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中国「宰相・功臣」18選 管仲、張良から王安石まで
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歴史
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李鴻章 清末、洋務運動の推進者

『中国「宰相・功臣」18選 管仲、張良から王安石まで』
[著]狩野直禎 [発行]PHP研究所


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りこうしょう[一八二三~一九〇一]


一、淮勇の招集



 字は(しよう)(せん)(ごう)()(あん)()省)の人。


 李鴻章は(どう)(こう)二十五年(一八四五)()(キン)(おもむ)き、(そう)(こく)(はん)(一八一一~七二)の門下に入った。曾は後に(どう)()(ちゆう)(こう)(よう)()運動家・第一人者として、高い評価を受けた。李鴻章の先輩であるばかりでなく、(とう)(じよう)(桐城は安徽省にある地名)の学者・文人として活躍する人物でもあった。李はその二年後の二十七年、(しん)()に合格し、(かん)(りん)(いん)に入った。(りん)(そく)(じよ)の場合と同じである。


 こうして北京で過ごしている間に、林則徐が再度、欽差大臣に任じられることになり、太平天国の乱が始まった。この乱は(カン)(トン)()県の(はつ)()(移住民)出身の(こう)(しゆう)(ぜん)(一八一四~六四)がキリスト教に触れ、自ら上帝エホバの子、天王と称して起こした農民叛乱であるが、(こう)(しゆう)が外国貿易の主流から外れ、それまでの商品(特にアヘン)の運搬からあぶれた密輸商人たちが加わっていた。そこで、アヘンの密輸ルートに沿って北上し、(ちよう)(こう)流域に広がってきた。


 ちょうどその時、曾国藩は母親が死に、喪に服すために故郷の()(なん)(しよう)(きよう)県に帰ってきていた。彼は湖南を防衛するように命じられたが、(しん)朝の正規軍(「(はつ)()」と言う)は頼るに足らずと見ていたため、民間より義勇兵を募集した。そして、湖南省の()(めい)湘にちなんで「(しよう)(ゆう)」と名づけ、太平天国軍と戦って成果を挙げた。


 この間、清朝では(どう)(こう)(てい)が没し、(かん)(ぽう)(てい)(在位一八五〇~六一)が即位した。太平天国軍は、咸豊三年(一八五三)(ナン)(キン)を占領して(てん)(けい)と名を改めてここに腰をすえ、一部の軍が北上した。このため、李鴻章は故郷に義勇軍を作るよう命じられ、帰郷した。しかし、事が思うようには進まず、失意の中に安徽を去って、当時(こう)西(せい)省の(けん)(しよう)に赴いていた曾国藩の下で幕僚として仕えることになった。咸豊八年(一八五八)、三十六歳の時である。


 当時、太平天国軍は南京を占領した後、さらに東に向かっては軍を進めず、長江沿いに西へ兵を出していた。そのため、身の安全を願う人々が上海(シヤンハイ)に集まり、さらに上海では広東・(ふつ)(けん)出身の商人を主勢力とする(しよう)(とう)(かい)の乱が(ぼつ)(ぱつ)した(一八五四)


 いわば、これらの(ない)(ゆう)と同時に(がい)(かん)が押し寄せてきたわけである。それは、「第二アヘン戦争」、あるいは「アロー戦争」と呼ばれるものである。咸豊六年(一八五六)、広東に停泊したアヘン密輸船アロー号に対して清朝が臨検を行ない、中国人船員十二名を海賊容疑で捕らえたことが発端で、英・仏連合軍が北京を占領するにいたった(一八六〇)。そしてその結果、北京条約が結ばれた。


 そうした中で、咸豊十一年(一八六一)に帝が没し、帝位継承を巡ってのごたごたの末、(どう)()(てい)(在位一八六一~七五)が即位した。

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