『放送作家の時間』
[著]大倉徹也
[発行]イースト・プレス
前掲の話はいわば不可抗力で消えたので致し方のないことだが、決定稿も書き映像化もされていたのに無念残念な結果に終わった番組がある。
その理由は私の力不足によるものと、番組としては好評裏に成立していたのに、私には関係のないことで不幸な結果に終わったものとがある。
例えば手元に残してある私「構成」の印刷台本の一冊にTBS『テレビシティ特別企画・薬師丸ひろ子・セーラー服を脱いで』というのがある。表紙に制作年は記載されていないので不明だし思い出せないが「4月6日(水)午後9時~10時24分」に放送されたことはわかる。『テレビシティ』が定時番組だったこと、そして薬師丸が人気を得た映画『セーラー服と機関銃』が終わってから「特別企画」されたことがわかる。
プロデューサーが旧知の人なので私を選んでくれたのだろう。初めて付き合うディレクターと一緒に薬師丸と会ったことは今も記憶にある。
しかし今台本を読み返すといかにも雑で、この企画は失敗だったのだろう。
プロデューサーとしてはこの「特別」がうまくいけば、薬師丸ひろ子を「冠」にした定時番組を作るつもりもあったのではないか。だとしたら、今頃謝っても大笑いされるだけだが、それでも私としては映画では成功した彼女をテレビでは生かし切れなかったことを恥じるほかはない。
もう一つ、これは恥ではなく、私に向いてなかった例を挙げよう。
『サザエさん』と私
フジテレビが開局(1959(昭和34)年3月)したころ最初に注文があったのは歌番組で、それまで台本を書いていたのが本職は劇場の演出家だった人で、そのせいかうまくいかないので援軍頼むというようなことだった。
そして初めて私の書いた生原稿を見たディレクターが「こんなに台詞を書き込んである台本は初めて見た」と驚いたのを今でも憶えている。それというのも「驚いた」ことに驚いた私は、そのナゼを知りたくてそれまでの台本を見せてもらうと、番組進行に関する部分だけは段取りの台詞が書いてあるけれども、歌手たちとのカラミなど肝腎な部分になると「よろしく」とだけ書いてあった。