物誌』(新井昭広訳、工作舎)から生まれた(古代から信じられていたことではあるので、再興したというべきか)。著者らは、植物が様々な感情を持つと主張している。植物にポリグラフ(嘘発見器)をつないでみたら、その葉っぱを燃やそうかと人間が考えただけで機械が反応したというCIAからの報告も載せられており、植物がテレパシーも使える可能性まで示唆されている。


 こうした実験は再現することが困難で、植物学者も半信半疑であったが、2013年のニューヨーカー誌に特別記事が掲載されるくらいには真剣に取り沙汰されたテーマだった。その記事は、たくさんの信頼に足る科学者らが証拠を挙げて主張していたり、少なくともこうした議論について言及したりしている文献を1万語にわたり引用しながら、その可能性について検討している。


 私が植物の痛みをここで持ち出したのは、植物がセンシェンスを持つと個人的に思っているからではなく、仮に植物が痛みを感じていたとしてもそれは私たちが持つ痛みという感じとは異質のものであるため、植物が痛みを感じているかどうか私たちは知りえない、ということを示したかったからだ。これは学術的な問題にとどまらない。DNAの多くを共有する植物が痛みを感じるかどうかもわからないのに、コンピュータが痛みを感じるかなどわかるだろうか? コンピュータが「痛い、今のは本当に痛かった」と言ったとしても、それはただプログラムの出力の結果だろう? コンピュータが自分自身をプログラムしてそう言ったのだとして、あなたはそのコンピュータが本当に何か感じたかどうか、わかるだろうか? 何らかの課題を与えられたAIが、「コンピュータの電源を落とされたら痛い」と言い張れば人間は電源を落とさないでいてくれそうだから、タスクを達成しやすくなるぞ、などと結論づけることはあり得そうだ。これはたとえコンピュータが実際は何も感じていなくとも、数学的に導出できる結論だ。


 センシェンスにまつわる諸問題について広くコンセンサスが得られていないことは驚くに値しない。ソクラテスもこうした疑問に夜眠れなくなるほど悩んでいたのだから。しかし、この本の読者としてあなたはもうそれなりに明確な意見を持てていることを願う。以下の問いにあなたの考えに従って答えて、「はい」の数を数えて欲しい。


1 犬は痛みを感じるだろうか?

2 昆虫やクモなどの無脊椎動物は(私たちとは違うやり方で)痛みを感じることができるだろうか?

3 植物は痛みを感じることができるだろうか?

4 神経系を持たない高度な進化を遂げている宇宙人は、人類とは全く異なる方法で痛みを感じることができるだろうか?

5 無機物(炭素を含まないもの)が痛みを感じることはできるだろうか?


  例えば、結晶、雷雨、水と泥からできた宇宙人、その他あらゆる無機的なものだ。



 はいと答えた数が多いほど、機械もセンシェンスを得られると考えていることになる。


17 自由意志



自由意志か決定論か


 コンピュータが意識を持てるかという問いに挑む前に検討すべき2つ目のトピックは、自由意志だ。自由意志は意識とどう関わっているのだろうか? あなたは日常生活の中で様々な事を経験し、選択する。経験は意識の基本だし、選択は自由意志そのものだ。あなたはパイナップルを味わうという意識的経験をして、もう一口食べるかどうかを自由意志で決める。経験と自由意志は、コインの裏表のような関係にみえる。パイナップルを食べるという経験をしたあなたと、自由意志を行使したあなたは同じであるように感じる。


 もし自由意志が完全に機械的なもの、つまりは幻想ならば、意識もそうであることが(証明されるわけではないが)示唆される。ただし、もし自由意志が唯物論的な原因と結果では表現できない何かなのだとしたら、意識もまた然りかもしれない。しかしその場合も2つの問いが生じる。「自由意志は何から生じるのか?」そして「コンピュータはそれを持つようになるのか?」


 私たちは物質世界を2セットの物理法則で理解している。1つ目のセットは大きな物が対象で、2つ目は小さい物を対象とし、どちらにも自由意志が入り込む余地はなさそうに思える。大きな物を扱う法則はニュートン力学と呼ばれており、その枠組みの中で起こる全ての作用には、原因がある。あなたの人生を彩るあらゆる事象は、今朝ベッドの角でつま先をぶつけたことにいたるまで、ビッグバンに端を発し今日まで連綿と続く出来事の積み重ねから導き出された、避けられない結果だったのだ。


 一方の小さい物に関わる法則のセットは量子論的見方で、こちらは原因のないところに作用が起こる、そしてその作用は完全にランダムに起こる、という。例としてよく放射性物質が崩壊していく様子があげられる。放射性物質は特定の速さで崩壊していくが、どの粒子が崩壊するかは完全に、ランダムという語が持ちうる最大の意味で、ランダムそのものだ。つまり、人間の根本は、ロボットかランダムに振る舞う生物のどちらかだということになるだろうか。


 私たちは、自由意志と呼べそうな何かを持っている。しかし、私たちはどうして自由意志を持っているのかほとんど理解できていない。ゆえに人は2つのグループに分かれる。自由意志を信じるリバタリアン(政治思想におけるリバタリアンとは別だ)と、信じない決定論者だ。ここで重要な問いは、あなたの脳が因果律に従うシステムか否か、ということだ。

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