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改訂版 社会的ひきこもり
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生き方・教養
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第2部 「社会的ひきこもり」とどう向き合うか──実践編

『改訂版 社会的ひきこもり』
[著]斎藤環 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間53分
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1 正論・お説教・議論の克服


「そこにある」ことを認める


 ひきこもりの状態にある人と、きちんと向き合うことは、きわめて困難なことです。なぜなら、私たちには基本的に「働かざるもの食うべからず」という価値観が、骨がらみに染みついているからです。このため私たちがとってしまいがちな態度は、社会的ひきこもりを「否認」する態度です。つまり、まさにそこにあるにもかかわらず、何もないふりをすることです。その結果のひとつが、彼らに対する「叱咤激励」ということになります。


 もう十年以上も彼らとつき合ってきた私ですら、しばしば「お説教」や「議論」の誘惑に負けてしまいそうになります。それどころか、時には「彼らは甘えている」「怠けている」「権利を主張しつつ責任を回避している」「両親に責任転嫁している」などといった、どこかで聞いたような紋切り型が、ふと頭をよぎることすらあります。


 ひきこもり事例と向き合うためには、まずこうした社会通念、言い換えれば「『ひきこもり』を否認したい衝動」と戦わなければなりません。


 そのために重要なことは、「社会的ひきこもり」という状態が、ともかくそこにある、という事実を認めることです。言い換えるなら、彼らが「人として間違ったあり方をしている」という見方をしてはならないのです。そうではなくて、彼らが何らかの形で援助や保護を必要としている、という視点を受け入れることです。お説教や議論、時には暴力などによってそれを「否認」するやりかたは、失敗する可能性がきわめて高いことを、ここであらためて強調しておきましょう。


努力と激励の限界


 ひきこもり状態が数年以上続いて慢性化したものは、家族による十分な保護と、専門家による治療なしでは立ち直ることができません(※この点については、現在はやや異なった考え方をしています。くわしくは「改訂版まえがき」をご参照ください)。この点については、私はあえて断言しておきます。まず第一に、そのような援助なしに改善した事例の話を、これまで聞いたことがないということ。第二に、私の診療した事例でも、濃密な治療的関与なしに立ち直っていった事例は皆無であること。それだけではありません。私は何よりも、家族がひきこもり事例を抱え込もうとする態度を警戒しています。抱え込ませないために、あえて挑発的に「慢性化したひきこもりは、本人ひとりの努力や家族の叱咤激励だけではけっして治らない」ということを、これほど強調しているのです。長期化したひきこもり状態にとっては、このような個人システムあるいは家族システムの内部だけの努力では、どうしても限界があるからです。


 なるほど、「ひきこもり」のごく初期段階では、努力や激励によって立ち直っていく可能性もまったくないとはいえません。ただし、いずれの時期にも親の権威によって一方的に押さえ込むこと、過度に感情的な態度をとること、本人の意見を封じてしまうこと、なかば暴力的に従わせること、これらが問題外なのはもちろんです。こうしたやり方は単なる外傷体験にしかならないでしょう。このような方法でいっとき「立ち直った」かにみえたとしても、それは問題を先送りしただけのことで、「再発」は時間の問題です。


一方的な受容の弊害


 努力と激励が無効であると宣言されると、それでは何でも受容していけばいいのか、ということになります。しかし、こちらも極論です。受容を基本姿勢にしなければ治療にならないのは当然ですが、しばしば忘れられているのは、「受容するためには枠組みが必要である」という常識です。相手のすべてを受容しようとする人は、相手を所有したがっているのでなければ、みずからの万能に酔っているだけです。治療の場面でも、どのように受容の限界を設定するかは、たいへん重要なテーマです。

「一方的な受容」は、一方的なお説教と同じくらい、有害であると私は考えます。いずれの場合も、そこに十分なコミュニケーションが成立していないからです。相手が不可解な行動を取り、そのために周囲が困惑する。そのような状況が起こったとき、私たちはまず、その相手との対話を通じて、理解と共感を試みるでしょう。これは「治療的」というよりはむしろ「常識」です。あらゆる「ひきこもり」の事例が、最初から理解と保護の手だけを待ち望んでいるわけではないのです。親からの必死の説得によって、社会参加に向かう事例も皆無とはいえません。そのようなやり方が、つねに有害であり、信頼関係をそこなうとは限らないのです。なんといっても、一番社会復帰を切望しているのが、当の本人たちなのですから。


 わが子が社会を避けてひきこもりはじめたら、まずその理由を尋ねてみましょう。そして、少なくとも一度は、じっくりと説得を試みてほしい。そのような試みによって、果たして本人がどんなことを悩んでいたのか、初めて明らかにされることもあります。対等にちかい立場でお互いの意見を述べあうことは、たとえ反発を買うにしても、よいコミュニケーションのきっかけになりうるでしょう。


外傷の体験と回復


 私はよく、「ひきこもり」の治療を成熟の問題と結びつけます。しかし「成熟とは何か」とあらためて問われると、これはまたきわめて難しい問題です。精神医学、とりわけ精神分析の分野では、まさに「成熟」は一大テーマです。しかし本書では、ごく実用的な視点から、成熟のありようをごく簡単に述べておきたいと思います。私なりの「成熟のイメージ」は、次のようなものになります。「社会的な存在としての自分の位置づけについての安定したイメージを獲得し、他者との出会いによって過度に傷つけられない人」。もちろんこれは暫定的なものですが、おおむね私は、患者さんが最終的にこうあってほしいという理想像を持ちつつ治療に当たっています。


 それでは「成熟」は、いかにして可能になるか。私はそれが「外傷への免疫の獲得」という過程ではないかと考えています。「心が傷つき、そこから回復する」ことは、「感染症にかかり、回復する」ことと似ています。つまり、あとに「免疫」に似た変化が残るという点です。できれば感染症にはかかりたくないのは誰にとっても当然ですが、しかしある程度雑菌にさらされたり、時には軽い感染症などを経験しなければ、細菌に対する免疫機能は発達しません。ここで重要なことは、何らかのかたちで感染を経験すること、そしてその感染から確実に回復させること、の二点になります。免疫と外傷が似ているのは、それが他者との出会いによって生ずるという点です。もちろん、他者との出会いがすべて外傷になるわけではない。しかし本当の意味で重要な他者との出会いは、どこか必然的に外傷性を帯びてしまうのではないでしょうか。それは暴力的な他者かもしれない。「死」や「喪失」といった、抽象的な他者かもしれない。あるいは人を魅了してから見捨てるような他者かもしれません。そのように予測を超え、コントロールできない存在としての他者をどう受け入れ、乗り越えていくか。


 人は「成熟」に際して、いやおうなしに外傷を体験します。ただし、それだけでは足りません。もう一つの重要なことは、外傷を体験した人は、外傷から回復する機会を十分に与えられる権利があるということです。「成熟」の過程で欠かせないのは、この「外傷の体験と回復」というセットなのです。そしてこのセットを可能にするのが、まさに「他者との出会い」にほかなりません。ただ傷つけられる一方では、他者の外傷的な恐ろしいイメージしか残りません。しかし、他者の支持によって癒されることを経験すると、「ただ恐ろしいだけのものではない」という、より正確な他者イメージが獲得されるでしょう。その意味で「外傷への免疫の獲得」とは、「有効な他者のイメージ」を学習する過程でもあります。


ひきこもりにおける他者との出会いの欠如


 一般に、ひきこもっている青年たちは、傷つけられることを非常に恐れます。心ない一言で、みずからの存在自体が否定されてしまいかねないことをよく知っているからです。もちろん、彼らのこうした恐れは、十分に尊重されるべきです。しかし、ひきこもり続けている限り精神的な成長が起こらないこともまた、一つの現実なのです。その理由はもうお判りでしょう。ひきこもった生活には、もはや他者との出会いもなく、したがってリアルな外傷も、そこからの回復も、一切ありえないからです。言い換えるなら、彼らにとっての他者のイメージは、たんに外傷をもたらすだけの、迫害的なイメージにとどまっているのです。


 それでは家族は他者ではないのか。もっともな疑問ですが、あえていえばその通りです。ひきこもり事例においては、もはや家族は、他者ではありません。彼らにとって家族は、あたかも自分の身体の一部のようなものとみなされます。家庭内暴力が可能となるのは、家族をあたかも自分の一部のように取り扱うからです。私がコミュニケーションの回復をしきりに強調するのは、まさに家族の他者性の回復のためです。独り言がコミュニケーションではないように、あたかも自分の一部のような家族とのやりとりは、コミュニケーションからはほど遠い。たとえ肉親であろうと、自律的な判断と行動の権利を持つ個人であるという認識があって、はじめてコミュニケーションの可能性が開かれるのです。


 さきほど述べたように、他者との出会いのない「ひきこもり」状態においては、リアルな外傷はありにくい。しかし彼らは現実に傷ついており、また「自分がひどく傷つけられてきた」というイメージに打ちのめされています。とりわけ隠れた外傷体験としての「いじめ」については、休養と同時に周囲からの全面的な理解と、心理的支えが不可欠です。「いじめ」が深刻な外傷体験として、数十年を経た後も癒えにくいのは、そこから回復するためのルートが徹底して塞がれているためでもあります。初期の「ひきこもり」における休養としての意義は、ここにあります。彼らがひきこもる理由を理解すると同時に、外傷からの回復のために十分な休養の機会を与えること。これによって、一部の事例は自らの力で立ち直っていくことが可能になります。


 しかし、長期のひきこもり事例では事情が異なってきます。長期化すればするほど、それはあたかも自分で自分を傷つける行為に近づいていくのです。ひきこもりを放置すべきではない理由はここにあります。自傷行為の悪循環(=「ひきこもりシステム」)から抜け出すためには、他者による介入が不可欠だからです。したがって長期ひきこもり事例の治療において重要なのは、「『他者による介入』をいかに有効に行うか」ということになります。


なぜ治療が必要か


 それでは、すべての「社会的ひきこもり」は、本人の意向にかかわらず、治療されるべきものなのでしょうか。かつて私は社会学者パーソンズの「病人役割」などの概念を援用しつつ、「治療されるべき」と考えていました。しかし、ひきこもりは病気ではないと言いながら治療の必要性を説くのはあきらかに矛盾です。ならば「治療は必要ない」のでしょうか? これはこれで極論で、私のこれまでの実践と矛盾をきたしてしまいます。現在の私の見解は、ひきこもり支援において、治療もまた有効な支援手段のひとつである、というものです。治療の有効性をふまえつつ、それ以外の支援可能性をも視野に入れるべく、この考えに落ち着きました。ではその場合、家族はどうすべきか。本人が治療を拒否する場合でも、両親には治療的環境を整えつつ、本人を治療へと誘導する権利はあります。その根拠として、治療相談の開始は早いほどよいという、実際的な理由がまず挙げられるでしょう。本人を病院に連れて行こうかどうしようかと迷い続けるうちにも、みるみる時間は空費されます。時とともにひきこもり状態がこじれてしまい、結局は強引に病院で受診させるはめになったという事例も少なくありません。こうした迷いやためらいは、明らかに無意味であり、しばしば有害でさえあります。本人はともかくとして、両親だけでも迷わずに治療へと踏み出し、本人への働きかけを開始すること。この一歩を迷う必要はまったくありません。


 こうした立場から「実践編」では、社会的ひきこもり事例への対処法を、できるだけ具体的に書いてみたいと思います。


 思春期問題については、治療もさることながら、家族の対応が半分以上を占めるといっても過言ではありません。つまり適切な対応法さえ心得ていれば、それだけでも本人の苦しみを相当程度、やわらげることが可能になるのです。


 私が現在行っているような、家族への電話相談や手紙相談を開始したのも、まさにこの点に思いいたったことがきっかけでした。多くの家族が、まず何をどう対処してよいか判らずに苦しんでいる。対処法がはっきり示されれば、まず家族が安定する。家族が協力し合って、専門家と連携しつつねばり強く問題に取り組むことで、この種の問題は半ば近くまで解決しうるのです。


 ですからここでは、私が十年間の経験の中で蓄積したノウハウをすべて公開しようと思います。もしここに書かれていることが十分に実行されれば、それだけで事態が好転するように、そのような願いをこめて、第2部は書かれています。


 なお、本書では治療成功例の呈示は、あえて詳しくは行いません。フィクションの「成功例」を呈示することは容易ですが、およそ説得性にも具体性にも欠けたものになるでしょう。実例を持ってくれば、共感や安心を誘いやすいことは承知の上ですが、私はむしろ、そのような情緒的理解が冷静な判断をくもらせることを恐れます。もちろん私の方法論は、多くの改善例に支えられていますが、私はそのような「実例主義」で読者を誘惑することは避けたいのです。性急な安心を求めるよりは、たとえ半信半疑であっても、まずこの問題を知的に認識し、理解することからはじめてもらいたいのです。


 また「実践編」の内容については、巻末に「ひきこもり対応フローチャート」としてまとめてあります。そちらも随時参照されることで、全体的な見取りが容易になるでしょう。



2 家族の基本的な心構え


「特効薬」はない


 社会的ひきこもり事例の治療に際して、まず確実にいえることは、相談が持ち込まれた時には、状況がかなりこじれてしまっているということです。いったんこじれてしまった場合は、もはや周囲がどのように働きかけても、好ましい変化は起こりにくくなっています。それどころか、働きかけること自体が、本人を追いつめる結果になってしまいがちです。


 ですから、まず家族が理解しなければならないのは、このような状態から短期間で立ち直らせる特効薬はないということです。ともかく、じっくりと腰を据えてとりくむほかはない。しばしば、家族や治療者の励ましや適切なアドヴァイスによって、一気に立ち直ったかのような事例が紹介されます。しかし、私の経験では、このような「美談」は、ありえないとまではいいませんが、まったく例外的なものです。そうでなければ、そうした励ましの効果は一過性のことが多い気がします。一般的にひきこもり状態からの立ち直りには、短くても半年、平均して二~三年以上の時間が必要となります。もちろん、これはあくまでも、適切な対応がなされていた場合の話です。


 ひきこもりをはじめとする思春期の問題に対しては、「周囲がどれだけ待つことができるか」が、その後の経過を大きく左右します。したがって家族の基本的な構えとしては、「本人の人格的な成熟を、ゆっくり伴走しながら待ち続ける」ことが必要となります。「焦り」は何ももたらしません。むしろ、慢性的な焦りこそが「ひきこもりシステム」を強化してしまいます。


 希望を捨てずに待つという姿勢は、それ自体が本人に好ましい影響をもたらします。「待つ」ということはまた、冷静に構えるということでもあります。本人の言動や、わずかな状態の変化に一喜一憂せず、長期的展望を持ってどっしりと構えること。家族がまず専門家に相談すべきなのは、こうした展望をしっかりと確保するためでもあります。つまり「ひきこもりは簡単には治らない」ということと、「ねばり強く十分に対応を続ければ、必ず改善する」ということの二点を、深く理解するためです。治療のなかでときどき起こることですが、本人がある日突然、理由もなく活動的になったり、意欲的になったりすることがあります。こんな場合に「やっと目を覚ましてくれた」などと、手放しで歓迎すべきではありません。思春期に起こる急激な変化は、しばしば精神疾患のはじまりを意味していることが多いからです。一見よい変化にみえたとしても、理由や方向がはっきりしないものであるなら、むしろ十分に注意しなければなりません。


 もちろん、ただ待てばよいというものでもありません。変化を待ち受けつつも、水面下での絶え間ない努力が必要です。家族間の意見調整や、家族だけの治療相談なども欠かせません。そして同時に、本人が症状を通じて何を訴えようとしているかを、しっかりとみきわめることです。いたずらな干渉をひかえて、暖かく見守り続ける姿勢が大切なのです。「手をかけずに目をかけよ」と、むかし先輩に教わったことがありますが、まさにその通りでしょう。


治療における「愛」の難しさ


 治療場面ではよく「本人への愛情を大切に」といった「指導」がなされます。しかし私は「愛」というものは非常に難しい言葉であると考えています。「愛」の素晴らしさを否定こそしませんが、それはしばしば「出来事」としての素晴らしさなのであって、治療の手段としてコントロールできるようなものではありません。「愛情を持って接してください」という言葉を、私もいわなかったわけではありませんが、つねに一抹の虚しさを感じていました。愛情を強要することは、しょせん無理に違いないからです。


 しかし、それでは、治療者は愛についてふれるべきではないのでしょうか。それはそれで、うるおいのない治療になりそうな気もします。果たして、愛を強要せずに、しかも愛をそこなわないやり方が可能なものでしょうか。


 八〇年代に人気のあったアメリカの小説家、カート・ヴォネガットの本に、「愛は負けても親切は勝つ」というくだりをみつけて、私はそれを何となく記憶していました。「勝つ」とは何に勝つのだろうな、とか、親切がいつでもよいものとは限らない、といった疑問もあります。しかしそれでも、ここには一面の真実がある。私はこの言葉を、ひきこもりの事例を抱える家族へ、一つの激励の言葉として送りたいと思います。


母と子の密室的な愛情関係


 精神分析によれば、「愛」とはそもそも自己愛に由来するものです。人は、自分を愛する以上に、他人を愛することができない。いやできる、と主張する人は、自覚のないナルシシストである。精神分析は、そう教えます。家族に対する愛でも同じことです。むしろ自己愛との区別がいっそうつきにくいという点で、家族愛こそは要注意なのです。それはしばしば相手を所有し、コントロールしたいという欲望につながり、ときには激しい攻撃性の原因にもなります。後にふれる家庭内暴力もまた、「愛」ゆえの産物です。激しい暴力の後で、必死に謝り、思いやりをみせようとする子どもと、そんなわが子を抱きしめ続ける母親。そこにあるのは、距離とコントロールを失った「愛」の、無惨な姿ではないでしょうか。「愛」は、まさに「盲目」であるがゆえに、治療を困難なものとします。そこでは「愛」は「一方的な奉仕」と容易に取り違えられます。極端な例では、治療者の言葉にすら耳を貸さず、むしろ親子の愛を妨害する邪魔者として、治療者のほうが切り捨てられてしまうことすらあります。このような母と子の密室的な愛情関係は、事態をいっそうこじらせ、不安定なものにしてしまいます。このような結びつきは「共生関係」と呼ばれます。親はそれこそ、強い愛情によって、必死に本人の心を鎮めようとします。しかしそのように力めば力むほど、本人の要求や状態に振り回されてしまい、くたくたになってしまうのです。


 もちろんひきこもっている本人もまた、自分を愛し、必要としてくれる存在を強く求めています。しかし同時に、自分はいつ見捨てられてもおかしくない人間という認識も捨てられずにいます。母親が尽くせば尽くすほど、自分が母親なしではやっていけない、弱い存在であることを思い知らされます。もし母親から見捨てられたら、自分はどうなってしまうかわからない。二十代、三十代の「少年少女」たちがそのように語るのを、私は何度となく聞いてきました。母親の捨て身の献身は、案に相違して、彼らのこうした恐怖を救うどころか、いっそう強めてしまうのです。

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