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日本は本当に「和の国」か
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人文・科学
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第二章 神話が示す、民族のアイデンティティ

『日本は本当に「和の国」か』
[著]吉木誉絵 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間30分
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神話は何を伝えているのか


 神話は、その民族にとってのゆりかごである。以前、宮崎県(たか)()()町にある、とある神社の宮司さんが、「神話は民族の原体験なんですよ」と私に語ってくれた。高千穂と言えば、天孫降臨をはじめとした、数々の日本神話が息づく場所である。この言葉は、神話が私たちにとってどのような存在かを端的に表現しているように思う。


 民族の原体験とは一体何であろうか。原体験とは、「その人の人格形成や、行動の方向づけに、知らず知らず影響を及ぼしている、幼少期の体験」(『日本国語大辞典』)だという。原体験は、記憶の底に残り続け、その人が意識しているかどうかにかかわらず、生涯に亘って影響を及ぼし続けると考えられている。


 これを民族に置き換えると、「その民族の性質の形成や行動様式に影響を及ぼしている、民族にとっての幼少期の体験」となろう。「民族にとっての幼少期」、つまり民族という共同体が形成され、発展していくその初期の記憶を、体験を、こころを、神々の物語として伝えているのが神話である。


 また、神話は、人類にとって、人類と母なる大地を結ぶへその緒である。神話はそれを共有する民族だけにその価値がわかるというものではない。神話は、太古の人類の普遍的な記憶や思考を保管している。


 神話が、神話というひとつの整ったまとまりとして現れるのは、世界史でいうと新石器時代といわれており、これは日本でいうと縄文時代にあたる。人類学者の中沢新一氏は、新石器時代よりも前の中石器時代に神話は語り出されたと述べている。中沢氏は、この頃に現れた最も古いタイプで、全ての神話の基礎となっている神話を、「古神話」(プロト神話)と呼んでおり、全世界各地域にみられる膨大な数の神話は、その基本型である古神話から派生、変化したものだという。


 また、その断片的な神話の要素はさらに遡って後期旧石器時代(今から五万~一万年前)にまで見出すことができるとい()。後期旧石器時代といえば、ネアンデルタール人などの旧人類から、私たち現生人類(今日地球上に存在する人類、ホモ・サピエンス)が主流となった時代で、石器の多様化など高度な技術革新が勃興した時代である。また、洞窟内部や岩面に動物や狩りの様子などの壁画が施されたり、ペトログリフといった文字のようなものが刻まれ始める時代、つまり、ヒトとしての文化のはじまりである。学者によっては、現生人類はネアンデルタール人とも交配していたといわれていることを理由に、ネアンデルタール人ともいくつかの神話を共有していた可能性を指摘してい()


 また、後述するように、近年の新たな人類学的発見や学問の進歩に伴い、現生人類が誕生したとされるアフリカにおいて、現生人類がアフリカを出て世界に拡散する以前から、既に神話を語っていた可能性すら指摘されている。全ての神話の祖型である神話の誕生は、従来考えられているよりも、さらに数万年遡るかもしれない。


 いずれにせよ、神話は私たちの「ヒト」たる所以(ゆえん)を語る最古の物語であり、それを読むということは、人類祖先と対話するということである。



 しかしながら、現代に生きる私たちは「神話」と聞いたときに、まず何を思い描くだろうか。神々や英雄の物語を思い浮かべたとしても、それらはファンタジーに過ぎない、科学的根拠に欠けた空想上の物語で、趣味ならまだしも、学ぶのには値しないと考えている人は多いのではないだろうか。また、神話という言葉は、はっきりとした根拠も無しに絶対的なものと信じられている事柄を、比喩的に言い表すときにも使われる。例えば「安全神話が崩壊した」などと使用されることもある。総じて、神話という言葉の響きには、何か神秘的なものと裏腹に子供じみた稚拙さを現代人は感じているのではないだろうか。つまり、科学的事象を知らない原始社会に住む人々が生み出した作り話に過ぎない、と。


 しかし、このような神話に対するネガティブな印象に引きずられて、また戦後日本の神話を軽視する風潮に飲み込まれて、神話に無関心でいるのはあまりにも勿体ない。神話は、私たちのなかなか捉え難いアイデンティティを凝結した物語である。そして、人間は神話を必要としなかったことは一度もない。


 本章では、民族のアイデンティティを神話に求めることの妥当性について述べたい。

無意識の世界が神話に表れている?


 私は、第一章で語ったように、日本の神話が自分の気質について語っているという、不思議な感覚を味わった。しかも、それは日本人の気質として、日本人一人ひとりが同じく、かつ無意識的に身に付けていたものだった。神話と出会って、私は初めて無意識に潜む自分の影を捉えた気がした。「我とは何ぞや」という命題を明らかにするためには、無意識下の自分と対峙しなければならない。しかし、当然ながら無意識を意識することは不可能である。


 無意識とは、私たちが意識することは叶わないが、遥か向こうから私たちの意識に絶えず作用しているとされる、人間の思考領域のひとつである。私たちが無意識を意識することはできないが、しかし無意識の世界が神話に表れているとしたら、どうだろうか。もし、神話が無意識下にある私たちの思考や行動規範を物語という手段によって表現しているとしたら、神話は自分自身を知る根源的な手がかりになるのではないだろうか。


 では、そもそも無意識とは何だろうか。意識的な思考とは、いわずもがな、“私”が思考しているそのもののことを指す。例えば、今あなたは拙著を「ふむ、なるほど」「いや、自分はそう思わない」など考えを巡らせながらお読みくださっていることと思うが、まさにそれは自覚的で自分で自分の思考を認識できるものである。しかし、そういった“私”の思考の奥深くには個人を超えて見知らぬ他人と共有している「集合的な思考」、「大勢の人々をとらえる無自覚な思考の領()」があるというひとつの学問的考え方がある。この領域は無意識的なので、意識的な“私”の思考では直接手に触れたり、眺めたりすることはできない。


 無意識の分析では心理学者のフロイトやユングが有名である。心理学で無意識の領域に焦点が当てられたことは、後の神話分析の方法に大きく影響したといわれている。


 無意識の説明としてよく用いられるのが、フロイトの氷山の比喩である。これは人の心を氷山に例えたもので、すなわち、私たちが自覚できる意識的な部分は海面に見えている氷山の一角に過ぎないという。しかし海中の氷山は光が届かないほどの深い海底まで沈んでいる。この海中に沈んでいる部分こそ、無意識の領域だという。フロイトによれば、この意識と無意識の間には前意識(意識のすぐ下に存在し、努力すればすぐに意識化できるもの。例えば昨日の夜ご飯の献立など忘れやすいが思い出せるもの)と呼ばれる部分が存在し、人間の心は、この意識・前意識・無意識の三つの層で成り立っている。さらに、この氷山は次のような構成要素に分かれ、それぞれが相互作用しながら人間の行動に影響しているとい()(図2─1




 まず、快楽に従う原始的本能の部分で、完全に無意識下にありその無意識の領域のほとんどを占める「エス(id)」。対人関係、慣習、ルールなどの現実的状況に従い意思決定を行う意識ある部分と前意識、無意識に亘る「自我(ego)(エスの欲求を現実的判断によって調整する機能もある)。そして自我が現実によって行動を判断するのに対し、倫理的、道徳的価値基準に従い判断し、自我と同じく意識、前意識、無意識の領域に亘って存在する「超自我(superego)」。私たちの思考や行いはこれら三つの部分の相互作用による結果の表れだという。ちなみに、超自我は三歳から五歳ほどで出現してくるという。フロイトは、無意識は人間の行動に多大な影響を及ぼすということを示したのだ。フロイトは、無意識の内容はほとんどが幼児期から制御された個人の願望や欲求の「抑制」だと考えた。


 そして、その無意識下にある抑制は、人が寝ている間にみる「夢」に、様々なモチーフやシンボリズムとして表れ出ると考えた。さらにそのようなモチーフは、夢に特有なものではなく神話にも発見することができるとみなした。例えばギリシャ神話のひとつ、オイディプス神話──主人公オイディプスがテーバイの王を実の父親と知らずに殺し、自らが王となり、その妃を自分の妻として娶ったところ、その妻は実の母親であった──という有名な神話は、男児にとって初めての性愛の対象は母親で、敵である父親の地位を獲得したいという、男児の無意識の欲求が表象したものと考え、そのような隠れた欲求をエディプス(オイディプス)・コンプレックスと名付けた。


 このような、フロイトによる神話と無意識に関する研究は、フロイトの弟子だったユングにも大きな影響を与えた。しかし、フロイトは無意識を個人の経験によって獲得した個人的無意識だと考えたのに対し、ユングはそれとは別の、原始的でたくさんの人々の間で共有される「集合的無意識」の領域の存在を主張した。


 ユングはフロイトと異なり、無意識は二つの層で成り立っていると考えた。一つ目の層を、個人的な過去や生活に由来す()「個人的無意識」(personal unconscious)と呼び、ここは基本的にはフロイトの無意識の理論と同じである。しかし、ユングは個人的無意識に加えて、もう一つ、より深い場所に二つ目の無意識の層があるとし、それを「集合的無意()(collective unconscious)」と呼んだ。


 ユングによると、集合的無意識とは、原始的で先祖から継承する潜在的な記憶の貯蔵庫のようなもので、人々の間で共有される超個人的な無意識である。先祖からの記憶とは、自分の先祖というよりも、全人類にまで及ぶ壮大な記憶のことを指す。ユングはこの普遍的で原始的な潜在的記憶を、人類に共通する基本的な行動パターンであるとし、それを元型(archetype)と呼んだ。元型は心の深い場所に隠れていて意識されることはない、不可視のものであるとい()。しかし、意識することができなかったとしても、別の形で意識の層へ表れ出る場合(原始心像あるいは元型的心像と呼ばれるも()がある。その代表が神話である。


 例えば、異なる民族、地域の神話であるにもかかわらず、似通った物語のパターン、神話的モチーフ(例えば、夫が死者の国に行った妻を取り戻そうとする、火を神から盗んだのが火の起源、人間の傲慢さを罰するために洪水を起こす、など)が世界中に分布しているのは、その元型の作用によると考えた。他にも、文化地域が異なるにもかかわらず、デザインがよく似ている幾何学的で宗教的なシンボル(例えば(まん)()()のような絵図)が世界中に多々存在することを発見し、これらも元型の作用の産物だと考え()


 ユングは、自身の患者への治療を通して、集合的無意識の内容が神話的モチーフによって構成されていること、かつその内容が神話、お(とぎ)(ばなし)、夢、精神病者の妄想、未開とされていた人々の心象などに共通していることを発見し(10)


 このフロイトの精神分析、ユングの分析心理学の理論に即していえば、決して、「自分のことは自分が一番よく知っている」わけではないのだ。自分という個人を形成している基盤は、個人を超えたところにある。それは脈々と受け継がれてきた、大地に息づく神話に描かれているのかもしれない。


 かくして、ユングは全人類が無意識下で、共通に共有している原始的な集合的意識が神話に秘められている可能性について示したのだった。


 このようなユング心理学を否定する神話学者も多い。なぜなら、ユングの考えに従えば、神話はあくまで人々が無意識下で共有している集団的無意識に貯蔵されている元型の産物に過ぎない存在になってしまうからである。しかし、神話に対する考え方のひとつとして魅力的である。

神話と科学に断絶はない──構造主義


 他にも、神話を通して人類の無意識下に共有する普遍的「思考」を探求したのが、二十世紀の文化人類学の大家、フランス人のクロード・レヴィ=ストロースである。レヴィ=ストロースの研究は「構造主義」という現代思想として確立し、民俗学や人類学のみならず、哲学界や政治学など、多方面に大きな影響を及ぼした(ただし、レヴィ=ストロースもユング心理学を否定していることに注(11)


 構造主義は一九四〇年代~六〇年代にかけて発展し、ヨーロッパが二十世紀最大の思想だといわれるマルクス主義に疑問を持ち始めたときに、それと入れ替わるように支持されはじめた。レヴィ=ストロースいわく、構造主義とは哲学や主義を指すものではなく、「ひとつの認識論的態(12)」だという。


 構造主義は、近代の西欧があまりにも西欧中心的なモノの見方で、アジア人を含めた有色人種や、原始的生活を続けているいわゆる「未開」とされる人々を見下していること(これが西欧のアジアやアフリカの植民地政策を正当化していた)について、それが浅はかな考えであることを示したのだった。構造主義のブームは過ぎ去り、現代で語られることは少なくなったが、その魅力は決して(いろ)()せていない。それどころか、現在の世界にこそ必要とされる思考方法だと考える。


 レヴィ=ストロースは、部族や民族の間で語り継がれている神話や儀礼、婚姻規則などを、ある特別な手法によって分析した。その結果、「未開」とされていた人々の行動や思考パターンが、西欧のそれと変わらず理性的で科学的であることを明らかにし、西欧が絶対的ではなく、相対的な存在だと西欧人に気付かせたのだった。科学的、つまり自然界の秩序と人間の思考の秩序は連続している。構造主義とは「自然界の中から生み出された生命のそのまた延長上に生まれる『人間の精神』の構造。この精神の構造と自然界の構造を、ひとつの全体としてとらえることで、精神の秘密にせまるという思(13)」なのだ。


 神話を分析した結果、「未開」の人々が理性的で科学的な思考を持っていることが明らかになったというのは、神話は非科学的であるという一般的なイメージとは大きく異なる。確かに科学が発達した現代において、神話は非科学的にみえるだろうし、非合理的な話で満ち溢れているようにみえる。しかし、レヴィ=ストロースは、「神話と科学のあいだには、ほんとうは断絶などありませ(14)」と述べている。神話と科学の繋がり。それが構造主義の考え方の屋台骨なのだ。


 そもそも神話とは、文字のない時代から口伝伝承で語り継がれてきたものである。それが、人間が文字を持つようになってから、例えばギリシャ神話がホメロスの『イリアス』や『オデッセイア』、ヘシオドスの『神統記(Theogony)』によって伝えられているように、体系化され文字として記録されるようになり、現代に生きる私たちへと伝えられている。


 文字を持たないと聞くと、現代の文明にあやかって生きている私たちからすると、なんだか文明的に劣っている原始的な生活を想像しがちである。しかし、レヴィ=ストロースは、文字を持たない民族は、自分たちの住まう環境や資源について驚くほどの正確な知識を持っていると断言してい(15)。それは、私たちの予想を遥かに超えるようなものである。


 そもそも、人類が文字を持ってから、まだ数千年しか経っておらず、文字のない時代のほうが圧倒的に長い。未だに文字を持たない人々もいる。神話は、その文字のない数十万年の時代の片鱗を見せてくれるのだ。



 レヴィ=ストロースは、一九三〇年代のブラジルを訪れそこに住む部族の記録を記した『悲しき熱帯(原題"Tristes tropiques")』を、一九五五年にフランスで発刊。そこには、ブラジルの少数民族の優れた「未開社会」の様子が紹介されている。また、『野生の思考("La Pensée sauvage")』では、アフリカ大陸や東南アジアの部族、北米大陸のインディアンたちなど、様々な部族が持つ、動植物に対する途方もない知識──識別法、分類法、習性に関する知識、植物語彙の多さ(数千にも上る)──を具体的に紹介している。自然はそれ自体が秩序を内包しており、理論科学もすべて秩序づけに帰結し、そして、いわゆる「未開思考」の奥底にも、同じくこのような「秩序づけの欲求が存在する」として、レヴィ=ストロースは科学と「未開の思考」の共通点を指摘す(16)

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