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中国外交 苦難と超克の100年
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歴史
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第4章 ショウ介石が手に入れた「史上空前の勝利」

『中国外交 苦難と超克の100年』
[著]朱建栄 [発行]PHP研究所


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蔣介石は本当に日本に弱腰だったか


 一九二〇年代後半、()(なか)()(いち)内閣の発足、東方会議の開催を転換点に、日本は山東出兵、(ちよう)(さく)(りん)爆殺など、中国に対する「積極外交」を展開した。これは中国から見れば、露骨な対中武力干渉がエスカレートする前触れとなった。同じ時期に、蔣介石は広州革命政権による「(ほく)(ばつ)」を通じて北方の軍閥勢力をほぼ平定し、中国の行政上の再統一を実現して、最高首脳の地位を獲得した。それ以後、彼は中国外交を主導するようになるが、日本からの脅威を最重視し、日中戦争勃発前まで外交の重点を一貫して「日本による侵略の拡大を遅延させ、抵抗する」ことに置いた。


 一九九〇年代前半までの中国の教科書は、三〇年代の蔣介石について、満州事変で「不抵抗主義」を提唱して東北三省の領土喪失に何も手を打たず、「攘外必先安内」(外敵に対抗する前、先に内部を安定させるべし)のスローガンを掲げて内戦(共産党勢力の掃討や軍閥間の戦争)に熱中するが、日本の侵略には妥協と譲歩を重ねたこと、最後に「西安事変」(一九三六年十二月、(ちよう)(がく)(りよう)らが起こした武力による蔣介石監禁事件)に出遭い、やむなく対日抗戦路線に転換した、との文脈で紹介している。


 ただ台湾側の資料公開にともない、その時期の蔣介石の対外政策と戦略は、必ずしも中国の教科書で紹介されたようなものではないことが明らかになった。とくに二十一世紀に入って、蔣介石が一九二〇年代以降ずっとつけていた日記(遺族によって米スタンフォード大学フーヴァー研究所に寄贈)が閲覧可能になり、この第一次資料によって蔣介石外交の内面がほぼ完全に知られるようになり、これまでのイメージとかなり異なる彼の真実の姿に接して、中国大陸の学界では小さくない衝撃が走った。


 その日記や各資料から総合して見ると、蔣介石はナショナリズムの意識が強く、軍人出身による戦略重視の指導者として外交問題をつねに重視していた。孫文の「手段を選ばぬ」外交に比べ、蔣介石は原理原則を重視し、袁世凱の場当たり外交に比べ、彼は長期戦略を重視するという首尾一貫した特徴を見せた。


 彼は軍指揮官として「(さい)(なん)事件」(一九二八年夏、国民政府軍が国家統一をめざして北上した際、山東省済南市で日本軍に妨害され、多数殺された事件)を処理する過程で、日本の軍国主義と対中蔑視に強い反発、敵視感情をもち、満州事変以降は「日中は早晩一戦を交える」と考えるようになった。


 他方、日本の士官学校に留学した経験があり、日本の軍事力ははるかに当時の中国を抜いているとの冷静な認識をもち、世間が「早く日本と対決せよ」と騒ぐなか、彼はよほど追い詰められないかぎり、国力の回復と軍事増強を優先にすべきで、日本との真正面の対抗をできるだけ先に引き延ばしたいとの考えをずっともっていた。


 そのため、一九三一年九月十八日に満州事件が発生した直後、蔣介石は「日寇(日本の蔑称)の野望が暴発したら、もはや収まりがたい。東アジアはこれより安寧はなし」(九月十九日日記)、「日本人は侵略を実施に移した。世界の第二次大戦がこれで始まる。各国人士はこれを見通せるか」(九月二十二日日記)との深刻な憂慮をもちつつ、「わが国民の勇気と戦意はとっくに(つい)えており、長期的な準備なしに、一時的な憤慨に浸っては国に益はなく、逆に滅びるのが早まるだけだ」(十月七日日記)と記し、即時の対日抗戦は「時期尚早」と判断した。


 一九三五年になって、日本軍が華北事変を起こし、一段と中国の中心地域に軍事的圧力を加えたときも、「()(こう)の横暴、もはや理屈で(たと)えることにあらず。だが最後の関門に至らないかぎり、之に忍耐すべし」と六月一日付日記に書いた。そして一九三六年秋の時点では「三年以内に倭寇が中国を滅ぼせないかぎり、その脅迫を恐れることはもはやなし。当面はやはり我慢せざるを得ない」と書き残した(九月二十六日日記)。極秘に進めた軍備拡張に手ごたえを感じつつ、三年以内は日本との対決を回避しようとの戦略を決めていた。

ドイツが支えた中国の軍備拡張


 では「我慢」「忍耐」を自分に言い聞かせ、また全国民にもそのように呼び掛けているあいだ、蔣介石は避けられない対日決戦をどこまで覚悟して、戦争準備に取り組んでいたのか。彼の日記や諸外国関係者の証言が明らかになるにつれ、じつは彼は「攘外必先安内」のスローガンのもとで、割拠する共産党勢力を討伐して国内の政治統一を図る一方、裏では日本に対抗するための軍事力の大挙整備を積極的に進めていた。そして驚くことに、蔣介石が最も頼りにしていた外国の協力者はほかでもなく、まもなく日本と軍事同盟を結ぶドイツだった。


 蔣介石は南北統一を実現した一九二八年から一九三八年までのあいだ、相次いでドイツの将軍(計四人)を軍事顧問に招聘した。当初、主に諸軍閥や共産軍に対する軍事作戦でその協力を得ていたが、まもなく彼らを日本に対する軍事準備および実際の日中軍事摩擦への対応に深く巻き込んでいった。三二年一月の(しよう)()抗戦(第一次上海事変)(ちよう)(じよう)抗戦(熱河作戦)から、ドイツ人軍事顧問は中国軍の指揮にも参加するにいたった。三四年、日本との全面対決に備える最重要な軍事準備の一環として、主要武器の国産化を図る「軍需発展五カ年計画」はドイツ顧問団(ピーク時は七〇人に達した)の指導で制定され、翌年から漢陽、南京、湖南などの軍事工場で新型機関銃、大砲、狙撃銃、戦車部品、毒ガスマスクなどの製造が始まった。

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