『放送作家の時間』
[著]大倉徹也
[発行]イースト・プレス
永六輔さんと私
いきなり私事から始める。
そのころ私は23歳で4歳年少の妻がいた。当時でいう学生結婚で定職はない。二人ともそれぞれに合ったアルバイトでなんとか暮らしを立てていて、私は新聞広告で見た映画の業界通信社に応募してバイト記者になっていた。書くことが好きだったから記者なら書く仕事だと思って始めたバイトだったが、不如意な仕事だとわかって、妻にはグチばかりこぼしていた。その妻はバイトをする一方で、当時民放ラジオで盛んだった聴取者参加番組に盛んに応募していた。採用されればシロウトなりの出演料がもらえるからだ。
その一つに、当時人気タレントだった丹下キヨ子が聴取者相手に対談する番組がラジオ局の文化放送にあって、ある回に妻が選ばれて出演した。その日の私は不如意なバイト先にいて、妻から電話がかかってきた。その時の会話は今でも憶えている。
「エイさんという人、知ってる?」
「知らない。何やってる人だ」
「なんだか知らないけど、ラジオやってる人」
「エーライジュウメイという名前ならラジオで聞いたことがある」
「エーライさんじゃないの。ただのエイさん」
「知らんなあ」
「なんでもいいからすぐに来て、会ってよ」
あとで聞くと、妻はその時現場を仕切っている永さんに、ほかのスタッフとは違うナニカを感じて、すかさずグチっぽい私に連絡する気になったという。
その時永さんを知らなかったのは私たちだけではない。あとで知ったのだが、そのころ永六輔の名は放送業界では知られていたそうだ。しかし世間的にはまだ無名。一方、私が名前だけ知っていたエーライジュウメイさんは、ラジオといえばNHKしかなかったころに『世界の音楽』という番組で「構成」をしていた人で永来重明と書き、大正生まれでアメリカの大学を出てNHK文芸部にいた人だということを、これもあとで知った。
妻からの電話に喜んだ私は口実を設けて職場を離れ、当時は四谷にあった文化放送のロビーへ駆けつけた。それからのことは記憶にない。再び記憶が始まるのは当時五反田にあった永宅へ、放送用コントを書いて通ったことからである。
今思うと永さんが丹下キヨ子の番組に関わっていたのは、二人が三木鶏郎グループに属していた縁からだろう。そもそも永六輔のコント作者としての天才ぶりは、トリローを有名にしたコント番組、NHKラジオ『日曜娯楽版』の投稿者だった19歳のころから発揮されていたらしい。
しかし永さん自身はそのころのことを、後年自著『六輔その世界』(話の特集)の中で、次のように書いている。
1952(昭和27)年、「アルバイトに『日曜娯楽版』に投書するとコント一つで三百五十円になった。『ニコヨン』という言葉の時代だから率がよかった」「三木トリロー文芸部から誘いがあって」「その収入に目がくらんで放送の仕事へ」(ニコヨンとは二百四十円のことで、確か当時日給の相場のことだった)。
1953(昭和28)年、テレビ開局でトリロー文芸部とともに二十歳の永六輔も「ひっぱり凧」になる。54年21歳。「放送台本を毎日二本づつ書きとばし」「この年の末、同時刻にNHK、TBS、LF、QRと、どこの局を回しても僕の脚本を放送しているというイタズラをやった」(LFとはニッポン放送、QRとは文化放送)。
そんなイタヅラができたのも才能ゆえであるのは言うまでもない。
ある回の『娯楽版』のコントの政治風刺が度を越しているという理由でトリローが現場を離れることになった「文芸部」のあとを、トリローはほかの経験者、年長者をさしおいて永六輔に任せた。それほど彼の天才ぶりは際立っていたということになる。彼がボスになると同時に「トリロー文芸部」は名を変えて「冗談工房」と名乗る。私が永さんと出会ったのはその工房のボスだったころだと、これもあとでわかったことだ。
ともあれ私は自分よりも「1歳年少の天才」に師事してコントの作り方を学び、放送作家という呼び名ができる以前にコント作者として放送界にデビューできることになる。つまり私が放送作家になれたのは永さんと出会えたおかげなのだ。更に私事を重ねれば「エイさんて、知ってる?」と聞いた妻の一言が私の人生を決めたということになる。
さて永さんとしては私を「冗談工房」の一員にしたつもりだったのかもしれないが、私は自分のことしか頭にない。五反田から隼町、並木橋と転居する永さんのあとを追って執拗にコントを書き続けた。すっかりソノ気になってバイト先を辞めた私のフトコロを心配して、丹下キヨ子の事務所員に紹介してくれたりした。
そのうちに私の執念に負けたのか、少しは書き手として認めてくれたのか、ある時30分のラジオ番組の代筆を頼まれた。そして私の原稿に目を通してから登場人物の一人の名前を「たしかオオクラテツヤと言った」と改めた。そういうところがいかにも永六輔流だと、今にして思う。
これも今にして思うのだが、この天才に弱点があったとすれば、それはドラマのストーリー作りに弱かったことだ。のちに私が一本立ちになってからの話だが、彼が小説を頼まれたことがあった。その時は彼のほうから私に声をかけてきてホテルに呼び出し、小説のストーリー作りに知恵を貸してくれと頼まれたことがあった。活字メディアでも自称百冊を超える本を出しているそうで、その中にはこの時の小説も入っているだろうが、ほかの本で天才自身がこの小説に触れているのを私は見たことがない。
余談になった。
やがて丹下キヨ子の事務所で失敗してクビになった私を、永さんは文化放送の番組に書き手として紹介してくれた。コント番組だけではない。今で言えばトーク番組や音楽番組もあった。やっと私を、あとに言う「放送作家」として一人前になったと認めてくれたのだろう。
一方テレビでは、日本テレビが放送を始めて4年後の1957(昭和32)年、『気まぐれ時代』という生放送の「ミュージカル・バラエティ」があった。今も手元に遺してあるその年3月放送の第1回台本によると、主な出演者は林家三平(初代)、平凡太郎、逗子とんぼ、藤村有弘、ゲスト歌手に宝とも子、黒岩三代子。私には懐かしい名前だが、今は息子が名前を継いでいる林家三平を除けば誰も知らない名前だろう。