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教養としての「フランス史」の読み方
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歴史
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III 絶対王政とヨーロッパ世界の拡大──権力の集中はどのようにして行われたのか

『教養としての「フランス史」の読み方』
[著]福井憲彦 [発行]PHP研究所


読了目安時間:54分
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 私たちが今「国」という言葉を使うとき、特に意識はしていませんが、それは「主権国家」としての国を意味しています。とはいえ、主権国家であることがあまりにも当たり前すぎて「主権国家とはどのようなものか」と問われると、返答に困る人もいるのではないでしょうか。


 主権国家とはなにか。


 ごく簡単に言えば、「国際社会の中で、正式に独立を認められた国」のことです。人にたとえるなら、社会人として自分のことはきちんと自分で責任のとれる大人の人間、というイメージです。もう少し具体的に説明すると、国境線に囲まれた領域を国土とし、その内部に生まれた人、またはその内部に住む人々を国民として、その内部の政治的決定において国外からの支配や指図を受けずに、独自の判断を下すことができる国家、と言えます。


 先ほど、今の私たちにとっては主権国家が当たり前だと言いましたが、「当たり前」になったのは、実はそれほど古い話ではありません。そもそも主権国家という考え方が成立したのは、十六世紀から十七世紀にかけての近世ヨーロッパですから、まだ五百年ほどしか経っていないのです。


 では、主権国家が当たり前でない世界は、何が当たり前の世界だったのでしょう。


 それが、先に述べてきた「属人原理」に基づく世界です。


 そういう意味では、十五世紀の百年戦争以降、国王と言われる存在が、徐々にその実力と権威とを集約していく時代は、主権国家が生まれる前の過渡期だったと言えるでしょう。事実、国王が権力を強めていく過程は、それまでの属人原理が属地原理へと転換していく過程でもありました。


 もう一つ、主権国家を語るうえで忘れてはいけないのが、主権国家の主権は誰が有するか、という問題です。現在の主権国家は、基本的に国民主権、つまり主権在民が原則です。しかし、主権国家が最初から国民主権としてスタートしたわけではありません。


 近世ヨーロッパの主権国家は、国王主権、つまり主権国家の主権は国王にある、というところからスタートします。国王が、国境線で囲まれた領域国家の長として、その内部に存在する人々を臣民として配下におさめる、ということです。ヨーロッパにおけるこうした政治秩序の転換がいよいよスタートするわけですが、新しい秩序を正当化する理論が必要でした。転換に反対する者を納得させる必要があったからです。


 そうした理論の先鞭として、後の絶対王政を理論づけることになる一冊の書が、宗教戦争下の聖バルテルミの虐殺の四年後、一五七六年にパリで出版されます。


 著者はフランスの政治家にして学者のジャン・ボダン。『国家論』というタイトルのこの本の中でボダンは、(かい)()してしまっている国家統治のシステムと現実の市民共同体が、うまく統合していくためには、その結びつきを保障する存在が必要であり、それにふさわしいのは国王であると述べました。


 この思想は、国王の側からすれば、自らの統治権力を正当化するのに使えました。ただしボダンは、国王を国家の主権者とするとは言っても、国王の私利私欲の実現をよしとしたわけではありません。


 最優先されるべきは、国境線で囲まれた領土を保有する国家の存続であり、国家の利益でした。国王はあくまでも国家統合の最高統轄者であり責任者である、というのがボダンの主張です。


 事実、彼のフランス語版の本のタイトルには、「la République/ラ・レピュブリーク」という言葉が使われています。これは、のちに共和政と訳されますが、この時点では公共的なものの統治という意味です。ラテン語でいう「レス・プブリカ」です。

『国家論』は、その後ボダン自身によってラテン語に翻訳され、さらにそれが英語など多くの言語に訳されることでヨーロッパ各地で読まれ、その後の絶対王政の理論的根拠となっていきました。


 同時に、ボダンが提唱した国家利益、国家統合の追求は、当時のヨーロッパで聖俗の超越的権威とされていた教皇や皇帝といった存在の優位性を揺るがすことに(つな)がりました。なぜなら、それらの権威のもとである宗教によって、国家の利益が侵されるべきではないと考えられたからです。


 十七世紀になると、この宗教的な問題に左右されることなく、第一に国家利害を追求するべきだとする論理を表すものとして「国家理性/レゾン・デタ」という言葉が生まれます。国家利益にとっての合理性(レゾン)を追求する、という意味です。


 原則としてヨーロッパ諸国に広まったこの理論が、実際の政治の場で用いられるのは、一六一八年に始まるドイツを舞台にした宗教戦争「三十年戦争」のときでした。これまでのヨーロッパにおける政治と国家間の紛争には、常に宗教の問題が(から)み合っていました。信教の対立はしばしば妥協を許さず、時に国家の利益を大きく損なうことにも繫がりました。


 しかし、三十年戦争では、たとえ王権の正当性を保障する宗教がカトリックだとしても、国家の利益のために必要であれば、プロテスタントを支持する国家と結ぶことも辞さない、という選択がとられるのです。


 三十年戦争に参入した際のフランスの国王は、ルイ十三世(在位一六一〇〜一六四三)


 一六一〇年、アンリ四世が狂信的なカトリックに暗殺され、ルイ十三世が王位に就いたとき、彼はまだ八歳でした。幼い王を補佐するため、母親のマリ・ド・メディシスが摂政となります。十六世紀の宗教戦争期の王母カトリーヌ・ド・メディシス同様、イタリア・フィレンツェの名家であるメディチ家出身の彼女は、同じイタリア出身のコンチーニという人物に実質上の政治をゆだねます。当時のフランスにとってイタリアは、文化的にも政治的にも先進地帯と考えられていたのです。


 幼いときは母に任せっきりだったルイ十三世も、成長するに従い、こうした状況に不満を抱くようになります。しかし王母マリは、ルイ十三世が成人しても実権を手放そうとせず、やがてふたりの関係は悪化していきます。


 そして一六一七年、業を煮やしたルイ十三世は、配下の者にコンチーニを暗殺させ、母マリをブロワ城に幽閉し、自ら実権を握ります。ルイ十三世のもとで政務を(にな)ったのは、マリとルイ十三世の確執の調停役を務めたリシュリューという人物でした。


 彼はもともとマリとコンチーニによって才能を見いだされ、地方の司教に過ぎなかった身から国政の舞台に躍り出た人物でしたが、この調停でルイ十三世に認められました。一六二二年にはフランスにおけるカトリック教会の最高位である枢機卿に任命され、さらに二四年には国務会議の一員となり、二九年に宰相に抜擢され、事実上政治の実権を握ることになります。


 国王の信頼を勝ち得たリシュリューは、フランス王権の強化に力を尽くします。


 三十年戦争のとき、ルイ十三世は対抗するハプスブルク家の勢力を抑えるため、プロテスタントを奉じる国家と同盟を結び、支援を行っています。これは、フランス王権がカトリック教会によって保障されていることや、リシュリュー自身がカトリックの枢機卿であることを考えれば、背信行為とも受け取られかねないものですが、レゾン・デタに基づく選択でした。




 しかし、対外的には国益を優先したルイ十三世─リシュリュー政権も、内政ではプロテスタントの弾圧という真逆の選択をしています。


 当時フランスでは、前王アンリ四世が出したナントの王令によって、プロテスタント(ユグノー)の信教は認められていました。そのため、個人の信仰は許したものの、集団を形成したり、拠点を設けることを厳しく禁じたのです。


 そうした中で目をつけられたのが、プロテスタントの国内最大拠点となっていたラ・ロシェルという町でした。西フランスの海岸に位置するラ・ロシェルは港町で、プロテスタントを奉じるイングランドの商人も数多く出入りしていました。


 弾圧を受けたラ・ロシェルは、一六二七年、イングランドに支援を求め、イングランドの艦隊が来たタイミングで武装蜂起を決行しました。鎮圧には国王自らが軍を率いて参陣し、ラ・ロシェルの町を包囲し、港には堤防を築き、イングランド艦隊を分断、徹底的に弾圧しています。


 こうした国内外の政策の違いを見ると、宗教が唯一絶対の基準ではなくなり、国家の利益というものが優先されるようになったものの、完全に宗教対立がなくなったわけではなく、ドメスティックな問題としては、依然として宗教が大きな位置を占めていたと言えます。


 そういう意味では、十七世紀前半のフランスは、大きな転換期ではあるものの、まだ単純に国家利益最優先だけで突っ走ることができない、過渡期でもあったと言うことができるのだと思います。


 一六四三年、その前年に亡くなったリシュリューの後を追うかのように、四十歳でルイ十三世が亡くなります。王位を継いだルイ十四世(在位一六四三〜一七一五)は、まだ五歳に満たない幼児だったので、ここでもその母のアンヌ・ドートリッシュが摂政となり、リシュリューの部下だったイタリア出身のマザランが宰相として実務を担いました。


 このときまだ三十年戦争は続いていました。ルイ十四世の即位直後にフランス軍がロクロワの戦いでスペイン軍に大勝したという吉報が飛び込んできたこともあり、マザランは国王の権力のさらなる強化を進めようとします。しかし、フランス国内には、リシュリュー政権のときからの強権的な統治に対して不満が積み重なっていたため、マザランによる王権強化方針に対し、その不満が爆発します。


 それが「フロンドの乱」です。


 そもそも十七世紀のヨーロッパは気候的に恵まれない時代でした。寒冷で不順なことが多く、農作物の収穫は少なく、経済的に悪化していたうえに、長引く戦争が人々を苦しめていました。

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