『ウイグル人に何が起きているのか 民族迫害の起源と現在』
[著]福島香織
[発行]PHP研究所
羊の代わりに警官が増えた
カシュガル(新疆ウイグル自治区カシュガル市)を最初に訪れたのはいつだったか。2019年5月9日、あらためて思い返してみると、成都経由の四川航空でカシュガル空港に初めて降り立ったときからすでに20年近くたっていた。
当たり前のことかもしれないが、昔の記憶のなかの町の面影は完全に失われていた。
1999年の7月、上海での業務留学期間を終えて記者業復帰までに若干の休みがあり、両親がシルクロードに行ってみたい、と言い出したこともあり、10年ぶりくらいに親子旅行に出掛けたのだ。
このときウルムチ、トルファン、カシュガルなどを、私が覚えたての中国語で案内した。お膳立てされたツアーではなく、私流のいつもの自由旅行のやり方で還暦を過ぎた両親を炎天下の新疆地域で引っ張り回したので、父はあとあとまで「大変な旅行だった。あんな旅行は二度とごめんだ」と思い出しては笑っていた。その父は亡くなっている。
当時は私も新疆の政治情勢には疎く、中国に対しての理解も深くなかった。いま思えば、グルジャ事件の翌々年で現地は緊張していたはずだ。だが印象に残っているのは強烈な日差しと、砂埃のなかで日干し煉瓦の建物のあいだの隘路を、お尻に脂肪をため込んだ薄汚れた羊がひしめいている光景だった。あのころは町中にも羊がいて、羊のにおいが立ち込めていた。
その羊の脂っこいシシカバブや、ポロと呼ばれるウイグル風ピラフはじつに美味だった。中国語も通じないし、漢族もほとんど見掛けない。女性はスカーフに長いウイグル風のスカートを着ている人が多かったし、男性はほとんど四角い独特のウイグル帽をかぶっていた。私よりも下手な中国語を話す運転手は、気さくで親切でいい加減で、少々小狡いところがあった。だが、みんな陽気であった。どこから見てもそこは中国ではなく、「異国」だった。
約20年たって再び訪れたカシュガルは、完全に中国の町になっていた。観光客はほぼ100%漢族だ。タクシー運転手にも中国語が普通に通じる。20年前は、中国語が通じないことが当たり前だった。
空港の乗り合いタクシーに15元支払って、旧市街に入る。
羊がすっかりいなくなっていた。代わりに、警官がやたら増えていた。20年前は、町中で警官の姿はそんなになかった。
町は綺麗に整備され、拡大され、立派な観光都市になっていた。漢族も増えていた。ウイグル人7に対して、漢族3といった割合だろうか。至るところに共産党の標語、スローガンの垂れ幕が貼ってある。「有黒掃黒、有悪除悪、有乱治乱」「民族団結一家親」……。
ホテルの出入口でX線と金属探知ゲートのチェック
ネットで予約したヌルランホテルに到着すると、出迎えてくれたのは防刃チョッキを着たウイグル人女性警官だった。
ホテルに入るには、まず荷物と身体チェックが必要だった。空港にあるようなX線の透過装置と金属探知機のゲートがホテルの入り口にも設置され、出入りするたびに必ずチェックを受けなければならない。中国では特別の厳戒態勢が敷かれたとき、たとえば国際会議や要人の宿泊に際しては、ホテルでこうした徹底した安全検査設備を設置することは知っているが、カシュガルではこれが日常、スタンダードらしい。ウイグル人女性の警官がかわいくて愛想がよかったのが、少しだけ物々しさを緩和していた。
あとで街を散策して分かったのだが、ホテルどころかスーパーも地下道も、ショッピングモールも、バザールも必ず出入口でX線による安全検査と金属探知ゲートによるチェックが求められた。その近くには、防暴用の盾をもった警官が控えている。