『家族が幸せになる心理学』
[著]加藤諦三
[発行]PHP研究所
❖人からよく思われようと努力すれば利用されるだけだ
ところで、人によく思われようとして努力する人は多い。しかし人によく思われようとして努力しても、まず絶対と言っていいほどよく思われることはない。時には馬鹿にされるだけである。よく思われないことだけは間違いない。私は身に染みてそれを味わってきた。
人によく思われようとして努力する人は、たいてい苛められるタイプの人である。よく思われようとすることで苛めタイプの人を周囲に集めてしまう。しかし、よく思われるどころか、都合のいい人と思われるだけである。
人によく思われるのは相手を愛した時である。相手に対してこちらが思いやりを持った時である。
考えてみればこれは当たり前である。人によく思われようとするということは、自己執着であるから。自己執着の強い人を「いい人」と思う人はいない。自己執着の強い人に好意を持つ人はいない。
好意は持たないけれども利用価値があるから、人はその自己執着の人とつき合うだけだろう。つまり人によく思われようとして努力すれば、利用されるだけである。
人によく思われようとする努力というのは、すべて水泡に帰するだけである。むしろ逆効果である。心埋的に健康な人は集まらないで、苛めるタイプの人ばかりが集まる。
そういう努力さえしなければ、少なくとももっと重く扱われていたかもしれない。そうした努力をするから、馬鹿にされたのである。そういう努力をするから、ずるい人に「利用価値があるな」と目をつけられてしまったのである。
この本ではそういうあなたを利用しようとする人はどういう人かを考えた。人を苛めるタイプの人はどういう人かということである。
そもそも、あなたが周囲の人に好かれようとしていることが間違っていたのである。あなたは多分周囲の人を嫌いである。誰も彼もが嫌いとは言わない。しかしほとんどの人が嫌いではなかろうか。
人間関係で服従的なあなたは、心の底では服従の裏に敵意を持っている。エーリッヒ・フロムの指摘を待つまでもなく、敵意と服従は同じコインの裏と表である。
あるいは周囲の人を「嫌い」とか「好き」とか、そんなことを考えたこともなかったかもしれない。もし好きならば昔つき合っていた人とも今も関係があるはずである。その当時接していた人も好きではなかったのである。だからその場を去れば関係はなくなる。今周囲にいる人たちとも同じではないだろうか。
私が言いたいのは、今あなたは愚かなことをしようとしている、ということである。あなたが周囲の人によく思われようとするということは、あなたが嫌いな人によく思われようとすることである。
❖自己不在の言動を続けると誠実な人は逃げてゆく
私たちは自分が嫌いな人からよく思われることはない。人間は相手が自分を嫌いであることはどこかで感じる。意識しなくても、心の奥底で何となく感じる。
こちらも相手を嫌いとは意識していない。相手もこちらが嫌いとは意識していない。でも何となくお互いに感じる。お互いに意識していなくても気持ちがそうなっている。
つまり、その人と一緒にいても何となく楽しくないとか、すぐに離れたくなるとか、すぐに退屈するとか、何かすることがないと何を話していいかわからなくなるとか、居心地が悪くなるとか、いろいろな心理的症状となって現れてくる。それなのにあなたはよく思われようと努力する。
あなたはその愚かなこと、自分が嫌いな人からよく思われようとする努力を、今までして生きてきたのである。努力は徒労になるのは当たり前である。消耗し、やる気をなくすのは当たり前である。あなたの努力はことごとく意味のない努力だったのである。効果がゼロではなく、マイナスであった。つまり努力しないほうがよかった。
あなたは人からよく思われようとする努力をしながらも、よく思われないから周囲の人をますます嫌いになる。自分を苛める人を好きになる人などいない。あなたは心の底で周囲の人を恨む。それまでいた、まともな人たちは、あなたのその自己不在の言動を見ながら、嫌気がさして去って行く。