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教養としての「フランス史」の読み方
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歴史
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II 打ち続く試練から王権の強化へ──王位継承戦争と宗教対立による危機の時代

『教養としての「フランス史」の読み方』
[著]福井憲彦 [発行]PHP研究所


読了目安時間:47分
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 フィリップ二世が基礎を作り、ルイ九世が引き継いだ王権のシステム化は、まだ完成にはほど遠いながらも、領邦君主の多くを国王の支配下に置くことに成功します。


 フランス国王は、都市にコミューンの設置を認めることで得た貢納金を元手に、家臣団の他に常備軍を雇い入れ、地方には支配圏を守るための官僚を派遣しました。これにより王都パリには、領邦君主や官僚、都市の有力者や聖職者が集まるようになり、宮廷が形成されていきました。


 こうした王権の強化・安定に大きな役割を果たしたのが、先述した「カペー朝の奇跡」と言われる長期にわたる直系男子による王権の継承でした。


 しかし、このカペー朝にも最後の時が訪れます。


 一三二八年、カペー朝十五代目の王シャルル四世が、男子に恵まれないまま亡くなったのです。


 シャルル四世の後を継いだのは、シャルル四世の()()ヴァロワ伯の子、つまり従兄弟(いとこ)にあたるフィリップ六世(在位一三二八〜一三五〇)でした。彼もカペーの血統は受け継いでいますが、王統の直系ではないので、彼の代からは「ヴァロワ朝」に分類されます。


 直系男子が絶えたので、カペーの血統の中で前王に(しん)(とう)の近い男性が王位を継ぐ。ごく自然に思われるこの王位継承が、英仏両国に多大な被害をもたらす「百年戦争」の火種となっていきます。


 シャルル四世の父、フィリップ四世には男三人、女一人、合計四人の子どもがいました。普通なら三人の男子に恵まれれば家名は安泰となるのですが、残念なことに、この場合はそうなりませんでした。


 フィリップ四世の死後、長男のルイ十世が王位を継ぎますが、在位わずか十八カ月で早世。そのとき妻が妊娠していたので、子どもが生まれるのを待って王位継承が準備されました。しかし、生まれたジャン一世は生後わずか五日で亡くなってしまいます。


 続いてフィリップ四世の次男、フィリップ五世が王位を継ぎますが、彼もまた在位六年で後継ぎに恵まれないまま亡くなります。こうしてついに三男のシャルル四世に王位が巡ってきたのですが、彼もまた在位六年で直系の後継ぎなきまま亡くなってしまったのです。


 問題となるのは、フィリップ四世の娘(シャルル四世の姉)のイザベルの存在でした。


 彼女はイングランド王エドワード二世に嫁いでいたのです。ヴァロワ家のフィリップ六世がフランス王位に就いたとき、イングランド王はエドワード二世とイザベル(イングランド王妃としてはイザベラ)の子であるエドワード三世(在位一三二七〜一三七七)でした。


 ノルマン朝以来、フランス王家あるいはその系列の女性がイングランド王家に嫁ぐということはしばしば起きています。これを、王さまが外国のお姫さまをお(きさき)に迎えるといったおとぎ話的なロマンスとして受け取るのは、少々現実と違います。


 イングランド王家とフランス王家の関係は、ノルマン朝の起こりを思い出していただければわかるとおり、もともとフランス内の領土問題と主従関係が複雑にかかわっていたわけですが、その後のアンジュー朝(プランタジネット朝)も、フランスのアンジュー家をルーツとしていました。つまり、フランスの王家とイングランドの王家は、王家そのものの血統だけでなく、そこにさらにフランス人の王女が嫁ぐというかたちで、複雑に(つな)がっていたのです。


 英仏「百年戦争」は、このイングランド王エドワード三世が、「自分は母からカペー家王統の直系の血を受け継いでいるのだから、傍系のヴァロワ出身のフィリップ六世よりもフランス王を継ぐのにふさわしい」と主張して宣戦布告することに始まるので、ごく簡単に言えばフランス王家の王位継承戦争なのですが、戦争の火種は単に血統だけではありません。そこには所領や領邦君主と国王の立場など、複雑な問題が関与していました。


「百年戦争」という名は、戦端が開かれた一三三九年から、フランスが港町のカレーを除いてイングランド軍を大陸から完全に駆逐した一四五三年までの期間が、約百年だったことに由来しています。


 とはいえ、この百年間、もちろん毎日ずっと戦闘が行われていたわけではありません。両者の争いは間欠的に約百年ほど続いていた、というのが正しい表現でしょう。


 イングランドでは、アンジュー朝のエドワード三世からランカスター朝のヘンリ六世まで、フランスでは、フィリップ六世からシャルル七世(在位一四二二〜一四六一)まで、双方五人ずつの王がこの戦争に関与しています。


 先ほど複雑な問題が関与していると言ったのは、この戦いの発端が後継者争いであることは間違いないのですが、単純にフィリップ六世が継ぐか、エドワード三世が継ぐか、という問題に(とど)まらなかったからです。実はフランス国内でも、フィリップ六世の流れを()む王家を支持するアルマニャック派と、ヴァロワ家の分家ブルゴーニュ家を支持するブルゴーニュ派が、王位を巡る争いを繰り広げ、国を二分する内乱に発展してしまうのです。


 ですから「英仏百年戦争」と言われますが、この表現自体も十九世紀に言われ出したことで、現代の国家間の戦争とは、まったく違ったものだということを踏まえておく必要があります。百年戦争は、フランスにとってはイングランドとの戦争というだけでなく、内戦でもあったのです。


 もっと簡単に言えば、関係した主要登場人物の多くに何らかの血縁関係があるので、「相続争いに(から)んだ王位継承と勢力範囲の拡大争い」と言ったほうがわかりやすいかも知れません。


 また、この時期のフランスを苦しめたのは、それだけではありません。


 隣国との戦争や内戦が断続的に続くだけでも十分に大変なのですが、百年戦争時代のヨーロッパというのはペストが蔓延したり、気候条件が悪く、作物が不良だったりと、いくつもの困難が国土を襲った時期でもありました。


 戦争に内乱、追い打ちをかける()(きん)に伝染病、いくつもの災難が重なり、フランスでは人心も荒れ、各地で反乱も頻発しています。これによって中世の半ばから発展してきた農村部の開墾も、経済の進展も、この時期に大きく後退してしまいます。ペストで人口も激減し、生産は停滞ではなく、後退なのです。


 そういう意味で百年戦争は、中世ヨーロッパの最終局面とも言われています。


 学校の歴史教科書などでは、この時期の解説に「中世の解体」という表現がよく使われますが、それは中世を通して増加した人口も、発展した経済も、ここで一度大きく落ち込んで、十六世紀まで続く長い転換期を歩んでいくことになるからです。


 百年戦争は、大きく二期に分けて考えることができます。


 前半は、イングランド王家がフランスの王位継承権を主張して軍事介入してくるところから始まります。フランスは緒戦で苦戦し、国王ジャン二世は捕虜にされてしまいますが、その息子シャルル五世が劣勢を挽回して一三七五年、ブリュージュの和約で一段落します。


 後半は、フランス国内のアルマニャック派とブルゴーニュ派の内戦に乗じて再びイングランドが介入してくる十五世紀初頭から、フランス軍がイングランド軍を大陸から駆逐する一四五三年までです。


 そもそもイングランドのエドワード三世は、フィリップ六世が一三二八年にフランス王位に就いたとき、すぐに王位継承権を主張したわけではありませんでした。事実、翌一三二九年にエドワード三世は、フランスのギュイエンヌ大公という立場で、フィリップ六世に臣従礼をとっています。


 その後、なぜエドワード三世がフランス王位の継承権を主張し出したのかというと、当時エドワード三世が征服に苦労していたスコットランドを、フランス国王が公然と支援したからです。これにより両者の関係は一気に悪化、フィリップ六世は、エドワード三世がフランス国内での領土拡大を狙っているとして、彼が領有していたフランス南西部のガスコーニュまで没収しようとします。


 これに怒ったエドワード三世は、一三三七年、臣従礼を撤回し、自らのフランス王位継承権を主張しました。


 一三三九年にフランドルで火蓋を切った戦いは、一三四六年イングランド軍優位のなか、エドワード三世はノルマンディ上陸を果たします。戦いが続く一三五〇年、フィリップ六世が亡くなると、フランス王位はジャン二世(在位一三五〇〜一三六四)が継承します。

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