読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン

犬耳書店はRenta!へ統合いたします

(2021/11/26 追記)

犬耳書店の作品をRenta!に順次移行します。
詳しくはこちらでご確認いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

0
-2
kiji
0
0
1294252
0
【猛】列伝 真田幸村と大坂の陣(KKロングセラーズ)
2
0
0
0
0
0
0
歴史
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
第一章 大坂の陣とは?

『【猛】列伝 真田幸村と大坂の陣(KKロングセラーズ)』
[著]渡邊大門 [発行]PHP研究所


読了目安時間:17分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ



 大坂の陣とはいかなる経緯を踏まえて(ぼっ)(ぱつ)し、そして終結したのであろうか。ここでは、その流れを簡潔に追うことにしよう。なお、取り上げた事象の詳細は、第二章以降の該当する箇所をお読みいただきたい。


関ヶ原合戦と徳川家・豊臣家



 (けい)(ちょう)三年(一五九八)八月に豊臣秀吉が没すると、その後の国内政治は大きく変動した。豊臣家では一粒ダネの(ひで)(より)が跡を継いだものの、五大老の筆頭・徳川家康が徐々に存在感を示すようになった。


 翌年閏三月、五大老の一人・前田利家が没すると、その直後に七将(加藤清正、福島正則、細川(ただ)(おき)、浅野(よし)(なが)、黒田長政、(はち)()()家政、藤堂(たか)(とら))による石田(みつ)(なり)襲撃事件が勃発した。家康が七将と三成との間を仲介し事態は収拾したが、三成は居城・佐和山城(滋賀県彦根市)に(ひっ)(そく)し事実上失脚した。


 以後、前田(とし)(なが)らも謀反の嫌疑をかけられ、家康の前に屈服した。そして、ついには会津の上杉景勝が上洛要請に応じなかったため、討伐の対象となった。家康による会津征伐は、関ヶ原合戦の引き金となる。


 こうした状況を踏まえて、勃発したのが慶長五年九月の関ヶ原合戦である。戦いの結果、家康の率いる東軍が短時間で勝利を収め、秀頼の西軍は敗北を喫した。首謀者である、石田三成、小西(ゆき)(なが)(あん)(こく)()()(けい)は捕らえられ処刑されたのである。


 戦いの結果、秀頼は多くの所領を取り上げられたが、これにより没落が決定的になったわけではない。官位は家康よりも秀頼が上であるなど、形式的な立場は秀頼が家康より上位に位置していた。豊臣公儀は健在だったのである。


 しかし、慶長八年三月に家康が武家の(とう)(りょう)である征夷大将軍に就任すると、徐々に風向きは変化していった。その二年後に征夷大将軍の座が子息・秀忠に譲られると、もはや秀頼との立場は逆転したと考えてよいであろう。


 ただ、家康が()()(たん)(たん)と豊臣家を滅亡に追い込もうとしたといわれているが、それは疑問が残るところだ。無謀な戦いで消耗戦を繰り広げるよりも、秀頼が素直に配下に収まってくれれば、それで十分と考えたのではないだろうか。以上のような政治的状況の中で、大坂の陣のきっかけとなった(ほう)(こう)()(しょう)(めい)事件が勃発する。


方広寺鐘銘事件



 慶長十四年以降、豊臣家は片桐(かつ)(もと)を総奉行として、京都の方広寺大仏殿の再建に取り組んでいた。慶長十九年になると工事はほぼ終わり、四月には(ぼん)(しょう)が完成した。そこで且元は、南禅寺の(ぶん)(えい)(せい)(かん)に梵鐘の銘文の選定を依頼したのである。


 ところが、これ以降の作業が円滑に進まなくなる。且元は大仏(かい)(げん)供養の(どう)()や日時について家康と調整をしていたが、開眼供養と大仏殿供養の日取り、供養時の(てん)(だい)宗・(しん)(ごん)宗の()()(座席の順序)について同意が得られなかった。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:7049文字/本文:8390文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次