私は、今から約四〇年前の一九七六年、二二歳のとき、茨城県にある自衛隊百里基地でディスパッチャー(運行管理者)として勤務していました。
ディスパッチャーは航空機が目的地まで安全に運航できるよう、気象状況はじめ、運航に関わるさまざまな情報収集、分析をして、飛行計画作成を行います。
もともと緊張を強いられる仕事の上、当時世間を騒がせたソ連のミグ25が函館空港に不時着した後、私が勤務していた百里基地に移送されていたため、その間ほぼ不眠不休で対応にあたっていました。連日の業務の緊張感からくるストレスが引き金となったのでしょうか、ほっとして夜明け前の空の美しさを眺めていたときです。
突然、強烈な腹部の痛みに襲われて失神し、救急車で運ばれたのでした。
このとき、初めて「臨死体験」を経験しました。意識が肉体から離れて、時間と空間を超える体験をしました。つまり過去、現在、未来の行きたいと思ったところに行けたのです。時代も、場所も関係なしに、私の目の前の現実がそのように展開していくのです。衝撃的だったのは地球の二つの相反する未来の映像も見たことです。
このとき私は意識体だけだったのですが、時間と空間の制限を受けないことに気が付いたため、過去の歴史上の有名な人物の意識体に入り込むことができたのです。
その模様をまるでテレビ画面を見るように見ていきました。彼らが何を思い、どう行動したか、彼らが発したその言葉を、この私が体験し、聞いていたのです。
この体験後、医学の常識を超えることが起きました。心肺停止の死亡状態となりながら、私は三〇分後に生き返ったのです。
さらに数年前、通常の意識状態で、その歴史上の人物の意識体に入り込んで彼の目線を借りて周りの光景も見ることができました。すべてが驚天動地の体験だったため、そのことをしばらく口外することはできませんでした。自分の胸中だけにとどめ、あれはいったいなんだったんだろう、とその記憶を呼び起こして、検証をしてきました。
この臨死体験中に三人の友人たちを訪ねていたことを彼らに告白してみると、間違いありませんでした。これに自信を得て、一九九〇年頃から地元のラジオ局で私の体験を話すようにもなりました。
立花隆さんの著書『臨死体験』で取材を受けたりして、この特異な体験のことが徐々に世間に知られるようになりました。
その後、健康上の不安から、ディスパッチャーを辞め、子どもの頃から大好きだった彗星探索を本格的に始めました。三五歳から相次いで、四つの彗星を発見しました。
世界中に彗星探索家はそれこそ星の数ほどいて、生涯一つでも見つけられたらそれは幸運でもあり、名誉なことでもあります。四つのうち二つにはKIUCHIの名前がついていますし、これ以外の小惑星にもKIUCHIの名がつけられています。
また、この彗星発見と臨死体験によって、私は当時軍事利用に限られていたインターネットの一般への無料公開の必要性を痛感し、アメリカ政府関係者に訴えました。大激論の末、インターネットは全世界の人々に無償で解放されることになりました。
三度の臨死体験と彗星発見によって私の人生は大きくある方向に向かっていくこととなりました。臨死体験後の四〇数年の歩みをまとめることで、人間が生まれてきた意味を読者のみなさんと共有できることを願います。