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満洲事変 「侵略」論を超えて世界的視野から考える
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歴史
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第四章 一九二〇年代の国際理念と東アジア情勢

『満洲事変 「侵略」論を超えて世界的視野から考える』
[著]宮田昌明 [発行]PHP研究所


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民族主義をめぐる国際対立


 一九二〇年代は、第一次世界大戦後の経済再建、国際協調の時代であると共に、民族主義の昂揚を背景に、イギリス、アメリカによる新たな国際秩序の形成に向けた動きと、ソ連による革命運動が対決した時代であった。当初、その対決はヨーロッパで展開されたが、その後、舞台は中華民国へと移る。


 内戦状態にある中華民国に対し、特にイギリスがその政治的、経済的安定化に向けて主導権を発揮しようとしたのに対し、ソ連は民族主義を反帝国主義運動に転化するため、中国国民党に軍事支援を与えた。以下、アメリカ、イギリス、ソ連それぞれの内外情勢を踏まえ、中華民国および日本、そしてそれらの周辺地域となる各地の情勢について、概観していく。

第一次世界大戦後のアメリカ


 第一次世界大戦後、アメリカの景気は後退し、一九二一年の失業者は五百万人に達した。にもかかわらず、ウィルソンは外交問題に関心を集中し、経済問題に十分に取り組むことができなかった。しかもアメリカ上院は、連盟参加を否決した。共和党主流派は、ヨーロッパへの投資や輸出の拡大を必要と考え、イギリスとの協調を重視し、国際連盟参加に原則として賛成していた。しかし、共和党反主流派は、国際連盟を帝国主義的国際組織とし、参加に強硬に反対した。共和党は一九二〇年の大統領選挙で勝利するため、党内の統一を優先し、ウィルソンとの妥協を拒否したのである。


 大統領選挙は共和党ハーディングの圧勝に終わった。ハーディング政権の課題は、財政再建、関税引き上げ、そして大戦前に年間百万人を超えていた移民の制限であった。そこで法人税を引き下げながらも、連邦債務の削減に成果を挙げる。そして農業、産業保護のため、一九二二年九月に高関税のフォードニー−マッカンバー関税法を成立させた。


 また、一九二一年の移民法は、移民総数を三十五万七千人に設定し、一九一〇年の各国のアメリカ居住者数を基準に、各国にその三%までの移民数を割り当てた。同法は一年間の期限が設定されていたが、延長され、一九二四年に恒久化される。


 ハーディングは、社会や経済に対する連邦政府の介入に否定的で、社会や経済の自律的発展を重視し、大企業を評価した点で自由主義的、議会を尊重した点で民主主義的であったが、既存の法や秩序を重視し、社会や経済の格差是正に消極的という点で保守的であった。こうした戦後アメリカの気運は、外交面で、国際連盟という超国家主義的な国際機関への関与を否定し、ワシントン会議をはじめとする大国間の合意を重視しながら、議会の制約から戦争債務問題ではヨーロッパ諸国との合意を拒否する自国本位の姿勢を生み出すのである。

ワシントン会議──日英同盟の破棄と九国条約


 一九二一年十一月、ワシントン会議が開催された。きっかけは、共和党革新派による軍縮提案であったが、国際的軍縮会議の開催は、共和党主流派やアメリカの大企業にとっても、国際連盟に代わる、しかも政府の支出を抑える戦後構想として積極的に支持できた。


 会議開会冒頭の各国代表演説において、アメリカのヒューズ国務長官は、建造中の主力艦すべてと老齢艦の一部廃棄や、十年以上の主力艦の建造停止、各国の主力艦について、アメリカとイギリスがそれぞれ五十万トン、日本が三十万トンのトン数比率によって制限することなどを提案した。会議冒頭の重大提案は衝撃的であったが、これは、共和党反主流派の帝国主義批判を封じ込めるための戦略であった。ヒューズの提案に対する日本海軍の反発は強かったが、日本の全権代表、特に加藤友三郎海相は、軍備負担の軽減と対英米協調のため、対英米六割の受諾を本国に具申し、合意に至った。


 また、日英同盟が解消され、イギリス、アメリカ、日本にフランスを加え、太平洋および極東における締約国の領土権が第三国から脅威を受けた場合の意見交換などを規定する四国条約が成立した。これは、日英同盟に対するアメリカの警戒を緩和するためであった。


 さらに中華民国に関連して九国条約が成立した。その第一条は、民国に安定政権が存在しないことを前提に、民国の自主的再建に対する期待を表明しており、ワシントン会議における民国の国際的地位の低下を象徴する規定となった。


 ワシントン会議における民国に関する合意中、特に重要であったのは、関税条約と山東半島に関する日中合意であった。関税条約は、一九〇二年の英清通商条約、通称マッケイ条約で規定された、()(きん)の廃止とそれに伴う付加税実施のための条件を定める国際会議を、条約施行後三カ月以内に開催することを定めていた。ただし、フランスの条約批准が遅れたため、関税会議の開催は、一九二五年十月となる。


 山東問題をめぐる日中交渉の焦点は旧ドイツ租借地の資産処分であったが、特に問題となったのは、鉄道処分の方法であった。日本側は山東半島鉄道の日中合弁を求めたのに対し、民国側は、鉄道の買収を主張した。最終的に、日本の譲歩と英米の調停を経て、鉄道売却の合意が成立した。

戦後イギリス外交と「戦争債権」を放棄しないアメリカ


 戦中に続き、戦後のイギリスの外交、帝国政策を主導したロイド・ジョージ連立内閣は、大戦で疲弊したイギリスの社会、国家、帝国の安定化を目指し、外交においても大国間の関係調整を通じた、ヨーロッパの経済復興、金融安定化を目指した。その際、課題となったのが、戦時中の債務問題の解決に対するアメリカの協力を得ることであった。


 大戦中、アメリカは連合国に百億ドルに及ぶ資金を貸し付けていた。また、イギリスが連合国に融資した資金は四十億ポンドに及び、イギリスもアメリカに十億ポンド(四十七億ドル)の債務を負っていた。対してフランスは、ドイツの賠償に応じて債務を償還するという姿勢を示していた。こうした中でイギリスは、連合諸国間の債務を相互に放棄するという提案を行った。しかし、アメリカはこれに応じず、ヨーロッパ諸国は、アメリカの保護貿易政策に直面しながら債務を返済しなければならなかった。


 一九二〇年九月、ブリュッセルで、日本およびアメリカを含む三十九カ国の経済、金融専門家が出席する国際金融会議が開催され、健全財政主義や各国が戦争中に停止した金本位制への復帰を目指すことで合意した。次いで一九二一年四月、ヴェルサイユ条約に基づく賠償委員会が設置され、ドイツは一九二一年から一九二五年にかけて毎年三億七千五百万ドルを支払い、その後九億ドルを支払うことが決定された。ドイツの賠償は三百三十億ドルに達した。こうした中で八月、イギリスはフランスに、アメリカへの債務償還に充てる以上の債権を放棄する方針を声明した。つまりイギリスは、対仏債権を実質的に放棄すると共に、さらなるフランス債務の減額をアメリカの裁量に委ね、債権の放棄を促そうとしたのである。しかし、アメリカはこれにも応じなかった。


 一九二二年四月から五月にかけ、ジェノヴァにおいて国際経済会議が開催された。会議には、ドイツとソヴィエト・ロシアが参加する一方で、アメリカは欠席した。債務問題の交渉を警戒したためである。ジェノヴァ会議においても、各国の通貨安定や、準備金に外貨を含める金為替本位制の下での金本位制への復帰が掲げられた。こうした流れを受け、一九一九年に金本位制に復帰していたアメリカに続き、一九二四年にスウェーデン、一九二五年にイギリス、オランダが金本位制に復帰する。


 一九二二年十月、統一党の連立解消決定により、ロイド・ジョージ内閣は総辞職した。続くボナー・ロー保守党内閣は、一九二三年一月、アメリカと、一九八五年までの六十二年間で約九億八千万ポンド(四十六億ドル)の債務を償還する合意に達した。イギリスはこれにより、アメリカのヨーロッパ投資を促そうとしたのである。とはいえ、その間、ドイツは激しい通貨下落、物価高騰に直面し、賠償支払いを継続できず、一九二三年一月にフランスとベルギーがドイツのルール地方を軍事占領する事態となった。


 対してアメリカ政府は、専門家委員会の設置という、政府が直接関わらない形でドイツ賠償問題解決への道筋をつけることとした。一九二四年、外国資本の支援によるドイツ中央銀行の再編などからなるドーズ・プランが成立し、アメリカの銀行によるドイツへの融資が始められた。

イギリスの帝国政策の変容


 大戦中に登場した民族自決の理念により、イギリスは内外からの帝国主義批判に直面した。しかし、戦後のイギリスはむしろ、国際連盟の創設と一体化した、経済的に自立した国家の創設とその下での少数民族の権利保護という理念を応用し、帝国における多様な民族の共存を自らの責務と意識した。その具体的方法が、各地における自治の拡大と帝国によるそれらの統合というものであった。


 大戦中、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インドも兵員を派遣しており、戦後、ドミニオンは個別に国際連盟への参加が認められた。一九二二年十二月にはアイルランド自由国が発足し、六番目のドミニオンとなった。


 こうしたドミニオンの自立化と並行し、イギリスは移民を通じた帝国全体の結びつきを強化するため、一九二二年に帝国移民法を制定した。第一次世界大戦後のアメリカが移民制限と高率関税の導入によって人間と商品の自国への流入を制限しようとしたのに対し、イギリスは、ドミニオンの自立化を承認しながら、自由貿易と移民を通じた帝国統合を図ったのである。


 インドでは、一九一九年のモンタギュ−チェルムズフォード改革により、新たなインド統治法が成立した。これは、地方自治の拡大と州および中央行政へのインド人による代表民主制を導入することで、民族主義運動をイギリスの統治に組み入れようとするものであった。ただし、インド人の政治参加拡大は、多数派で中央集権を目指すヒンドゥーと、少数派で地方分権を目指すイスラームの緊張関係をもたらす結果ともなる。


 以上のような民族自決の理念への対応が、戦後イギリスの外交政策と融合しながら展開されたのが、中東地域であった。たとえばイギリスのイラク統治には、トルコやソヴィエト・ロシアの脅威、アメリカの批判、軍隊の駐留継続に対する国民の批判、エジプト式統治の導入を懸念するイラク現地側の反発などがあった。そこでイギリスは、一九二二年、アメリカと民間の石油協定を成立させると共に、国際連盟による委任統治に基づく現地の自治を進めた。これによりイギリスは、多国間関係の調整を通じて自らの影響力を保持する国際的枠組みを作り上げたのである。

アメリカにおける排日移民法の制定


 一九二三年八月のハーディング大統領の死去により、大統領に昇格したクーリッジは、ハーディング以上に行政権力の行使に否定的で、対外関係に対する関心もないまま、大統領選挙を控えた一九二四年、一九二一年移民法の恒久化を目指す議会に対応した。


 一九二四年四月に可決された新移民法は、一九二一年法の割当制度を恒久化すると共に、割当基準を一八九〇年に設定し、割当比率を三%から二%に減少すること、そして市民権取得資格のない移民の入国を認めないことを規定していた。これは実質的に日本人の移民禁止を意味したため、排日移民法と呼ばれた。この移民法改定は、国際連盟参加拒否以来の、国内政治を優先し、かつ大統領に対する優位を確立しようとするアメリカ議会の姿勢が表れたもので、大統領もそうした議会の動向に同調したのである。


 ただし、一九二四年移民法は労働移民を制限するものであって、カリフォルニアにおける排日土地法とは対照的に、アメリカ在住日本人の再入国権と家族の渡航権以外の権利を制約していなかった。しかし、日本国民の反発は強く、また、アメリカに対抗する観点から新たな移民地に対する関心を一部に高めることにもなった。

イギリス保守党ボールドウィン内閣の「強い立場からの宥和」


 一九二二年十月、ボナー・ロー保守党内閣は、成立直後に下院を解散した。総選挙において保守党は議席の過半数を占める勝利を収めたが、他方で労働党は、保守党の五百五十万票に対して四百万票を獲得していた。ただし、ローの喉頭癌の悪化により、半年余りで内閣は総辞職する。一九二三年五月に成立した第一次ボールドウィン内閣は、失業や農業問題に対処するため、保護関税の導入を目指し、十二月に総選挙を実施した。結果、保守党は過半数を割り込み、労働党は議席を増加させた。保守党は議会で多数を有したものの、ボールドウィンは労働党への政権委譲を決意した。ボールドウィンはそれにより、労働党の穏健化を促すと共に、短期間の政権崩壊を期待したのである。


 マクドナルド労働党内閣は一九二四年一月に成立した。少数与党の労働党は十月、三年連続となる総選挙を実施した。保守党は、産業および農業保護、帝国の統合、防衛および帝国政策の強化、住宅建築、社会政策といった諸政策、安定政権の必要性、労働党はソ連の指令を受けており、社会主義は宗教や家庭を崩壊させるといった反共、反社会主義の主張を展開し、勝利を収めた。


 十一月に成立した第二次ボールドウィン内閣は、オースティン・チェンバレンが副首相格の外相に就任した他、ネヴィル・チェンバレンが保健相として、労働党に対抗する社会政策の遂行に当たり、孤児・老齢年金法の制定や、公衆衛生、都市計画、住宅建築の推進、地方自治改革で成果を挙げた。


 また、一九二五年四月、イギリスは金本位制に復帰した。国際金融におけるイギリスの影響力を保持するためであった。しかし、戦前の金との交換比率に基づく金本位制復帰はポンド高を招き、輸出産業の不振をもたらした。一九二六年五月には労働組合会議によるゼネストが決行された。ボールドウィンは組合幹部の穏健派と接触し、交渉を通じた事態の収拾を図る一方で、保守党強硬派は全面対決姿勢を示した。ボールドウィン内閣の姿勢は「強い立場からの宥和」とも評され、ボールドウィンやネヴィル・チェンバレンは、一九三〇年代、ドイツに対する宥和政策を展開する中心的な政治家となる。


 外交面では一九二五年五月、オースティン・チェンバレン外相がフランスのブリアン外相およびドイツのシュトレーゼマン外相と共に、ロカルノ条約を成立させた。チェンバレン外相は、大国間の協調を進めながら、それを国際連盟の発展のための環境整備としても位置づけた。イギリスは、こうした多元的な外交を通じ、低下したイギリスの経済力や軍事力を補い、戦後ヨーロッパの安定と経済再建に主導権を発揮しようとしたのである。ただし、政権後半期には、ソ連との断交や、アメリカとのジュネーヴ海軍軍縮会議の失敗など、安全保障に関わる面で強硬姿勢を示す側面もあった。


 ボールドウィン内閣はさらに、ドミニオンに本国との対等の地位を認めることで帝国の統合を再編、強化しようとした。一九二六年十月に開催された帝国会議は、ドミニオンについて、「イギリス帝国内の、地位において対等で、内外問題のいかなる側面においても相互に従属せず、国王への共通の忠誠によって一体化しながら、ブリティッシュ・コモンウェルス(イギリス連邦)の一員として自由に結びついている自治的な共同体」とする定義を下した。多様であればこそ、自由意思に基づき対等に統合されるという理念は、一九三一年十二月のウェストミンスター憲章へと引き継がれる。


 以上のような、ブリティッシュ・コモンウェルスの形成に向けた流れに同調的であったエイマリ植民地相は、農産物の帝国特恵と帝国内移民による帝国の一体化にも積極的であった。イギリス本国の人々が帝国領域に移住し、農業に従事すると共に、本国が農産物を輸入するという構想であった。一九二八年には、失業問題解決のため、カナダやオーストラリアへの移民に対する渡航費補助が導入された。イギリスは、人間と物資の世界的移動の活性化により、イギリス本国と世界の発展を促そうとする政策体系を、帝国を通じて保持しようとしたのである。

スターリンの権力掌握とコミンテルン


 ロシア革命後の干渉戦争に対応して導入された戦時共産主義は、農業生産を低迷させた。そこで戦争終結後の一九二一年より、ネップ、すなわち新経済政策が導入された。これは、農民に余剰生産物の市場における売却を容認したもので、農業生産は回復し、農民の所得増加をもたらしたばかりか、クラークと呼ばれる富農を生み出した。

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