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19世紀問題 近代のはじまりを再考する
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歴史
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第5章 ヨーロッパ新統一国家の誕生

『19世紀問題 近代のはじまりを再考する』
[著]関眞興 [発行]PHP研究所


読了目安時間:28分
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5 New united nation

ロシアとイギリスの影響力低下で

ヨーロッパに新統一国家が誕生


フランスの第三共和政とイタリア統一


 1853年のクリミア戦争の敗北以後、ロシアは国内改革に専念することになりました。また、イギリスは57年のインドで起きたシパーヒーの反乱などの対応に追われ、ほかのヨーロッパ諸国も国内問題の解決に集中するようになります。このような状況下で、ウィーン体制の締め付けから解放されたことで、ヨーロッパ各国では自由主義や国民主義の動きが活発になってきます。


 フランスでは、ナポレオン3世の第二帝政が崩壊した後も、王党派、ボナパルト派、共和派などの諸勢力の対立が続きました。しかし、しだいに共和派が優勢となり、75年に共和国憲法が制定され、第三共和政が始まります。フランス革命以来混乱してきた政治体制は、共和政という形でここに確立されることになります。


 イタリアは中世以来小国が並存する分裂状態が続いていましたが、31年に民族統一と共和政の実現を目指す「青年イタリア」が結成されるなど、19世紀半ばから統一への機運が盛り上がりました。その「青年イタリア」も関わり、49年にはローマ共和国が建設されますが、ローマ教皇を支援するフランス軍に倒されてしまいます。また、統一の中心と目されていたサルデーニャ王国もオーストリアとの戦争に敗れてしまいました。


 しかし、サルデーニャでは、国王の下で自由主義者のカヴールが首相となって鉄道建設など近代化が推進されました。さらに、59年にナポレオン3世のフランスと連合してオーストリアと戦い、ロンバルディアを得ます。その後サルデーニャは、中部イタリアも併合。また、「青年イタリア」出身のガリバルディが両シチリア王国を占領し、サルデーニャ王にゆずったことで、61年にイタリア王国が成立します。その後、イタリア王国はヴェネツィアを併合し、ローマ教皇領も占領して、長年の悲願だった国家統一を果たしました。


鉄血宰相ビスマルクによるドイツ統一


 ドイツも多くの領邦が改廃されたものの、分裂状態が続いていました。1834年に豊かな工業地域を抱えるプロイセンを中心としたドイツ関税同盟が発足したことで、経済的な統一が先に実現します。1848年にはフランクフルトに集まった市民によって統一運動が起こります。これは抑え込まれましたが、その後、プロイセンの首相ビスマルクも統一が避けられないことを認めます。


 ビスマルクは議会の反対を押し切って軍備拡張を進め、64年にオーストリアと共にデンマークと開戦すると、これに勝利。66年には今度はオーストリアと開戦し、これを破りました(プロイセン=オーストリア戦争)。その結果、ドイツ連邦は解体され、プロイセンを中心とした北ドイツ連邦が結成されます。


 フランスのナポレオン3世はプロイセンの強大化を警戒し、70年にプロイセン=フランス戦争を始めました。軍事力に勝るプロイセンはフランスを圧倒して、勝利を収め、71年にプロイセン王ヴィルヘルム1世を皇帝とするドイツ帝国を成立させました。


 帝国の宰相にはビスマルクが就任し、以後、20年間にわたり独裁的な権力を振るいました。彼の指導の下、ドイツは強国となりますが、一方でビスマルクは国内では社会主義者やキリスト教会との対立で強権を振るいました。

国の枠組みを超えた諸運動の進展


 このようにヨーロッパ各国で再編や統一が進むなか、同時に国際的な連帯を求めたり、国の枠組みを超えて協力しあったりする運動もさかんになっていきました。社会主義運動では、1864年に各国の社会主義者がロンドンに集まり、第1インターナショナルが結成されます。このとき指導者に選ばれたのがマルクスです。第1インターナショナルは、無政府主義者との対立や各国政府による弾圧などから76年に解散しますが、以後も国境を超えた社会主義運動の火は消えることはありませんでした。


 また、64年には戦争犠牲者救援の目的で赤十字条約が結ばれ、郵便・電信に関する国際的機関もつくられました。さらに、96年には国際オリンピック大会も開かれます。


インタビュー



教皇領がイタリア統一への障害だった

──この章では、19世紀後半に誕生したヨーロッパの新統一国家についてお聞きしていきます。1861年にイタリア王国が成立しました。それまでにオーストリアと戦っていますが、なぜ戦わなければならなかったのでしょう?

 ウィーン会議で、勢力均衡の原則に基づき、南ネーデルランド(ベルギーなど)を失ったオーストリアが代わりにヴェネツィアとロンバルディアを獲得していたからです。イタリアの統一のためには、オーストリア領の回復が不可欠なのですが、統一運動の中心になったサルデーニャ王国は、単独でオーストリアと戦う力はなかった。そのためにはフランスの支援が不可欠だったため、サルデーニャ王はナポレオン3世の関心をひこうと、まず、境界地帯のサヴォイアとニースをフランスに割譲することを約束しました。


 そして1860年に対オーストリア戦争を行なって、ロンバルディアの回復は実現しましたが、ヴェネツィアの回復はなりませんでした。

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