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万葉の心(毎日新聞出版)
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文芸
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豊かなる民衆

『万葉の心(毎日新聞出版)』
[著]中西進 [発行]PHP研究所


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履はけわが背



 すでに幾度もふれて来たように、千年の後に詩人の名をほしいままにしている万葉歌人は、「万葉集」を形づくる詩人の、ほんの一部にすぎない。彼らを高嶺の花とすれば、ひそやかな谷あいに、また幅広い裾野に、野の草の花は咲きみちて、広がっている。


 その中で、もっとも新鮮な美しさに輝いているのは、(あずま)(うた)とよばれる一群の歌であろう。すでに「わが恋はまさかも愛し」という歌を冒頭にあげたが、そのようにひたぶるな真情を彼らが歌いえたのは、彼らが、確実に生活の中から詩を歌いあげたからだ。


(しな)()()は今の(はり)(みち)(かり)(ばね)に足踏ましなむ(くつ)はけわが背

作者未詳(巻十四、三三九九)



 東国をつらぬく二つの道、海ぞいの東海道に対して山の中の東山道は、美濃(岐阜県)、信濃(長野県)を経過して碓氷峠から下野をへて陸奥にいたる。その信濃の道の開墾は、多くの農民たちの力役によって行なわれたが、新しく開かれたばかりのその道は、方々に切り株がある。足を傷つけるだろうから履をはいてゆけと夫に呼びかける妻の歌である。夫は、()()という都の守護の役にかり出されてゆくのかもしれない。また単に夜も深いのに、愛する女のもとから帰ってゆくのかもしれない。実は、それをはっきり決めるということは、東歌にとってむしろ正しくないのである。彼らの歌は集団の場で、広く長く歌われた。そのさまざまな場に、より多く適応する歌が彼らの愛誦歌なのであって、勝手な解釈をわが身にひきつけていながら歌っても、何ら差しつかえないのだった。そこにこそ、彼らの深い共同体の共感があったのである。

「履はけわが背」──当時の民衆は、はだしだった。履など、民衆には高価なもので、それを「はけ」と歌うところに、いじらしい愛があるし、愛する男を持つ女たちの願望がある。夢想の中で履をはいた男の姿は、それぞれの女の胸の中に、あざやかに現われて来るのだ。


 夢想は人々を詩人にする。


()けばかがる()が手を今宵もか殿の(わく)()がとりて歎かむ

作者未詳(巻十四、三四五九)



 これも女の歌だが、「殿」とよばれる郡司か(さと)(おさ)(村長)の家で、稲を精白する仕事にかりだされている女たちの労働歌である。彼女たちは「殿」の家の若主人に見そめられる機会がある。それを空想して、今夜もわたしのあかぎれした手をとって、若殿さまは嘆くだろうか、と歌うのである。チャンスはあったとしても、そうなることはめったにない。ないけれどもなることを憧れて、自分を恋の主人公に仕立てながら、彼女たちは日がな一日、来る日も来る日も稲をつくのである。一面にあかぎれのした手で。


 だから、東国の人々の歌はいかに夢みたとて、生活の現実を離れることはない。生活と夢とのはざまに、二つをゆき来しながら、彼らは歌をうたった。そのゆえに、東歌は貧しい現実をせおいながら、けっして暗くない。むしろたくましい命にあふれている。


 彼らは、そのような歌を生活の折り折りに歌う。つねに歌の享受は、共同体の共感にささえられ、我も人もともに歌の作者であった。東歌は「万葉集」の中でも、かなり時代のさがったころに筆録されたものと思われるが、同じころ、都の大伴家持を襲っていたような「ひとり」の憂愁は、彼らになかった。


 東歌の中には、「ひとり」という語が驚くほど少ない。ほとんどが恋の歌で、恋そのものが孤独な感情なのだから、これは巻十一や十二の民衆の恋歌にくらべて、大変な相違である。その数少ない「ひとり」の歌に、次のような一首がある。


おして(いな)と稲は()かねど波の穂のいたぶらしもよ()()ひとり寝て

作者未詳(巻十四、三五五〇)



 やや難解な歌だが、やはり稲舂きの労働歌で、稲舂きがしいて嫌だというわけではないが、心が激しく揺れて気のりがしない。なぜなら昨夜は男が来ないでひとり寝たからだ、という意味である。女同士、この欲求不満のイライラはよく通じ合ったのだろう。

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