『面白い! を生み出す妄想術 だから僕は、ググらない。(大和出版)』
[著]浅生鴨
[発行]PHP研究所
1 アイデアはアウトプット
日常生活の中でただおかしな妄想を繰り広げるだけですむなら、そんなにステキなことはないし、いつまでも妄想を楽しんでいればいいのだけれども、ときには仕事としてものを考えなければならない場合があるし、たぶん一般的にはそういう場合のほうが多いのだろうと思う。
「次の会議で何かいい案を考えましょう」だとか、「来週までに新しい企画を持ってこい」だとか、あるいは「新規事業の計画を立てろ」だとか、ともかく何かしらの「アイデアを出せ」という依頼や命令やお願いがあって、僕たちは仕事としてものを考える羽目になる。
そして、なぜか期限はすぐにやってきて、僕たちは暗い気持ちのまま会議に向かうのだ。
そもそもアイデアとは、なんなのだろう。
実は以前、大学生たちを相手にそんな質問をしたことがある。
学生たちからは、発想、着想、企画、思いつき、ひらめき、工夫、オリジナル、新しい、発見、創造、想像、などという答えが戻ってきて「うん、どれも正しいよね」と僕は言ったのだった。
その上で「仕事としてのアイデアとは単なる思いつきやひらめきではなく、目の前にある課題を具体的に解決する道筋なのです」と付け加えたように思う。
数学の図形問題では、たった一本の補助線を引くことで、急に解き方が見えてくることがある。
僕にとってのアイデアとは、ちょうどそんなイメージのものだ。
もっとも「一つの課題を解決するだけではダメで、複数の課題を同時に解決できるものこそがアイデアなのだ」と言う人もいて、まったくその通りだとは思うものの、さすがになかなかハードルが高いので、低めのハードルが好きな僕としては、とりあえず「課題を具体的に解決するための新しいやり方」くらいにして、この場はお茶を濁しておきたい。
ところで、課題を具体的に解決するわけだから、アイデアもやっぱり具体的なものじゃなきゃいけない。
どれほどいいことを考えていても、その考えが頭の中にあるだけで、まだ外に出てきていない状態では、アイデアとは呼べないんじゃないかと僕は思う。
アイデアとは具体なのだ。
アイデアとはアウトプットだと言い換えてもいい。
頭の中にあるものは、たとえそれがどれだけよさそうに思えるものであっても、そのままではどうにもならない。
自分では上手くイメージができているように思っていても、たいていの場合、ただモヤモヤとした感覚的なものが無節操につながっているだけで、それはアイデアでもなんでもない。
モヤモヤを実際に言葉や絵にしてみればすぐにわかると思う。
具体化しようとすれば必ず何かが足りないのだ。
もう、ぜんぜん足りないのだ。
イメージそのものが足りない場合もあるし、それを伝えるための言葉や絵の精度が足りない場合もあるけれど、とにかくいろいろなものが足りないことがわかると思う。
僕たちが生きていく上で、そういった形になる前のモヤモヤはとても重要で、そこから湧き上がってくる名前のつけられない感情や感覚は大切にしておきたいし、それが人生を豊かにしてくれるのだけれども、そのこととアイデアとは別の話だ。
モヤモヤを味わっているだけでは、アイデアにならない。
だからこそ、まずは言葉や絵にしてみることが大切だと僕は思っている。
誰もが見られる具体的な形にして、ようやくそれはアイデアの出発点、アイデアの種になれるのだ。
それが上手く育って課題を解決するものになるかどうかはさておき、少なくとも頭の中にあったときよりは、いくぶんましなものになるはずだ。
アウトプットをしない限り、それはまだ何ものでもない。
デタラメでもいいから、ラフでもいいから、まずは文字や音や絵にすることで、ようやく足りないものがわかってくるのだと思う。
だからまずは書いてみる。
何も思いつかない、何も浮かばないのなら、「何も思いつかない」と書いてみる。そう言ってみる。
なぜ思いつかないのかを書いてみる。
「思いつかないぞ」と大きな声を出してみる。
誰か他の人に見せるためではなく、自分に見せるために書いてみる。
言葉にならないのなら、一本の線を引くだけもいい。
丸やら四角やらを描くだけでもいい。
そうやってアウトプットされたものが目や耳から脳を刺激して、次の一言を、次の一単語を生み出してくれるかもしれない。
そのためにまずアウトプットするのだ。
アウトプットされていないアイデアは、アイデアの種ですらない。
何も考えずにただ書き始める。
そうして、ある程度書き散らかしているうちに、ようやく自分の書きたかったことに気づくことがある。
頭の中でどれほど完成しているように思っていても、書き出してみればまるで完成などしていないことがすぐにわかる。
そのために僕は、まだ何も形になっていない段階からどんどん頭の外へ出すように心がけている。
2 新しいものなんて作れない
「課題を具体的に解決するための新しいやり方」がアイデアだからと言って、これまでになかったまったく新しいやり方を生み出すのはとても難しいことだし、そもそも現実的じゃない。
世の中で画期的なアイデアと呼ばれるもののほとんどは、それまでにあったものを上手く組み合わせたり、新しい使い方を見つけたりしたものばかりだ。
これまでこの世になかった完全に新しいものは僕たちには作ることができないし、もし作れたとしても、それは誰にも理解できないから、たぶん相手にしてもらえない。
だから、オリジナリティや独自性なんてことはあまり考えなくていいと思う。
もしも自分が一生懸命に考えて出したアイデアが、他の人のアイデアと同じだったらどうするか。
とても似ていたらどうするか。
めったにないことだけれども、会議の場で、あるいは企画プレゼンの場で、他の人から出されたアイデアが、自分の考えたものに似ている可能性は、ゼロではない。
でも、僕はそんなとき、たいして気にしないことにしている。
そのアイデアがいいと思えば拍手するだけのことだ。
「自分のほうが先に出したのに」「私だって同じことを考えていたのに」なんてことを言う人もいるけれど、同じ時代に生きて、同じ課題を前にしたときに、本気で考え抜けば、似たようなアイデアが出てくるのは当たり前のことで、あまり愚痴ってもしかたがない。