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教養としての「フランス史」の読み方
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歴史
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IV フランス革命とナポレオン──なぜ革命は起き、そして皇帝が生まれたのか

『教養としての「フランス史」の読み方』
[著]福井憲彦 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間40分
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 一七八九年五月五日、財政危機を打開するために、ルイ十六世が提案するかたちで「全国三部会」がヴェルサイユで開催されました。


 この前段階として、国王政府は、国の財政危機を立て直すために、特権階級への課税など中央集権的仕組みを作り上げるべく、さまざまな提案をしました。しかし、こうした提案はことごとく特権階級の反対に遭い、国王政府は改革がまったく進まないという閉塞状態に陥っていたのです。


 こうした閉塞状態を打開するために提案されたのが、すべての身分の国民から広く意見を聞く場としての「全国三部会」の開催でした。


 全国三部会開催にあたり、ふたつの準備が求められました。


 一つは各身分の代表者の選出。


 もう一つはフランス語で「カイエ・ド・ドレアンス」と言うのですが、わかりやすく言えば身分代表ごとにまとめられた「意見書(陳情書)」の提出でした。つまり、改革についての意見をまとめて提出するよう求めたのです。


 すべての身分に意見を求めたのは、必ずしも国民の権利の平等性を認めていたからではなく、「下からの意見を踏まえて」ということを大義名分に、国王政府の改革案に従わない特権階級をだまらせようという意図があったのではないかと考えられます。


 こうして開かれた全国三部会の参加議員数は、資格審査も長びいて、必ずしも安定しなかったようですが、ほぼ以下のとおりです。


 第一身分(聖職者) 二九一名


 第二身分(貴族)  二八五名


 第三身分(平民)  五七八名


 この代表者の数は、第三身分が多いとはいうものの、国民の割合に即したものではありませんでした(当時の第一身分は約一〇万人、第二身分は約四〇万人、第三身分は約二五〇〇万人だったと推定されています)


 では、どのようにして議員数が決められたのかというと、実は三部会の議員数は、一七八七年の州議会設置王令によって、第三身分の議員数は、第一、第二身分の総数と同じにすると規定されており、このときもその前例が踏襲されたのです。


 このとき問題となったのは、議員の数でも意見書の内容でもなく、議決の方法でした。第三身分は、全議員が(そろ)った総会で議員ごとの議決(一人一票)を求めましたが、特権階級は、あくまでも身分ごとに分かれて議決をとることを主張したため、開会直後から三部会そのものが開けない状態が続くことになってしまったのです。


 こうした(こう)(ちやく)状態は六月になっても続きました。


 独自の会合を続けていた第三身分の議員たちは、六月十七日、シェイエスの発議を受けて他の身分にも呼びかけ、独自に「国民議会」を宣言します。


 ちなみにシェイエスは、聖職者なのですが第三身分代表議員でした。実は第三身分代表議員の中には、下位の聖職者や下位の地方貴族がいたのです。シェイエスもそうしたひとりでした。


 しかし、国王政府は国民議会を認めず、第三身分代表議員たちが集まっていた議場を閉鎖してしまいます。それに対し国民議会は、近くの室内球戯場に集まり、新たな憲法が制定確立されるまで集会を続けることを誓いました。これがダヴィッドの絵画で有名な「球戯場(テニスコート)の誓い」です。




 その後、第一・第二身分から国民議会へ合流する者が増え、国王政府は態度を軟化せざるをえず、七月九日に議会の名称を「憲法制定国民議会」に改め、正式にこれを承認します。


 ちなみにシェイエスは、三部会開会に先立って八九年一月に『第三身分とは何か』というタイトルのパンフレットを出しており、その中で「第三身分こそが国民全体の代表に値する」と主張、革命初期のリーダーとして活躍していくことになります。


 憲法制定国民議会を一応は承認したものの、国王ルイ十六世はこのときもはっきりした態度をとりませんでした。おそらく、国王自身も政府の要人たちも、内心は力ずくでも議会を潰したいと思っていたのだと思います。というのも、このとき政府は地方からパリとヴェルサイユに軍隊を集結させていたからです。それは、議会も民衆も感じ取っていました。しかし、議会も憲法を制定するまでは集会を続けると宣言している以上、途中で投げ出して逃げることはできません。緊張感が漂うなか、国王は市民・民衆の神経を逆なでするような決断を下します。


 七月十一日、ネッケルという財務総監を罷免したのです。


 ジャック・ネッケルは、もとは貴族ではなく、ブルジョワ出身の銀行家でした。つまり、第三身分の出自から財務総監に抜擢された人物だったのです。啓蒙的な立場に立つ彼は、特権階級への課税を主張し、王妃や王の寵臣に倹約を促したことから、特権階級には嫌われていましたが、市民・民衆からはその活躍を期待されていました。


 そのネッケルを、国王は特権階級に責められて罷免してしまったのです。ここでもルイ十六世は自分の考えに基づいた選択をするよりも、周囲の圧力に負けてしまいます。


 ルイ十六世という国王は、そういう人なのです。


 ネッケルの罷免に(いきどお)るパリ市民のもとに、軍隊がパリを軍事制圧しようとしているというきな臭い(うわさ)が流れます。実際、その噂を裏づけるかのように、パリの練兵場「シャン・ド・マルス」には軍隊が集結し始めていました。


 このシャン・ド・マルスというのは、現在エッフェル塔が立っている場所から南東に開けている緑地あたりで、パリの中心街からは少し外れていますが、市内とは直結しているのでパリで軍事行動を準備するには最適の場所です。


 政府軍による襲撃を恐れたパリ市民の中からは武力抵抗の呼びかけが起こり、市内のあちこちで武器商店からの略奪も始まります。


 そして七月十二日、市の門が市民・民衆による焼き討ちに遭います。


 ヨーロッパの多くの町がそうであるように、パリも市内はぐるりと壁に囲まれていました。その所々に門があり、商人の持ち込む品物には物品税がかけられていました。つまり市の門は、パリ市民にとっては税金が(しぼ)り取られる嫌悪の的だったのです。


 かねてから市民にとっての演説の場となっていたパレ・ロワイヤルでは、ジャーナリストのカミーユ・デムーランが「諸君! 武器を取れ」と演説し、人々の勢いはさらに過激さを増していきました。


 そして七月十四日、「武器」を求めた群衆が武器のありそうな場所を襲います。


 民衆が最初に向かったのは、シャン・ド・マルスにほど近い「アンヴァリッド/廃兵院」でした。


 アンヴァリッドとは、ルイ十四世が造らせた施設で、戦争で負傷した兵士や行き場のない退役軍人を収容する施設です。人々はそこなら武器があるはずだと思って押し寄せたのですが、実際には武器はほとんどありませんでした。あったのは大砲数門と僅かばかりの銃だけでした。


 それだけでは収まりのつかない群衆が、その大砲と銃を携えて、次に目指したのがバスティーユだったのです。




 なぜバスティーユが狙われたのか。誰がバスティーユだと言い出したのか。


 襲撃にあたり、組織だった行動がとられたのか。


 バスティーユの襲撃にはいくつもの疑問がありますが、史料が少なく正確なことは確認が難しいというのが実状です。しかし、アンヴァリッドから流れた群衆とは別に、朝からバスティーユに詰めかけていた人々がいたことは確かです。


 日本では、多くの人が学生時代に使った教科書に、「バスティーユ牢獄」と書かれていたはずです。バスティーユは確かに一部が牢獄としても使われていたので、この呼称も間違いではないのですが、バスティーユは牢獄として建設されたものではなく、本来はパリの東側に置かれた要塞なのです。


 もちろん、この要塞には外からの攻撃に備えるという役割もありましたが、より大きな目的は、パリの東側に居住する職人・労働者を中心とした民衆階層を監視し、何か不穏な動きがあれば制圧することだったのです。バスティーユに駐屯していた部隊の矛先は、基本的には市内や市のすぐ外側に暮らしていた民衆に向けられていたのです。ですから、そこには、自分たちに向けられるための武器があることも彼らは知っていたのです。


 事実、襲撃が終わった後、バスティーユは僅か数日のうちに市民・民衆の手によって取り壊され始めます。バスティーユの解体は、圧政から市民を解放する狼煙(のろし)のような意味を与えられ、そのように受け取られました。


 しかもそのとき、したたかな商売上手がいて、解体したバスティーユの石材を使い、バスティーユの模型を作って地方で売り(さば)きました。その模型のひとつは、現在パリのカルナヴァレ博物館に展示されています。


 こうしてバスティーユ襲撃は、圧政に対する革命の狼煙として位置づけられ、パリのみならず、全国へと革命の波紋を広げていくことになったのです。


 バスティーユ要塞を襲撃したパリの市民・民衆は、犠牲者が出ても決して引かず、ついには要塞を落とし、司令官ド・ローネーをはじめとする何人かの軍人を市庁舎まで連行しました。


 バスティーユから市庁舎までは距離にして一キロ強、ゆっくり歩いても三十分もかからなかったでしょう。その僅かな距離の行進の末、民衆は市庁舎広場に()()れ込むと、ド・ローネーら捕虜の首を()ね、槍に突き刺し掲げたのでした。


 バスティーユ襲撃で犠牲になったのは、司令官たちだけではありません。市民側も死者九八人、負傷者七三人、という大きな犠牲を払いました。


 ところで、彼らはなぜ市庁舎を目指したのでしょう。


 これにはいくつかの理由が考えられます。まず一つは、市庁舎がパリ自治の象徴的場所だったということです。パリは都市共同体「コミューン」として自治が認められていました。もちろん自治と言っても、それはあくまでも王権のもとでの自治ではあるのですが、パリ市民たちは、自分たちの代表が市政を預かっているという、非常に強い自意識がありました。


 もう一つは、市庁舎前の広場がもともと何かあったときに市民が集まる場所だった、ということも大きかったと考えられます。


 パリの市庁舎は、セーヌ川の(ほとり)にあり、当時セーヌ川にはすでに護岸が造られ始めていたのですが、もともとの市庁舎の前には護岸がなく、砂利浜が広がっていました。そのため人々はここを市庁舎前広場ではなく、「グレーヴ(砂利)広場」と呼んでいました。


 グレーヴ広場はパリ市の荷揚場であり、日頃から多くの労働者が集まる活気に満ちた場所でした。また、祭礼のような行事にもこの広場が使われ、王政のもとでの処刑の場でもあったのです。


 なぜ人々が集まる場で処刑をしたのか、と思われるかも知れませんが、それは当時の処刑が基本的に「公開処刑」だったからです。現代人にとっては耐えられない状況ですが、首を切り落としたり、ひどい場合は八つ裂きにしたり、残忍な処刑を公開で行うのは、見せしめの意味があったのかもしれません。


 こうしたいくつかの要素があいまって、民衆は市庁舎を目指したと考えられますが、彼らが市庁舎を目指したとき、そこに「王政をひっくり返してやろう」という考えはなかったであろう、と見られます。


 フランス革命の始まりに位置づけられているバスティーユの襲撃ですが、この時点の市民たちの意識にあったのは、市政改革の(はん)(ちゆう)(とど)まるものだったと思われます。実際市民たちは、バスティーユの司令官を槍首にしただけでなく、市庁舎に着くと市長のフレッセルを引きずり出して、射殺した後、首を落としています。


 その後、新しい市長を据えているので、バスティーユの襲撃自体は、あくまでも現行の政治への不満を市民が爆発させた「市政革命」だったとは言えるでしょう。



 パリで市政革命が起きたことはその日のうちにヴェルサイユに伝えられましたが、その時点ではまだ、国王も憲法制定国民議会の面々も状況をよく理解していなかったと思われます。


 翌十五日、ルイ十六世は「国家の救済を国民議会に期待する」と述べ、軍隊の撤収を約束しました。王のこの発言がパリに伝わると、市政革命が宣言されるとともに新たな市長が選ばれ、市民軍は「国民衛兵」を名乗りました。


 このとき、国民衛兵がそのシンボルとして身につけたのが、後のフランス国旗になる赤・白・青の紋章でした。これは、最初は旗ではなく、国民衛兵が記章、つまりバッジとして身につけたものでした。(ちまた)にはこの三色は「自由・平等・博愛」を表したものだという説があるようですが、起源としては歴史学的にまったくの噓です。


 この記章はもともとパリ市のエンブレムの色である赤と青に、ブルボン王家を象徴する「白」を挟んだものなのです。ブルボン王家の白が入っていることを見ても、この時点で市民たちが国王廃位を考えていなかったことは推察できます。事実、十七日には国王がこの三色記章を身につけさせられてパリの市庁舎を訪れています。


 しかし、バスティーユ襲撃の一週間後、パリ地域の地方長官(アンタンダン)を務めていた人物がリンチのようなかたちで、やはり民衆によって殺されるという事件が起きた頃から、民衆の勢いが加速していきました。その勢いは地方にも広がり、農村部で次々と民衆蜂起、農民一揆が起こり始めたのです。


 このままでは民衆、とくに農民の統制がとれなくなる。そう考えた憲法制定国民議会は、(きゆう)(きよ)「封建制の廃止」を議題に取り上げます。


 憲法制定国民議会は、六月に発足した国民議会を、七月に国王自身が正式に承認したものですが、そのとき国王が承認したのは、あくまでも伝統的なシステムに(のつと)ったうえでの新たな体制作りを話し合うための議会、ということでした。当初から貴族と民衆と王権の間にすれ違いがあったことは事実ですが、おそらくその時点ではまだ封建制の廃止ということは考えていなかったと思われます。


 目先の()く貴族の中には、この頃から国外に亡命する者が出始め、民衆の暴動が各地に広がるにつれ、その数は増していきました。


 この時期、民衆の暴力性が一気に噴き出したわけですが、一方的に民衆が野蛮だったのかというとそうとも言い切れません。実は民衆のこうした暴力的な行為は、王政下の暴力的なやり方を見てきた民衆が、「こういう場合にはそうするべきもの」として引き受けてしまった結果なのではないか、という面もあるのです。ですから、このときの暴力行為だけを見て、「民衆が愚昧で暴力的だった」などと言うことは真実を見誤った見解と言えるでしょう。


 決して民衆だけが野蛮で暴力的だったわけではないのです。


 都市で起きた市政革命は、地方に伝わると農村ではまったく違ったかたちの現象を引き起こしました。


 このときに農村で起きたことをフランス語では「グランド・プール」と言うのですが、この言葉に適した日本語がなかったため、多くの本では「大恐怖」という表現がなされています。しかし私は、大恐怖というよりも、「パニック」と訳したほうが実態に近い表現だと思っています。なぜなら、このとき農村で起きたことを簡単に言うと、さまざまな噂が飛び交ったことで、農民たちがパニック状態に陥り、「やられる前にやってしまえ」ということで起こしたものだと考えられるからです。


 パリで市政革命が起きた後、各地の都市でも同じような市政革命が生じました。


 一連の市政革命は統制されているわけではないので、地域によっていろいろと違うのですが、王政下の市政、行政のあり方を否定し、新たなものを市民たちの手で構築しようとしたということだけは共通していました。


 しかし、農村では都市部ほど情報も多くなく、そこに住む人々の知の共有も都市部ほどには進んでいませんでした。いくつもの噂が飛び交い、農民たちの心を揺さぶります。


 町から逃げてきた野盗がこの近くにいて、近く襲ってくるらしい。都市で騒ぎを起こした連中が、村を襲いに来るらしい。あるいは、そうした都市の動きを見た貴族たちが、我々農民の動きを抑えるため、捕らえようと画策している、などの噂が広まりました。


 どれも根拠のない噂なのですが、農民たちはパニックに陥っていきました。


 なかでも農民たちを恐れさせたのが、「アリストクラートの陰謀」とされる噂でした。


 アリストクラートというのは、当時の社会の支配階級を指す言葉なのですが、ごく簡単に言うと、伝統的な貴族だけではなく、貴族層と融合した裕福な市民層も含めた表現です。領主や地主である彼らは、大体がお金を吸い上げ、賦役を課したり、搾取する存在として、農民からすれば、もともと良い感情を持つ相手ではありません。しかも当時は不作や飢饉が繰り返し起きていたので、農村部の生活は厳しさを増していました。


 その領主であるアリストクラートがどうも陰謀を(たくら)んでいるらしい、と農民たちが考えてしまったのが「アリストクラートの陰謀」という噂です。その内容は土地によってさまざまでした。


 アリストクラートが作物を集めて隠している。このままでは自分たちは飢え死にさせられてしまう。最近増えてきている浮浪者や野盗は、アリストクラートが雇ったものらしい。彼らに我々を襲わせて、すべて略奪するつもりなんだ。


 悪い噂がすべて、こうしてアリストクラートの仕業として帰結していったのです。


 その結果、パニックに陥り、恐怖に耐えられなくなった農民たちは「やられるまえに先にやらなければ」と、領主の館を襲撃したのです。


 これも場所によってやり方は違っているのですが、極端なケースでは、農民たちが領主の館を襲い、過去の証文を奪って火を放つということまでしています。


 この証文というのは、領主と農民の間で、権限や義務について交わされた一種の契約書のようなものです。この文書をもって領主たちは農民からの搾取を正当化していたので、農民たちはこのような行動に出たのでしょう。


 こうして相当広範囲の農村部で、七月から八月初めに至るまで、農民反乱のような暴動が展開していきました。行動に駆られた農民たちの心理を、二十世紀のフランスの歴史家ジョルジュ・ルフェーヴルは「農民たちは前に向かって逃げた」と評しましたが、まさにうまい表現だと思います。

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