『飲食業界 成功する店 失敗する店』
[著]重野和稔
[発行]すばる舎
私が飲食店業界に参入するまで
▼銀行と不動産会社で経験を積み、飲食店経営に備える
私が飲食業界で仕事をするようになったのは30歳からです。打ち合わせの席でこれまでの歩みを説明すると、相手の方から「飲食店プロデュースやコンサルティングというのはどんなことをするのですか」とよく聞かれます。飲食店を経営しながら、他店の開業や運営の裏方に携わる人はめったにいないからです。
私は現在、飲食店プロデューサーとして200店舗以上に携わり、成功する店と失敗する店のお話ができるようになりましたが、それは他業種の経験や、直営店の成功と失敗があったからです。
飲食店の成功と失敗を左右する第一の要因は店舗コンセプトですが、そのお話をする前に、私がどのようにして飲食業界に参入するようになったのか、まずはそこから始めます。店舗コンセプトの話とも密接に関係してくるからです。
私が飲食業界を志したのは、もともとは曽祖父の影響でしょう。曽祖父は戦後、池袋の闇市から身を興し、手広く料亭や飲食店を経営していました。それらを受け継いだのが、銀行に勤めていた祖父です。銀行を辞め、家業の飲食店を継いだわけです。
私はというと子どもの頃、店ですごす時間が多く、その空間や店の人たちが忙しく働いている様子を見て、自然と飲食店に愛着をもつようになりました。
その後、お店は廃業し祖父は別の事業を始めましたが、家系的に起業する人が多く、私も漠然と、将来は独立して事業を始めるものと思っていました。
そんな私の将来を見越していたのか、祖父は「将来、会社を興すならまず金融関係に就職しておけ。銀行の知識が会社経営にすごく役立つぞ」と何度もいうのです。その助言が頭から離れずにいた私は、大学卒業後、銀行に就職しました。
入行するとき、祖父から、①銀行との付き合い方、②銀行が融資したくなる決算書のポイント、③人脈の築き方、この3点をしっかり学ぶようにアドバイスされました。
金融の次は、不動産です。当時、実家が不動産事業をしていたこともあり、銀行を退職し不動産業界に転職しました。ここでは立地の選定基準、賃貸や内外装工事の相場観など、多くのことを学びました。
20代は金融と不動産の知識習得に専念したこと。これがのちのち、開業から運営、決算、店仕舞い(撤退)までと、経営的な視点を必要とする飲食店プロデューサーとして活動する際、大いに役立っています。
30歳になると、私は念願の飲食業界に意気揚々と参入しました。3人の仲間と資金を出し合い、さまざまなイベントでタコスの屋台を出店したのです。ニューヨーク、サンフランシスコ、沖縄のタコス店をリサーチしたうえで、当時アメリカで流行っていたタコスの皮(トルティーヤ)で具材を包んだWRAP(ラップ)を出店しましたが、これが大失敗。すぐに資金に行き詰まり、資金調達のためみんなでアルバイトに励む始末。
金融と不動産の知識を学んでも、実際の飲食店サービスが未経験なのですから、当たり前ですね。それに、店舗デザイン、メニュー開発に料理の盛り付け、オペレーションに接客、人材育成など、学ぶことはまだまだたくさんありました。
「素人が集まってこのまま続けてもどうしようもない」
ようやく悟った私は、タコス店を閉店し、飲食店を展開する会社に再就職することにしました。
「3人がそれぞれ成功する店のノウハウを習得し、1年後それをもち寄ろう」
そういって再会を約束し、別れたのです。
▼寝る暇もなく働き、飲食サービスの実践を体に叩き込んだ2年間
私が再就職したのは、当時、「紅虎業餃子房」を全国展開し、飛ぶ鳥を落とす勢いの「際コーポレーション」という会社でした。私の飲食サービス、経営の実践は、まさにここで叩き込まれました。
入社後、社長秘書のような立場をあてがわれ、既存店を回りながら新店がオープンするまでの流れを見ることができました。その後、新店の立ち上げや新業態の開発を任されました。また、私が銀行、不動産業界の出身だったことから、会社経営にかかわる事務仕事も任されるようになりました。
最も多忙なときの1日の主な仕事は、自分で立ち上げた新店の現場に入り、厨房やホールで働くこと。お店の片づけ、売上集計、日報報告など現場の仕事を終えると、事務所に戻るのは真夜中です。
2時間の仮眠後、パソコンに向かってさまざまな書類を作成します。朝8時になったら、事務所から直接ランチ営業の準備に向かいます。文字通り寝る暇もない仕事ぶりで、家へ帰れるのは1か月に2回だけでした。
そんな生活を数か月も続けていれば、いくら働き盛りとはいえ倒れます。事務所の並びに病院があったので、そこで2時間点滴を打ちながら仮眠をとり、再びいつもと同じように仕事をするなんてこともありました。しかし、かっこつけるわけではありませんが、休みたいと思ったことはありません。毎日が充実して楽しく、もっともっと働きたくてしようがなかったのです。
なぜなら、際コーポレーションの社長にはあらかじめ、「1年後に独立して飲食店をやるつもりです。休みはいらないので勉強させてください」と伝えていたからです。つまり、この忙しさは自分で望んだことでもあり、短期間でいろいろなことを学ばせてやろうという社長の親心だと感謝していました。
コンプライアンスが叫ばれる昨今、会社がそんな働き方をさせたらすぐにブラック企業の烙印を押されてしまいますが、当時の飲食業界には私のように開業を夢見て、時間を気にせずに働く者がたくさんいたように思います。
際コーポレーションでは2年間、働きました。予定より1年延びましたが、最初の希望通り会社を辞めると、仲間と再会し、総合飲食サービスの会社を立ち上げました。
そうして開店した直営1号店が、これからお話しする「GALALI青山店」です。
【成功】大人の男性を狙った「塩と日本酒」の店(青山・和食居酒屋)
▼都心の閑静な場所に雰囲気のある隠れ家をつくりたい
最初の直営店である、GALALI青山店は、大人の男性をターゲットにした「塩と日本酒」がコンセプトの居酒屋です。表参道駅と外苑前駅の間にある旧日本家屋の一軒家を改築し、隠れ家的な店として2002年に開店しました。
今でこそ調味料や素材にこだわる店は珍しくありませんが、当時、阿蘇の熊笹塩や室戸の深海の華など、全国から取り寄せた12種類の塩を肴に日本酒を楽しむというコンセプトは、目新しいものでした。
そのような、こだわりの塩が無料で提供されると口コミで広がり、テレビや雑誌でも紹介されるようになりました。おかげさまで現在も繁盛していますが、直営1号店の立地を決めたときには、
「焼酎ブームの今、なぜ青山で日本酒の店を?」
「大通り沿いならともかく、奥まった路地に?」
と否定的な反応がほとんど。
たしかに、2000年代初頭の青山周辺には目立った飲食店が少なかったのですが、私にとってはそれこそが付加価値だったのです。
もともと頭の中にあったのは、大人の社交場として日本酒が静かに飲め、常連として通いたくなるような隠れ家のイメージ。
そこで、駅前の賑やかな場所ではなく、駅から離れたところにある閑静なエリアに狙いを定めました。
すると、都会の真ん中、表参道駅から6、7分歩いた辺りの路地にイメージ通りの物件があるではないですか。
「郷愁を誘う古民家がポツンと一軒。駅からこの距離で、都会の喧騒から逃れてゆっくり飲める。ここしかない!」
「リフォームすれば30~40席はいけるだろう。それに、ここなら常連のお客様をつくることもできる!」
私は仲間に店舗構想を繰り返し説いて、青山店をスタートさせました。
▼飲食店で成功するにははっきりとした店舗像をもつこと
会社を辞めて独立後に出す1号店ですから、お店のコンセプト、お越しいただきたいお客様のイメージにこだわりました。逆にいうと、「通りがかりにのれんをくぐる」のではなく、最初からうちのお店にくるのが目的となるお店をめざしたのです。
そこで、客単価を7500円に設定し、30~50代の男性をターゲットにしました。お酒に強い方なら1万円は優に超えるでしょう。一般的にいって、女性より男性のほうが飲む量も食べる量も多いですから、単価も上がります。