『小林一三 天才実業家と言われた男(KKロングセラーズ)』
[著]小堺昭三
[発行]PHP研究所
⑬ 実業家が通る三つの段階
●実業家が実業家として完成するためには、三つの段階を通らねばならぬ。
その一つは長い浪人生活、その二つは長い闘病生活、そしてその三は長い投獄生活だよ。
社債発行を野村徳七へ依頼!
箕面有馬電鉄の社債発行は、日本の経済界でのはじめての快挙であった。
発行額面は二〇〇万円。常識として社債の引き受けは信用ある一流銀行、ないしは信託会社などの金融機関に一任するものだが、小林一三はなんと株式ブローカーとして軽視されていた野村徳七に依頼したのだった。関西の財界人や証券界がびっくりしたのも当然である。
のちに大正時代になってのことだが、前出の堤康次郎も二〇〇万円の社債を発行したことがある。彼が経営していた箱根土地会社の所有地一〇〇〇万坪を担保に社債を発行、苦境を乗り切ろうとしたのだ。
引き受けてくれたのは東京の、神田銀行の経営者である神田鐳蔵だった。期限は三カ年、一年半で切り替えるという条件で、神田銀行を受託銀行にしたのだ。
それなのに、一年半の切替期間が迫ってきた某日、神田側からの不意の申し出があった。
「社債切替はお断わりする。ほかの銀行にたのんで、当方へはお返し願いたい」
という冷淡そのものの態度だ。
康次郎にすれば青天のへきれき。
「神田側の狙いは会社つぶしだ。担保に入れた一〇〇〇万坪がほしくなったのだろう。そっくりわしから横領するつもりだ!」
と康次郎は激怒したものの、打つ手はなかった。切替期間がきてしまい、箱根土地会社は不渡となった。東京証券取引所での同社株は暴落したばかりではなく、大正一五年三月二一日付をもって売買中止になった。これより同社は非上場になってしまったのである。
人びとはこれを「神田銀行不渡事件」と呼んだ。康次郎はしかし負けなかった。
「こうなったら、地獄に堕ちなばもろともだ。あの鐳蔵にだけは渡したくない。何がなんでも奪われてなるものか!」
と、担保物件になっている一〇〇〇万坪を勝手に放出しはじめた。さすがは“ピストル康次郎”の異名をとるだけの男である。もちろん、事情が事情だけに、足もとを見られて買い叩かれる。多年にわたり辛苦しながら入手してきた、軽井沢や箱根の別荘地、東京市内の宅地が哀れにも二束三文にしかならない。
それでも神田銀行のものになるよりはましだ、と康次郎は歯をくいしばった。そして、売れただけずつ、その代金は神田銀行に納めさせた。何十年かかろうとも、資金苦がつづくとも、こうして意地一本で返済していったのである。