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教養としての「フランス史」の読み方
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歴史
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V 王政・共和政・帝政、揺れるフランス──十九世紀のヨーロッパと覇権争いの中で

『教養としての「フランス史」の読み方』
[著]福井憲彦 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間11分
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 復古王政は、前章でふれたように、ナポレオンがエルバ島に流された翌月、一八一四年五月から始まります。王位に就いたのは、ルイ十八世(在位一八一四〜一八二四)、ルイ十六世の弟にあたります。


 ここで「ルイ十七世は?」と疑問に思われた方もいるかも知れません。ルイ十六世が処刑されて亡くなったとき、王党派はルイ十六世の幼い息子ルイ・シャルルが王位に就いたと見なしました。それがルイ十七世です。しかし、ルイ十七世は、タンプル塔に幽閉されたまま、その二年後、わずか十歳で病没しています。ですから、ルイ十七世は正式には王位に就いたとは言えないので、国王の系譜には数えられないことが多いのですが、王名としては残されているのです。


 ルイ十八世は、王位に就いて一年も経たないうちにナポレオンがパリに舞い戻り、再び亡命を余儀なくされます。しかし、ナポレオンの再起も「百日天下」と称されるように三カ月しか続かず、セント・ヘレナ島に流されると、ルイ十八世は再び王位に就き、復古王政はここから本格的にスタートします。


 復古王政は、革命前の絶対王政とは違い、王権が制限された立憲王政です。それでも王政に戻ったことで、外国に亡命していた多くの貴族がこの時期に帰還しています。帰還貴族たちは、かつての爵位とともに所領や屋敷などの財産も取り戻そうとします。爵位は革命前のものが認められましたが、さすがに特権と財産はもとには戻りませんでした。


 とはいえ、議会は世襲貴族議員からなる貴族院と、高額納税者から選ばれた議員からなる下院による二院制がとられました。選挙権が与えられたのは、一定額以上の納税者に限られたため、約三〇〇〇万人の国民中わずか九万人でした。高額納税者に限定されていた下院の被選挙権においては一万六〇〇〇人に過ぎません。


 このことだけを見てもわかるように、フランスの近代化は、フランス革命からすべてが順調に進んでいったわけではないのです。特に十九世紀のフランス史は、「フランス革命のドラマを百年という長いタイム・スパンで再演して見せたものだ」と言われるほど、王党派と共和派の間でのせめぎ合いが繰り広げられることになります。


 ルイ十八世の時代は、それでもまだ共和派が力を持っていたと言えます。制限選挙であったとはいえ、国王も立憲王政にある程度の理解を示していたからです。しかし、次のシャルル十世(在位一八二四〜一八三〇)の時代になると、もっと極端に王党派の色が濃くなります。


 一八二四年、ルイ十八世が亡くなり、子どものいなかったルイ十八世の後継者に決まっていた弟アルトワ伯が王位を継ぎ、シャルル十世となります。


 シャルル十世は、革命初期から反革命軍を組織し、革命を潰そうとした筋金入りの絶対王政論者でした。そのため王位に就いてからは、ことあるごとに過去の絶対王政のスタイルに戻そうとします。


 しかし、すでに時代は変わり、市民・民衆には革命期の精神が浸透していました。いくら王権を振りかざしても、それは反発を招く結果にしか(つな)がりません。


 当時のフランスは、体制としては立憲王政のスタイルをとっていましたが、議会に参加できるのは貴族と高額納税者だけという、社会の上層部の人間に限られていました。


 これは、イギリスの立憲王政とは根本的に違うところです。


 イギリスの場合、王は「君臨すれども統治せず」と言われるように、政治の中心はあくまでも議会、それも庶民院(下院)にありました。議会が市民に開かれていたため、国家が市民の自由な動きを制限することがなく、その結果、いろいろな実業家が出現します。


 こうした状況は、この時期のフランスではまだ見られません。フランス革命を経てもやはりまだ、名士層が上から社会全体を(ぎゆう)()るようなシステムは、変わっていなかったからです。


 しかし、そうした中で、このままではいけない、もっと自由な動きを活性化させないとイギリスにも勝てない、新しい経済社会に対応することもできない、と主張する人たちが現れてきます。その代表の一人が、銀行家のラフィットでした。彼の名は、パリの通りの名前「ラフィット通り」として今も残っています。


 ラフィットは、南西フランスのバイヨンヌで大工の子として生まれました。革命直前の一七八八年、パリに出てスイスの銀行家のもとで簿記係から頭取にまでなり、その後、フランス銀行の理事を経て総裁になったという、民衆階級出身の苦労人でした。それだけに、名士層の支配が凝り固まっている現状に、問題意識を持っていたのでしょう。


 前にも話したとおり、ヨーロッパの産業及び商業は、中世以来ギルドと言われる組合や社団を中心に発展してきました。ところが、十八世紀から経済の規模が拡大していくのに伴い、ギルドなどの社団が自由な市場活動の(あし)(かせ)となっていました。イギリスでは早くからギルドの解体が進み、十九世紀初頭には、すでに能力と資金力さえあれば、誰でも市場に参加することができる社会になっており、経済が大きく発展してきていました。


 フランスも一刻も早く規制をなくしていかなければ、イギリスの経済力の前になすすべもなく従属せざるを得なくなることが目に見えてきていたのです。しかし、そういう切迫した状況にあることを、フランス革命後になっても、国王とその側近は理解できていませんでした。そのため言論統制など、時代に逆行するような統制を強めていったのです。


 そして、シャルル十世がさらに統制を強めようとしたとき、ついに一般市民のみならず、ラフィットのような上層の経営者たちも含め、自由を求めたかなり広範囲の層の人々が、復古王政のシステムに対し叛旗をひるがえしたのでした。


 そうして起きたのが、一八三〇年の「七月革命」です。


 シャルル十世は、絶対王政という過去の栄光の再現を夢見ました。彼がそうした夢を諦めきれなかったのは、まだヨーロッパ大陸では多くの国が君主制をとっていたからです。


 十八世紀、フランス革命が起こる直前、オランダやスイスのジュネーヴなどで自由を求める動きが現れたことがありました。しかしそのときは周辺諸国から軍隊が派遣されて、制圧されてしまいました。


 そうした中でフランスは、革命を起こし、周辺諸国の介入をなんとか退け、帝政へと移行しました。そこでいろいろな混乱が起き、再び国王を戴くことになったわけですから、王政復古によって、政治的にはフランスは以前の状態に戻ってしまったとも言えます。ブルボン王朝が再興したことで、シャルル十世は、やはり王政こそが国家のあるべき姿なのだと思ったのかも知れません。


 しかし、それは幻想でした。


 なぜなら、政治的自由を求める運動は、このときすでにドイツでも、イタリアでも、スペインでも起こり始め、君主制の国は軍隊によってそうした動きをなんとか制圧していたものの、実際にはもう抑えきれない状況になっていたからです。


 イギリスが先頭をきって自由度の高い、新しい工業化を進めていたため、どこの国も経済体制そのものを変えていかないと、(おく)れをとってしまうという状態でした。


 どうすれば、自国の経済をイギリスのように発展させることができるのか。ヨーロッパ諸国は真剣に考え、変えていかなければならないところまで追い込まれていたのです。


 少なくとも旧態依然とした階層秩序の社会、つまり支配する人と支配される人が世襲的に続く社会ではもう対応しきれないことは明らかでした。必要なのは、下からの自発性をうまく吸収し、社会の中でそれを活かしていくための仕組みでした。


 イギリスは立憲王政の国家です。イギリスは王室があり、貴族もいるのに、下からの動きを阻害することなく経済的発展を遂げた唯一の国でした。当時のヨーロッパ諸国がどこも成しえなかったことを、なぜイギリスだけができたのでしょうか。


 それは、十七世紀の間に政治的混乱をいち早く経験したからだと考えられます。イギリスは十七世紀の間に、十八〜十九世紀初頭にかけて多くのヨーロッパ諸国が直面していたさまざまな問題をクリアして、十八世紀中にすでに立憲王政の体制を成立させていたということです。


 イギリスにとって幸いだったのは、王権を規制する議会「パーラメント/Parliament」が中世から徐々に力をつけてきていたことです。イギリス議会の歴史は古く、十三世紀までさかのぼることができます。そして、十四世紀にはすでに、課税など一部分ではありますが、王権が議会に制限されるという状況が生まれていました。


 イギリスのこうした議会と王権の力関係が決定的なものになるのが、十七世紀のいわゆる「ピューリタン革命」です。時のイギリス国王チャールズ一世の専制的な政治姿勢を議会が厳しく批判することから始まった革命(一六四〇〜一六六〇)は、激しい内乱に発展していきます。革命派の内部は、社会層や宗教の傾向から決して一様ではなく、しかも長老派教会のスコットランドとの関係、カトリックのアイルランドとの関係も、時期によって複雑な状況を呈しました。この過程でイギリスはチャールズ一世を処刑したり、共和国を宣言したり、独裁政権が生まれたりと、短い期間にさまざまなことを経験します。最終的に王政復古するものの、王が自分の意志で直接国政を左右する絶対王政からの脱却を、十七世紀末に果たしました。


 こうした時代に登場したのが、医師でもあり政治思想家でもあったジョン・ロックです。ジョン・ロックは議会革命を正当化する論陣を張り、彼の思想は十八世紀の啓蒙思想のひとつのたたき台となっていきます。フランスの啓蒙思想家ヴォルテールも、イギリスに亡命したとき、ジョン・ロックの残した書物を読んだのでしょう、思想的に大きな影響を受けています。


 理解しやすくするために「イギリス」という表現を使いましたが、正確にはこの時点でイギリスという国は存在していません。


 イングランドが主体になりましたが、その歴史はイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドという四つの国のせめぎ合いでした。これがイングランドとスコットランドの合同というかたちで、グレートブリテン王国として成立するのは一七〇七年のことです。


 四つの異なる国のあり方をどのように調整するかという問題に加え、イギリスにはさらにそれぞれ異なる宗教を信仰しているという宗教的な問題もありました。スコットランドは長老派、イングランドはイギリス国教会、アイルランドはカトリックです。ウェールズは比較的早い時期に、イングランド王国に吸収されるかたちになりました。


 こうした宗教的な違いもあり、ピューリタン革命では多くの血が流されました。カトリックにこだわった国王を排除し、二度目の革命となった名誉革命(一六八八〜一六八九)では、ごくわずかな犠牲だけで問題を比較的うまく調整することに成功しています。


 この名誉革命によって国王は、国民の権利と自由を認めるとともに、国王に対する議会の優位を確定した「権利宣言」を承認。「君臨すれども統治せず」と表現される議会中心の国政スタイルが確立されたのです。


 では、十七世紀から十八世紀にかけてイギリスがそういう状況になっていたとき、フランスはどうしていたかというと、カトリック王国であることを強調していたルイ十四世が、名誉革命で退位を余儀なくされたジェームズ二世(チャールズ一世の子/在位一六八五〜一六八八)の亡命を受け入れ、再起を図る援助をしたりしていました。ただ、フランスからイギリスに派兵して(たた)くということまではしていません。それはやはり両者を隔てる海の存在と、イギリスの海軍力が(あなど)れないものであったことが大きく影響していたと考えられます。


 海軍力が大きなアドバンテージとなることは、イギリスも熟知していました。実際、十八世紀のイギリスは、相当な軍事費を海軍の増強に費やしています。そして、その強い海軍力を活かして、イギリスは大西洋を制圧し、アジアの植民地と本国を連結させることに成功し、経済的にも発展したのです。


 イギリスに対抗するため、フランスはまだシャルル十世治世の一八三〇年七月五日、アルジェリアに武力侵攻を始めます。


 シャルル十世はその直後に起きた七月革命によって、八月二日に退位させられてしまうので、彼は、アルジェリアを制圧できたわけではありません。アルジェリア侵攻は新政権、七月王政に引き継がれました。フランスの勢力を地中海の外に伸ばしていこうという、後の帝国主義に繫がる動きが展開されていきます。


 シャルル十世が退位させられたことで、ブルボン王朝は終わりを告げます。代わって国王の座に就いたのは、ルイ十四世の弟の血筋、オルレアン家のルイ・フィリップ(在位一八三〇〜一八四八)でした。


 ルイ・フィリップの父、オルレアン公は革命期には「平等公」という異名を持ち、比較的早い時期からイギリス型立憲王政を支持していた人物として知られていました。

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