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教養としての「フランス史」の読み方
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歴史
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VI なぜ、世界大戦は起こったのか──戦争の時代からEUの時代へ

『教養としての「フランス史」の読み方』
[著]福井憲彦 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間34分
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 本書の序章で、私は次のように述べました。



 国民国家という政治理念とそれに伴うある種の実体が形成されるのは、フランス革命(十八世紀末)以後のことです。それ以前に国民国家は存在しません。(中略)


 なぜユーラシア大陸の西の端に位置するフランスで、国民国家の理念が誕生したのか。


 彼らは、どのようにしてその理念を実際の国家に反映させていったのか。



 そして、今述べている十九世紀から二十世紀にかけての時代こそが、まさにフランスが、そして世界が「国民国家」を成立させていく時代なのです。


 今まで述べてきたとおり、フランス革命で掲げられた理想は、そのまま素直に受け入れられ、現実に反映されていったわけではありません。周辺の君主国家からは(たた)かれ、フランスはそれに対抗するものの、国内は必ずしも一枚岩ではなく、共和政、帝政、復古王政、共和政、第二帝政、そしてまた共和政と、迷走しながらも少しずつ理想を現実のものとしてきた、というのが革命以降のフランスの姿です。


 ⅣからⅤまで、その迷走するフランスの姿を追ってきたわけですが、ここで一度立ち止まって、フランス革命から国民国家の成立にいたる経過を少し広い視野で考えておきたいと思います。その前提として、まずは「国民国家」とは何か、ということに触れておきたいと思います。

「国民国家/Nation-State」とは、一つの「ネイション/Nation」が一つの「ステイト/State」を形成するという、国家の形成に関する政治原理を意味する言葉です。フランス語では「ナシオン(ネイション)」と「エタ(ステイト)」となりますので、国民国家は「エタ・ナシオン」です。


 これは逆から表現すると、一つのステイトを構成しているのは一つのネイションである、という考え方に基づいていると言えます。ここで問題となるのが、「ネイション」という言葉の意味です。


 私たち日本人は「Nation/ネイション」と言われると「国家」と訳すことが多いのですが、実はネイションの意味は「国家」だけではありません。ネイションという言葉には、基本的に「国民」という意味と、「国民を基盤とした国家」というふたつの意味があります。では、国家や国民という「国」を前提としたまとまりが「Nation/ネイション」なのかというと、そうとも言い切れないのが難しいところです。


 ネイションは、必ずしも独立国家のかたちをとっていなくても、同一の歴史や言語・文化を持ち、自分たちは国家を形成すべき存在なのだと主張する集団に対しても用いられる言葉だからです。そうした場合、ネイションは「民族」と翻訳されます。


 つまり、「Nation」とは、国家・国民・民族という三つの意味と内容を含んだ言葉なのです。日本語には、これら三つの意味を同時に表現できる単語がないので、その時々の意味に即して訳語が変わってしまうのがわかりにくいところです。


 でもネイションは、最初から複雑な言葉だったわけではありません。「Nation/ネイション」がこうした複雑な意味を内包するようになったのは、実は十八世紀末から十九世紀にかけて、つまり国民国家の(ほう)()期のことなのです。


 それ以前もネイションという言葉は存在していましたが、意味は単純で「同郷の人間集団」を表す言葉でした。国家とは直接には関係のない言葉だったということです。事実、ネイションの語源であるラテン語の「ナティオ」は、「生まれる」という意味の単語です。


 では、いつからネイションが国家という意味を内包するようになったのでしょう。正確なことはわかりませんが、国家と結びつけて用いるようになったのは十八世紀の啓蒙思想家たちだったようです。


 スコットランドの著名な啓蒙思想家アダム・スミスが、一七七六年に出した『国富論』という本があります。この本の原題は『An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations』というものなのですが、ここに使われているネイションは国民を意味すると同時に国家をも意味しています。


 当時、一般の人々に「国民」という概念はまだありません。しかし啓蒙思想家の間では、すでに理念としての「国民」が明確に語られていました。


 こうした理念上の存在に過ぎなかった「国民」が、実際の政治において、単に国家内に住まう人々ということ以上の意味を持つようになるのは、フランス革命以降のことです。


 なぜなら、フランス革命によって、初めて「国家の主権者は国王ではなく、国民自身である」という原則が明確に打ち出されたからです。つまり、フランス革命によって、国民であり国家を意味する(民族をも意味しうる)「Nation」が、一つのステイトという政治体となる「国民国家」の歩みが、始まったと言えるのです。


 革命以前のフランス社会は、さまざまな特権が存在する「不平等が当たり前」の社会でした。そこにフランス革命によって、すべての市民は法の前に平等であり、等しく政治的な権利を行使できるという、目指すべき理想が掲げられたのです。


 もちろんこうした理想がすぐに実現したわけでないのは、すでに本書でも見てきたとおりです。しかし、革命の最も基本となる理念が明確に打ち出されたことで、それを実現するために必要な具体的な措置を、さまざまな形で講じ始めたのは大きな前進と言えます。


 革命直後に真っ先に行われたのが、平等という理念に反する身分や社団に伴う「特権」の廃止でした。次いで行われたのが、旧州の廃止と新たな県の設置です。このような措置がとられた最大の理由は、旧州は権利状態に大きな格差があったからです。古い枠組みを廃止し、新しい枠組みに変えることで、古いしがらみや権利の格差を一掃し、全国の国民がすべて平等な法的条件で国家に組み込まれるようにしたのです。


 また、暦を革命暦に変更したという話をしましたが、同じ頃に検討を始めたメートル法も十八世紀末に採用しています。それまでフランス国内でも度量衡は統一されておらず、地域ごとに異なる尺度が用いられていました。国民が一つの同じ尺度を用いれば、平等に、そして公正な条件で取引が行えるようになります。またこれは、国家が全国規模で社会や経済を動かそうとするときにも、大変便利で重要なシステムでした。事実メートル法は、その合理性が買われ、フランスだけでなく世界中に広まっていきました。


 統一ということでは、標準的なフランス語への統一が本格的に進むのも革命以後のことです。言語の統一は十六世紀の王政下から試みられていましたが、それはあくまでも為政者である国王の決定を国の隅々にまで知らしめることが第一の目的でした。そのため地方の役人や上層部の人はフランス語を使うようになりましたが、一般庶民は日常的にブルトン語、プロヴァンス語、オック語系言語など、地域ごとに異なる言葉を使っていました。


 革命以後の言語の統一は、国民という平等な存在から構成される国家では、国民が同じ言語で議論し、意思疎通できる状態があるべき姿だと考えられたためで、旧体制下とは意味合いが大きく違うのです。しかし、言葉や習慣というのは、そう簡単には変わりません。そのため、急激な変化を望む中央政府と、地方ごとに違うのが当たり前だと考えている人々の間には溝ができました。そして溝は、時に争いの種にもなりました。こうした革命の理念に基づくシステムの変更は、その実現の多くが十九世紀まで持ち越され、国民国家の課題として継続して取り組まれていきます。


 なぜ革命後に政体が変わっても、これらの課題が立ち消えになることなく、継続して引き継がれたのでしょう。それは、国民国家の形成が、資本主義経済の推進と深く関わっていたからです。


 資本主義が進めば、それに見合った国内市場の整備と経済システムの確立が求められます。そして、工業化の進展に必要不可欠なのが、勤勉な労働者としての国民です。


 これはフランスに限ったことではないのですが、資本主義が発展すれば、国外にも市場としての植民地の確保が課題となり、競争に打ち勝ち、植民地を獲得するためには強い軍事力が必要となります。こうしてヨーロッパ諸国はみな、多かれ少なかれ資本主義が進む中で、富国強兵路線を歩むことになっていきます。強い軍隊に必要な効率的な組織化を実現するためには、国の内部で暮らす住民一人ひとりを「国民」として動員することが必要になります。


 労働力としての国民の確保と、軍事力強化のための徴兵システムの整備、このふたつの目的を満たすための前提をつくる国民教育制度の確立は、時期の差はあれ、十九世紀のヨーロッパ諸国の共通の政治課題となっていったのです。そしてこの課題は、フランス革命が掲げた国民国家の形成と一致したのです。


 事実、十九世紀はもはや国民の同意なしに、一部の人間の意向だけで政治を行える時代ではなくなっていました。


 ヨーロッパ諸国が国民国家としての内実を形成していく過程は、ほかの地域世界からすると、ヨーロッパ諸国が競い合うように富国強兵路線を推進していくということと同じでした。国民国家の形成と富国強兵は、コインの表と裏のように一体をなしていたと言ってもいいでしょう。


 これが、十九世紀のヨーロッパが「国民国家の時代」と言われる理由なのです。


 この時期のヨーロッパ諸国は、ドイツのように、あらたに統一国家を形成した国家も含めて、どの国もが世界における有力国家としての位置の確保を目指し、経済競争における覇権の確立、さらにそれに伴う植民地の獲得競争が進んでいくことになります。


 ここで誤解してはいけないのが、国民国家が形成されたのちに、帝国主義に伴う植民地争奪の時代がくるのではない、ということです。国民国家が形成されていく時代が、同時に帝国主義と言われる時代、ないしは帝国形成が追求された時代でもあるのです。


 ヨーロッパが生み出した「国民国家の原則」は、アジアやアフリカにあったヨーロッパの植民地が二十世紀に独立しようとしたときに、やはり基本原則として用いられることになります。


 つまり、「自分たちは言語や文化を共有し、共通の歴史を経験してきた同一的な集団としてのネイション(nation)だが、自分たち自身で独自の決定権を持つ国家(state)をまだ形成できず、従属を強いられている。だから、ネイションがひとつのステイトを形成することを、自分たちの権利として求める」と、主張し運動したということです。こうした主張や運動を、「ナショナリズム/nationalism」と言います。


 ナショナリズムは、その(つづ)りを見ればわかるように、もとは「nation+ism」なので、直訳すると「ネイション主義」となります。でも、現在の日本語では、一般に「民族主義」と訳されます。これも「ネイション/nation」という言葉が、国家・国民・民族、という三重の意味内容を含み持つことがわかっていないと、混乱の原因になるので注意が必要です。


 当然のことですが、ネイションが三重の意味内容を持つようになり、国民国家という概念が生まれるまで、ナショナリズムという言葉はありませんでした。ナショナリズムは、十九世紀に、覇権競争・植民地獲得競争において、国家の威信や国際的な権威といった観点が生まれる過程で、大きく育っていったと言えます。


 それ以前において国民国家の形成を目指すナショナリズムは、十九世紀ヨーロッパでは国民を主体とした統一や独立を目指す動きとして登場します。具体的には、ドイツの統一やイタリアの統一の運動がまさにその代表でした。


 こうした統一を目指す考え方と動きは、まだ自分たちの独立した国家を持っていない人々、たとえばハンガリーやチェコのようなオーストリア帝国内に存在した民族集団や、民族の生活領域をロシア、プロイセン、オーストリアによって分断されてしまったポーランドなどの独立の動きにも、影響を与えていきました。


 しかし、こうした統一・独立を目指すかたちで生まれてきたナショナリズムは、十九世紀末になると、その性格が変容してきます。


 それは、国民一人ひとりが国民国家の一員として政治に参加するようになっていったことで、ナショナリズムがさらに高まっていったことと関係していました。


 ナショナリズムの高揚が、「ほかの国に負けるな」「競争相手には勝たなければならない」「自分たちの国こそが最も優れているのだから、自分たちの国が世界をリードするのは当然だ」といった、自国中心主義の考え方を生み出していくことになったのです。


 こうしたナショナリズムは、ある種の危険を含んでいました。自国にいい結果が出ているときは自負心が満足させられるのでいいのですが、自国にとって良くない結果が出たときや、国内の状態が芳しくないと感じられたときには、満たされない自負心を慰めるためのスケープゴートが生み出されてしまいがちだからです。


 具体的に言うと、「こうなってしまったのは、外国からの妨害があるからだ」とか、「国内にいながら国民として運命を共有してない外国人や異分子どもが悪いのだ」といったように、責任を国民国家の外部のものになすりつけていくようになる、ということです。またそうすることで、国民国家としてのタガを締め、団結をいっそう強化しようとしたとも言えます。


 実際、不況が起こると、そのたびに国内の移民労働者やユダヤ人が迫害されるという事態が、十九世紀末以降のヨーロッパでは繰り返し起きることになります。もちろん、すべての人々が排他的なナショナリズムを持つようになったわけではありません。しかし、主に右翼を(にな)い手とした排他的なナショナリズムが、十九世紀末頃からヨーロッパにその姿を現してきたことは事実です。


 このように見ていくと、「国民国家」という理想の実現の過程で生まれたナショナリズムが、国民国家の成長発展とともに肥大化し、変質していったことで、ヨーロッパ諸国の勢力争い、植民地競争、あるいは経済覇権をめぐる争いが激化し、第一次世界大戦へと繫がっていったとも言えるのです。





 一八七一年以降のビスマルクが主導していたドイツ帝国は、独仏戦争後もフランスを孤立させる政策を意識的に追求していました。一八八一年にオーストリアとともにロシアと三帝協商を結んだドイツは、その翌年にはオーストリア・イタリアと三国同盟を結び、フランスを外交的に孤立化させています。イギリスの王室はハノーファーの王室と血縁関係にあったことから、ドイツは比較的関係が良好だと見なし、対抗関係になることはないと踏んでいました。


 このようにビスマルクの時代のドイツは、フランス孤立政策を遂行して、(たく)みに外交戦略を行っていたのですが、ヴィルヘルム一世が亡くなって、次のヴィルヘルム二世(在位一八八八〜一九一八)が皇帝の座に就くと、老練のビスマルクは辞任を余儀なくされてしまいます。


 ヴィルヘルム二世は、一世の息子ではなく孫でした。若いヴィルヘルム二世は、帝国建設の功労者であるビスマルクを尊敬していましたが、自らが帝位に就くと、老人のやっている(こう)(かつ)な外交政策が気に入らなかったのでしょう。ビスマルクを罷免し、「老いた水先案内人に代わって私がドイツという新しい船の当直将校になった」と言って、ストレートに強いドイツを打ち出す政策に(かじ)を切ります。こうしてドイツは、「世界政策/ヴェルトポリティーク」と言われる対外強硬路線に転換していきます。


 強いドイツを示すためにヴィルヘルム二世は、軍事力を強化し、軍艦も次々と建造させます。そして、その強い軍事力を(もつ)て、ドイツはアフリカにも進出していったのです。


 しかし、力の政策を遂行し、軍艦を次々と造ったことで、ヨーロッパ一の海軍力を誇るイギリスとの間で建艦競争が始まることになります。ドイツが良好だと踏んでいたイギリスとの関係は、この頃から怪しくなっていくのですが、ドイツはまだそのことに危機感を持っていませんでした。ドイツは、少しずつ孤立化していくことになります。


 ロシアもドイツの対外強硬路線と軍事力増強の動きに対し、次第に警戒するようになります。そうしたなかで、ロシアとフランスの間に「露仏同盟」が結ばれます。一八九四年のことでした。


 共和政のフランスと、ツァーリ支配のロシアとが軍事同盟を結ぶのですから、この同盟にはフランス内部でも批判が出ました。しかし、国際政治の力学のなかで国益が優先され、同盟が実現したのでした。


 こうしてドイツは、せっかくビスマルクのときにはフランスを孤立化させることに成功していたのに、いつのまにか自分が孤立し、このままでは有事の際にも、東西の二正面作戦を余儀なくされるかも知れないという状態になってしまっていたのです。それでもまだ、イギリスと戦争になることはないだろうと甘い読みをしていました。

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