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【猛】列伝 真田幸村と大坂の陣(KKロングセラーズ)
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歴史
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第三章 大坂の陣の謎を探る

『【猛】列伝 真田幸村と大坂の陣(KKロングセラーズ)』
[著]渡邊大門 [発行]PHP研究所


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11 関ヶ原合戦の豊臣家と徳川家との関係とは?




 慶長三年(一五九八)八月、長らく天下人の座にあった豊臣秀吉は、あっけなく病没してしまった。秀吉の死は政局に大きな影響を与え、後継者の子息・秀頼を支える石田三成ら五奉行と徳川家康との対立を激化させたと考えられている。そして、豊臣家の没落の大きなきっかけとなったのが、慶長五年九月に勃発した関ヶ原合戦ということになる。



 では、関ヶ原合戦以後の豊臣家の立場は、いったいどのように考えられてきたのであろうか。改めて確認しておこう。


 関ヶ原合戦で西軍が敗北すると、豊臣家の権力は急速に衰えた。そして、徳川家康と豊臣秀頼との関係は、秀頼が摂津、和泉、河内の三ヵ国の一大名に転落したと認識され、完全に両者の立場は逆転した。そうした考え方から、以後の政治過程が論じられてきたとみてよいであろう。


 つまり、関ヶ原合戦における豊臣家の敗北は、同家に著しい弱体化をもたらし、家康に付け入る(すき)を与えたということになる。


 こうした事情もあり、徳川家は豊臣家の上位に位置付けられ、同時に家康は豊臣家を滅亡に追い込もうとしたと考えられてきた。そして、それは家康の規定路線であったと考えられてきたふしがある。


 以後、家康は豊臣家を追い詰めるために、いろいろと無理難題(方広寺の鐘銘事件など)を吹っかけ、我慢できなくなった豊臣家は、ついに家康を相手に兵を起こした。家康の手玉にとられた豊臣家は、慶長二十五年五月の大坂夏の陣で滅亡したというストーリーが思い描かれていることであろう。


 (ろう)(かい)な家康は実に腹黒い「狸親父」であって、常日頃から豊臣家を滅ぼそうとしていた人物像に描かれている。こうした家康像が広く受け入れられたため、信長や秀吉と比べると、家康の人気は格段に低い。



 ところが、以上の定説的なものに対して疑義を提示し、新説を唱えたのが笠谷(かず)()()氏である。その新説こそが、二重(こう)()体制というものである。では、二重公儀体制とは、どのような説なのであろうか。


 二重公儀体制の内容を要約すると、次のようになろう。


関ヶ原合戦後の政治体制は、将軍職を基軸として天下を掌握しようとする徳川公儀と、将来における関白任官を視野に入れ、関白職を基軸として将軍と対等な立場で政治的支配を行おうとする潜在的可能性を持った豊臣公儀とが並存した。こうした両体制の並存を二重公儀体制という。



 要するに、関ヶ原合戦後、豊臣公儀は急速に衰退したのではなく、徳川公儀と並存しながら一定の立場を保っていたことになろう。秀頼が関白に任官する可能性があったことも、論拠の一つである。


 また、豊臣系の諸大名が西国に配置されたことも重要である。それは秀頼が西国を支配し、家康が東国を支配するという基本理念に基づくものであった。つまり、東西を両家が分割して支配することにより、並存したことになる。単純に比較するわけにはいかないが、鎌倉時代や室町時代も似たような状況にあった。


 笠谷氏は、さらに二重公儀体制の有効性を補強するため、次の八つにわたる論点を示している。

豊臣秀頼に対する諸大名()(こう)の礼。

(ちょく)使()・公家衆の大坂参向。

慶長期の伊勢国絵図の記載。

大坂方(きゅう)(にん)知行地の西国での広域分布。

秀頼への普請役賦課の回避。

慶長十一年の江戸城普請における豊臣奉行人の介在。

二条城の会見における冷遇。

慶長十六年の三ヶ条誓詞。


 この八つの論点に関しては、今後さらに検証する必要があるが、いずれも興味深く、大変重要な指摘である。二重公儀体制は大変魅力的であり、かつ有力な学説の一つと理解されよう。


12 豊臣秀頼と千姫の結婚の意義とは?




 関ヶ原合戦後、豊臣家と徳川家はあたかも対立したかのように語られてきたが、豊臣秀頼と徳川秀忠の娘・千姫が結婚した話は誰もが知っている。では、両家ではどのような(おも)(わく)があって、婚儀に至ったのであろうか。



 実は、慶長三年(一五九八)八月、病床にあった豊臣秀吉は遺言を記し、秀頼に徳川家康の孫・千姫を嫁がせるよう依頼していた。いうまでもないが、五大老の中で家康の存在は図抜けており、それゆえ秀吉はこの結婚を望んだのであろう。しかし、慶長五年九月の関ヶ原合戦により、この話は(とん)()したようである。


 そうこうしているうちに、事態はさらに展開した。慶長八年二月十二日、晴れて徳川家康は征夷大将軍になったのである。関ヶ原合戦後、家康は優位な立場にあったのであるが、征夷大将軍に任官し、その地位を名実ともに不動のものにした。同時に、江戸幕府が成立したことにも大きな意味があった。


 母((ごう))とともに江戸を出発した千姫は、同年五月十五日に京都の伏見城に入った(『()(えん)(じゅん)(ごう)(にっ)()』)。そして、同年七月二十八日、大坂城で豊臣秀頼と千姫は(しゅう)(げん)をあげたのである(『(とき)(よし)(きょう)()』など)。このとき秀頼は十一歳、千姫は七歳とまだまだ幼かったのであるが、秀吉の遺言は五年後に実現したことになる。



 実のところ「日本耶蘇会年報」によると、家康は秀吉の遺言もあり、豊臣家に温かい態度をとり続けたようである。二人の結婚もその一つといえようが、それは家康が単に秀吉の遺言を守っただけとはいえないようである。


 先述のとおり、家康は関ヶ原合戦で勝利を得て、形式的な立場は別として、実質的には秀頼より上の立場にあった。慶長八年に家康が征夷大将軍に任官したのは、より決定打になったといえよう。


 ただ、この段階において、家康が豊臣家を滅亡させようとは思っていなかったはずである。むしろ豊臣家との(あつ)(れき)を避け、円満な関係を築きたいというのが家康の本意ではなかっただろうか。


 仮に両者が戦うことになれば、再び日本全体を巻き込んだ戦乱になるのは間違いない。戦争は、人的にも経済的にも大きな消耗を避けられない。軍事動員のために諸大名の同意を取り付けるのは、面倒かつ困難が予測された。



 周知のとおり、当時の婚姻のほとんどは政略結婚であり、自由恋愛によるものは少なかった。また、戦国大名間の婚姻は、同盟関係の構築を意味しており、人質の交換と等しかったのである。

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