▼りこうしょう[一八二三~一九〇一]
一、淮勇の招集
字は少荃。合肥(安徽省)の人。
李鴻章は道光二十五年(一八四五)に北京に赴き、曾国藩(一八一一~七二)の門下に入った。曾は後に同治中興の洋務運動家・第一人者として、高い評価を受けた。李鴻章の先輩であるばかりでなく、桐城派(桐城は安徽省にある地名)の学者・文人として活躍する人物でもあった。李はその二年後の二十七年、進士に合格し、翰林院に入った。林則徐の場合と同じである。
こうして北京で過ごしている間に、林則徐が再度、欽差大臣に任じられることになり、太平天国の乱が始まった。この乱は広東省花県の客家(移住民)出身の洪秀全(一八一四~六四)がキリスト教に触れ、自ら上帝エホバの子、天王と称して起こした農民叛乱であるが、広州が外国貿易の主流から外れ、それまでの商品(特にアヘン)の運搬からあぶれた密輸商人たちが加わっていた。そこで、アヘンの密輸ルートに沿って北上し、長江流域に広がってきた。
ちょうどその時、曾国藩は母親が死に、喪に服すために故郷の湖南省湘郷県に帰ってきていた。彼は湖南を防衛するように命じられたが、清朝の正規軍(「八旗」と言う)は頼るに足らずと見ていたため、民間より義勇兵を募集した。そして、湖南省の雅名湘にちなんで「湘勇」と名づけ、太平天国軍と戦って成果を挙げた。
この間、清朝では道光帝が没し、咸豊帝(在位一八五〇~六一)が即位した。太平天国軍は、咸豊三年(一八五三)に南京を占領して天京と名を改めてここに腰をすえ、一部の軍が北上した。このため、李鴻章は故郷に義勇軍を作るよう命じられ、帰郷した。しかし、事が思うようには進まず、失意の中に安徽を去って、当時江西省の建昌に赴いていた曾国藩の下で幕僚として仕えることになった。咸豊八年(一八五八)、三十六歳の時である。
当時、太平天国軍は南京を占領した後、さらに東に向かっては軍を進めず、長江沿いに西へ兵を出していた。そのため、身の安全を願う人々が上海に集まり、さらに上海では広東・福建出身の商人を主勢力とする小刀会の乱が勃発した(一八五四)。
いわば、これらの内憂と同時に外患が押し寄せてきたわけである。それは、「第二アヘン戦争」、あるいは「アロー戦争」と呼ばれるものである。咸豊六年(一八五六)、広東に停泊したアヘン密輸船アロー号に対して清朝が臨検を行ない、中国人船員十二名を海賊容疑で捕らえたことが発端で、英・仏連合軍が北京を占領するにいたった(一八六〇)。そしてその結果、北京条約が結ばれた。
そうした中で、咸豊十一年(一八六一)に帝が没し、帝位継承を巡ってのごたごたの末、同治帝(在位一八六一~七五)が即位した。