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教養としての「フランス史」の読み方
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歴史
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I 「フランス」の始まり──ケルト人の定住からカペー朝の奇跡へ

『教養としての「フランス史」の読み方』
[著]福井憲彦 [発行]PHP研究所


読了目安時間:53分
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 よくフランスの始まりは、フランク王国だと言われます。もちろん両者には密接な関係があるので、そう言っても間違いではありません。しかし、フランク王国がそのままフランスになったのかというと、そうではありません。


 ちょっと複雑な「フランス」の成り立ちを、まずは考古学の時代から見ていきましょう。


 現在のフランスに当たる地域に最初に住み着いたのは、ケルト系と言われる民族集団でした。


 彼らがいつ頃からこの地にいたのかについては、現在も考古学的調査が行われていますが、まだ正確な時期はわかっていません。ただ、少なくとも紀元前五世紀にはケルト系民族集団が定住していたことは確実視されています。


 ケルト系民族が定住したのは、のちにフランスと呼ばれる地域に限ったことではありません。彼らは、地中海北岸一帯、及びブリテン島、つまり今のヨーロッパ全域に広く展開していました。


 では、ケルト系の人々はどこから来たのでしょう。


 彼らのルーツは、ヨーロッパの東、ユーラシア大陸の中央部に近い地域、黒海北岸の辺りと推定されています。そこに気候変動によってバルト海地方にいたゲルマン系民族が南下、ケルト系民族はその圧迫から逃れるために、東西へと移動していったと考えられています。このとき西に移動した人々が、ヨーロッパに定住したケルト系民族集団のルーツです。


 彼らの生活の基盤は、農耕だったことがわかっています。といっても、農耕だけしていたわけではなく、手工業や流通もかなりの規模で行われていたことが、考古学的調査によって明らかになっています。


 彼らの宗教は、動物の姿をした神々を信仰したり、森の石や木々を聖なるものとして(あが)めるなど、自然信仰に近いかたちの多神教でした。彼らの宗教指導者は「ドルイド」と呼ばれました。そのことから、ケルトの宗教は「ドルイド教」とも呼ばれます。


 ドルイドは単なる宗教指導者ではありませんでした。集団を束ね、外敵が来たときには人々の先頭に立って戦う政治的リーダーでもありました。ケルト系の人々は国というまとまりを作らず、ドルイドを中心とした小さな集落ごとに生活していました。


 しかし当時、のちにフランスと呼ばれる地域に住んでいたのは、ケルト系の人々だけではありませんでした。


 ケルト系の人々が定住していたのと同じ頃、地中海沿岸で盛んに植民活動を始めたギリシア人が、フランスの南部に都市を築いています。


 現在のマルセイユ(ギリシア名/マッサリア)、アンティーブ(アンティポリス)、ニース(ニカイア)などは、こうしたギリシアの植民地を起源とする都市です。


 ギリシア人の目的は交易拠点の確保だったので、ケルト系の人々との間に大きな争いは起きませんでした。しかし、次にこの地に勢力を拡大してきた人々、ローマ人との間には、大きな争いが生じます。


 ローマ人たちは、ケルト系の人々を「ガリア人」、そして、彼らの住む場所を「ガリア」と呼びました。つまり「ガリア(古典ラテン語では、Gallia/ガッリア)」というのはローマ人による呼称であって、ケルト系の人々が自称したものではありません。


 ローマがまだイタリア半島を統一する以前、ガリアの範囲は広く、イタリア半島北部からアルプスまでの地域を「ガリア・キサルピナ(こちら側のガリア)」、アルプス以西を「ガリア・トランサルピナ(向こう側のガリア)」と称し区別していました。その後、ローマの拡大に伴い、ガリア・キサルピナはローマ領に吸収され、アルプス以西を単にガリアと呼ぶようになります。


 ガリアというと、ユリウス・カエサルの著書『ガリア戦記』が有名ですが、これはカエサルが紀元前五八年から前五一年にかけて行った、ガリア、ゲルマニア、ブリタニアへの遠征の記録なので、すでにガリアという呼称がアルプス以西を意味していた時代のものです。

『ガリア戦記』を読むと、当時のケルト系の人々の様子がよくわかります。


 小さな集落を形成して散在していたガリア人(ケルト人)たちは、深い森が広がる地域の中で、耕作に適した平地を切り開き、農耕を主とした生活を送っていました。その集落は、防衛を考えてのことなのでしょう、少し小高い丘の上に作られていました。これをオッピドゥム(高城集落)と言います。


 国としてのまとまりを持たなかった彼らですが、ローマの軍勢が来たとき、全体の集会を開き、リーダーを選び、ローマに対抗しました。結局、平定されますが、その抵抗は激しいものだったと言われています。


 その後ローマは、ローヌ川沿いに、その支配を広げていきました。その拠点となったのがローヌ川沿いのリヨンという町です。現在リヨンはフランス第二の都市ですが、この町はローマ帝国の属州ガリア支配の拠点として古代から栄えた都市なのです。


 リヨンが拠点として選ばれたのは、イタリア半島から入りやすく、かつ、川の両岸に平地が広がっていたからでしょう。またリヨンは、スイスのローヌ氷河を源流とするローヌ川に、フランス北東部から南下してくるソーヌ川が合流する交通の要衝でもあります。このふたつの川筋が、南から北上するローマ軍にとっても重要な進軍ルートとなったわけです。


 日本は列島の中央を山岳地帯が多く占めるため、川は急流が多く、氾濫すると都市部などにも甚大な被害を及ぼします。しかし、ヨーロッパは平地が多く起伏が少ないため、川は穏やかなものが多く、氾濫しても大きな被害が出るようなことは、山沿いの一部を除いてほとんどありません。


 そのため今も日本のような堤防を持たない川が数多く見られます。実際、ロワール川もセーヌ川も(あふ)れることがあるのですが、人々は「まあ、時間が経てば引くだろう」といった感じでほとんど気にも留めませんでした。


 そういう意味でいうと、ヨーロッパの川沿いの平地というのは地形的に、農業を基本とする社会を作るのに非常に適した地域だったと言えるのです。しかし、適していたが故に、いろいろな勢力が入って来ることになったとも言えます。


 こうして川沿いに北上したカエサル率いるローマ軍は、のちにフランスの首都となるパリを落とし、ローマ軍の前線基地とします。


 パリもまたリヨン同様、セーヌ川を擁する交通の要衝です。この地の歴史は古く、ケルト人が集落を作る以前から人が生活していたことが、発掘調査によってわかっています。


 便宜上「パリ」と言いましたが、ローマ時代からパリと呼ばれていたわけではありません。当時は、シテ島を中心とする集落の名「ルテティア」が使われていました。パリという名が使われるようになるのは、ローマが衰退した後のことです。


 なぜ「パリ」という名がついたのかというと、ケルト系の中でもローマ人たちが「パリシィ人」と呼ぶ人々が住んでいたからだと言われています。しかし「パリシィ(Parisii)」や「パリ」の正確な語源はわかっていません。


 当初、ローマの侵攻に激しく抵抗したガリア人(ケルト人)たちも、ローマ支配のもと、ローマに同化していきます。小さなケルトの集落は、ローマ型の都市として発展していきました。


 こうしてガリアの地は、ローマの属州となったことで、ケルト文明とローマ文明が融合した独特の文化を創り出していきます。このローマとガリアの融合の時代を「ガロ・ローマ期」と言います。



 十九世紀末のフランスでは、「我らが祖先ガリア人」という言い方が非常に強く打ち出されたことがありました。


 当時のフランスは第三共和政。国家の根源をローマより古いガリアに求めることで、自分たちはヨーロッパの中で最も長い歴史を持つ由緒正しき国なんだと主張したかったのだと考えられます。


 実際当時は、共和派の人々はもちろん、いろいろな立場の人が、「我らが祖先ガリア人」という言い方を使い、教育の現場でも子どもたちにそう教えていました。


 フランスで最も有名なタバコのブランドに「ゴロワーズ(Gauloises)」というのがありますが、これもこうした風潮を受けて生まれたものだと言えます。名前の「ゴロワーズ」は「ゴール人(ガリア人を意味するフランス語)の女性」という意味で、パッケージに描かれている翼のついた(かぶと)は、古代ガリア人の戦士が用いたとされるものです。


 ゴロワーズのパッケージには今も翼のついた兜のモチーフが使われていますが、さすがに今のフランスで「我らが祖先ガリア人」と声高に言う人はいなくなりました。


 ガリアは確かにフランス人のルーツのひとつではあります。でも、それが唯一のものではないことは、彼らはよく知っているからです。


 事実、ローマ帝国の一部になったことで、ガリアの地にはさまざまな人々が流入してきました。そして、四世紀後半から五世紀になると、ゲルマン系の人々が大量に流入してきます。


 ゲルマン系の人々の流入は、「ゲルマン民族大移動」と称されるため、短期間に一気に押し寄せたかのように思っている人も少なくないようですが、彼らの流入は、もっとずっと古くからかなり広い範囲で徐々に行われていました。


 彼らはローマを征服しようという意図を持ってやって来たわけではありません。気候変動によって、より良い生活を求めて、あるいはフンと呼ばれた遊牧系の人々など、やはり気候変動によって新天地を求めて移動してきたとみられる別の民族に押し出されるかたちで、ローマ帝国内に流入してきただけのことです。


 こうした異民族の流入は、現在の移民問題を見てもわかりますが、少数であれば何も問題は生じません。問題は、入ってくる異民族の数が急増し、先にいた人々との数のバランスが崩れたときに生じるのです。

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