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ウイグル人に何が起きているのか 民族迫害の起源と現在
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政治・社会
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第二章 民族迫害の起源

『ウイグル人に何が起きているのか 民族迫害の起源と現在』
[著]福島香織 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間3分
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 ウイグル人の悲願は「東トルキスタン」を取り戻すことだ、といわれている。かつて東トルキスタンという国がいまの新疆地域に登場しては消え、最終的に中国共産党に飲み込まれた過程というのは複雑すぎて、素人でもすっと分かるような読みやすい参考書本というのはあまりない。


 東アジア史家の宮脇淳子氏におすすめの本を尋ねたところ、いくつか教えてもらったのだが、古本屋でみるとわずか20年前に定価3000~4000円ほどの本が何万円もしていた。仕方がないので、そのうちいちばん安かった『アジアの歴史と文化〈8〉中央アジア史』(竺沙雅章監修、間野英二編集、同朋舎)を買ったのだ。つまり、これから紹介することは、この本や月刊誌『別冊正論Extra15』(産経新聞社、2011年6月22日発行)などの宮脇淳子論文、日本ウイグル連盟やウイグル人権プログラムのホームページの解説、中国語版ウィキペディアからの受け売りであることをお断りしておく。


 ウイグル人とは、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアにかけて活動したチュルク系遊牧民族およびその国家、その末裔の人々で、今は新疆ウイグル自治区やカザフスタン、ウズベキスタン、キルギスなどの中央アジアに居住している。ウイグルとはチュルク語で「同盟・協力」の意味で、現代のウイグル人の祖先にあたる人たちは自分たちのことをチュルクと呼び、その中核の集団をウイグルと呼んだそうだ。


 チュルクというのは漢字で書けば「突厥」、いまのトルコの起源にも通じる。トルキスタンというのは「チュルクの土地」といった意味で、チュルク語系民族が居住する中央アジアからタリム盆地、ジュンガル盆地、トルファン盆地あたりの地域の総称。パミール以西を西トルキスタン、その東を東トルキスタンと通称する。現代の国名でいえばカザフスタン、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタンが西トルキスタンにあたり、中国新疆ウイグル自治区が東トルキスタンにあたる。今、独立国家になっていないのは新疆ウイグル自治区だけ。つまり東トルキスタンだけ、ということになる。



 ウイグルは、7世紀半ばから8世紀半ばに、いまのモンゴル高原からジュンガルあたりに遊牧国家を築き、8世紀半ば唐の冊封体制にはいり、東突厥を滅ぼしてモンゴル高原の覇者となった。そのウイグル国が瓦解すると諸部族は分散し、天山ウイグルや甘州ウイグルなどの王国を築く。天山ウイグルはトルファンなどのオアシス都市を手に入れ、住民の構成と主要言語をチュルク化していく。


 一方、起源は諸説あり、よく分からないが、11世紀ごろ天山ウイグルからカラ・ハン王朝が分離し、チュルク系民族として初めてイスラム文化を受容、カシュガルを中心にタリム盆地西半分にチュルク系イスラム文化を広げた。この時期のこの地域に築かれた豊かでシステマチックなウイグル文化が20世紀初頭にこの地域のエスニックグループの代表的な名称として採用され、現代のウイグル人および新疆ウイグル自治区などの名称につながっている。


 天山ウイグル国は12世紀に勃興するカラ・キタイ(西遼)に帰属するも、チンギス・ハーンの呼び掛けに応じてカラ・キタイの駐在代官を殺害し、モンゴル側に帰属するようになる。チュルク・ウイグル文字文化が成熟していた天山ウイグル国との関係が、モンゴル帝国の形成に大きく貢献した。


 カラ・ハン朝は11世紀半ばに東西に分裂し、西カラ・ハンはサマルカンドを首都にし、アッバース朝のカリフを承認。東カラ・ハンはカラ・キタイに帰属するもカラ・キタイの王位簒奪者ナイマン部のクチュルクに滅ぼされる。だが、この地域のチュルク系言語を操る文化度の高いウイグル人たちは、そのままモンゴル帝国内で頭脳として活用されていった。その意味では、ウイグル社会・文化の伝統を維持したのはモンゴル帝国の体制だった。


 モンゴル帝国解体後、東チャガタイ・ハン、モグーリスタン、ヤルカンド・ハンなどモンゴル系王朝がタリム盆地あたりを支配するが、モンゴル支配層はウイグル語やイスラム教を受容し、諸都市はイスラム宗教貴族ホージャ(ホシャ、ホジャ)が統治していた。その後、モンゴル系のジュンガルがこの地域に支配を拡大。ジュンガル帝国3代目のガルダン・ハンはタリム盆地からモンゴル高原西部に至る大帝国を築き、清朝と対決することになる。


 康熙帝、雍正帝、乾隆帝と3代にわたる戦争期をへて、清朝はジュンガル帝国を滅ぼし、続いてヤルカンド・ハンを滅ぼして、東トルキスタンにあたるジュンガル・タリム盆地は清朝のものになった。乾隆帝はこの新しい征服地を新疆(新たな領土)と命名。ここにおいて、パミール以東の中央アジアの政治的独立は喪失された。


「新疆」の命名は、盛唐ですら新たな領土の獲得は実現しなかった「非常之功」という乾隆帝の自負が込められているが、これは東トルキスタン地域を漢時代以来中国固有の領土とするいまの中国共産党の見解と、当時の征服者自身の乾隆帝の見解が違っていたということでもある。


 清朝は、新疆を維持するためにかなりの出費を負った。国家財政7000万両時代に毎年300万両を新疆地域に送ったという。一方で統治システムはジュンガル式支配を踏襲した。民政は現地のムスリム有力者に委ね、オアシス諸都市に小規模軍隊を駐屯させた。新疆統治の最高責任者は「イリ将軍」であり、宗室(皇族)を含む満洲人有力者のみがその任に当たれた。


 清朝の支配下で、新疆にはある程度の繁栄と安定がもたらされた。各都市の行政長官にあたる「ハーキム・ベグ」に任ぜられたムスリム貴族は小宮廷をつくり、清朝の軍政官から(せい)(ちゆう)を受けつつ、支配下民衆に対しては君主として振る舞い、イスラム法(シャリーア)が施行されるイスラム社会を維持した。清朝のこうしたムスリム有力者たちに対する優遇は、少数の満州人が大多数の漢人を統治するためにムスリムの民族を味方につけておくためだ、という説もある。


 だが19世紀に入り、国際情勢が著しく変化し、清朝がその変化に対応しきれず、また内政の腐敗によって財政が悪化してくると、新疆の安定は揺らぎ始めた。そこに清朝のジュンガル征服のプロセスで討伐を受けたカシュガル・ホージャの末裔が、失地回復の聖戦をしかけてきた。


 カシュガル・ホージャとは、パミールの西方から(じゆん)(しやく)してきたイスラム神秘主義(スーフィズム)の一派、ナクシュバンディー教団を中央アジア最大に発展させた指導者ホージャ・アフラールの()(はつ)を継いだアフマド・カーサーニーの子孫たちの総称。彼らは、清朝に追われて現ウズベキスタン・フェルガナ州当たりに位置するチュルク系イスラム王朝コーカンド・ハン(西トルキスタン)に亡命したのちも新疆内の帰依者と内通しており、失地回復を企んでいた。


 清朝の国力が衰退してきたちょうどそのころ、このスーフィズムの宗教革新運動といえるイスラム伝播の第3波が起きていた。その波に乗るかたちでホージャたちは1814年以降、ジハードと称して小規模な侵入を繰り返した。コーカンドはホージャたちを監督するという名目で清朝から贈与を受けてもいた一方で、ホージャたちの聖戦を後援していた。


 一方、清朝はアヘン戦争を経てますます疲弊、中央から新疆への送金は完全に絶え、困窮した軍政官は人頭税やコーカンド商人に対する臨時課税などを搾取し出すのだが、これに反対する蜂起が散発していた。他方、内地では(かん)(しゆく)あたりから移住していた回民(ムスリム)が漢人と宗教的、経済的対立を先鋭化させ、回民の民間武装組織による反乱が頻発していた。


 清朝は、漢人の民間武装組織を利用して回民の反乱を押さえようとした。だが、漢人は「洗回」と呼ばれる非武装の一般回民への虐殺を行ったため、回民の反乱は急速に拡大。この噂が新疆に伝わり、しかも「洗回」は清朝の命令によるものだと信じられたため、1864年、回民とチュルク系ムスリム(ウイグル人)が連合して蜂起。この反乱は急速に新疆全土に広がった。各地の反乱指導者たちはイリをのぞいてすべてスーフィーだった。


 カシュガルの反乱軍から応援を請われたコーカンド・ハンによって派遣された軍人ヤクブ・ベクは、ロシア軍によるタシケント占領によって東トルキスタン地域に流れてきたコーカンド武装勢力を吸収し、(またた)く間に東トルキスタン全域を支配下に置き、カシュガル・ハン国を建てた。これにより、東トルキスタン地域には再びチュルク系イスラム政権が樹立。ロシア、イギリスと通商関係を結び、オスマントルコを宗主国とし、国際的にもその地位が認められた。



 清朝に対し「ヤクブ・ベクが清朝の名目の宗主権を認めればその自立を認めるべきだ」という「海防論」の()(こう)(しよう)と、最大の敵はモンゴルであり、モンゴルから北京を守るためには新疆は死守せねばならないという「塞防論」の()(そう)(とう)が対立、左宗棠の意見が勝ち、1875年に左宗棠が総司令官となって新疆の再征服が行われる。


 新疆は再び清朝の支配下に置かれたが、これを機に、イリ将軍やハーキム・ベグによる間接統治を解消、内地と同様の清朝官僚による直接統治となり、1884年に新疆省となった。そして現地の子女に漢語学習を強制し、同化政策を進め、その結果、この地域の人々のアイデンティティは危機に見舞われ、民族主義運動が発生するようになった。


 このころの中央アジアは、英国とロシアの勢力争いの場でもあった。イリはロシアに占領されていたが、露清間でイリ条約(1881年)が結ばれ、清朝が900万ルーブルの償金を支払うのと引き換えに、清朝に戻された。イリ条約では、ロシアの商業活動を免税にするとしていたので、その後、イリではロシア人人口が急激に増え、しかも彼らはロシア人といいながらも民族的にはタタール人やウズベク人、つまり西トルキスタンのチュルク系ムスリムだった。彼らはロシアの圧政に対する反発から生まれた思想的、政治的新潮流を新疆にもたらした。


 彼らが、その思想潮流を支える近代的教育方式(ウスリ・ジャディード)の普及を広める動きをジャディード運動という。これに影響を受けて、新疆から「先進地」のクリミア・タタール、トルコ・イスタンブールなどに留学生が派遣されるようになった。彼らの大部分は新たに台頭してきた商業資本家の子弟であり、新疆における近代的知識層を形成し始めた。この知識層がのちに「東トルキスタン共和国」の成立に大きな役割を果たしていく。


 だが、民族主義運動とこうした知識階級が結びついて形成された思想は「汎トルコ主義」「汎イスラム主義」としてやがて中国の安定を脅かすと考えられ、弾圧の対象にもなっていくのだった。



 清朝滅亡までの30年間の新疆(東トルキスタン地域)は比較的、小康状態が保たれた。1911年に辛亥革命によって清朝が滅び、中華民国が成立する。このときに外モンゴルは赤軍の指導を受けて独立し、ソ連の衛星国となり、チベットは紆余曲折をたどって事実上の独立国となった。だが新疆では漢人による権力争い以上のものはなかった。

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