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[図解]宮本武蔵と「五輪書」 仕事に使える絶対不敗の法則
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01 「乱世の武道」と「平和時の武士道」の決定的な違いとは何か

『[図解]宮本武蔵と「五輪書」 仕事に使える絶対不敗の法則』
[著]武田鏡村 [発行]PHP研究所


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自立・自尊・自己防御──武蔵の武道の真髄


◆個人に徹した生き方とは何か



 宮本武蔵は、孤高の兵法者である。


 孤高というのは、一度たりとも剣の師匠にもつかず、武門の組織にも属さず、たった一人で剣の道を切り開いたばかりか、六十余回におよぶ勝負においても一度も負けを知らず、常に孤独に徹して自分の生きる道を探りながら歩み続けたからである。


 今日でもそうであるが、多くの日本人の特性は、寄らば大樹の陰で組織に組み込まれて、その方針に従っていれば良いという傾向がある。組織のもとで自分を殺すことで、無難で安逸な生き方を求めるというものであるが、武蔵の場合はそうではない。本当に頼りとなるのは、たとえ組織の一員になっていたとしても、最終的には自分という個人である。自分を磨き、鍛えることで、どんな状況に出会っても生き残ることを信条とした。


 自分を信じること、信じることができる自分を築き上げること、それが兵法の原点であり、人生の極意であると考えたのが武蔵である。この信条は現在でも立派に通用する。


 武蔵は自分以外を信じることはなかった。たとえ霊力的な力を授けてくれると信じられている仏や神さえ信じなかった。

「仏神は貴し、仏神をたのまず」(『独行道』)


 と武蔵は言い切っている。神仏を尊敬はするが、その神秘的な力には頼らないということである。いわば神頼みはせずに、自分の力だけを頼りにするということである。その意味で武蔵の生き方は自立的であり、自分を尊ぶという自尊に徹底している。これは極めて近代的な生き方に通じるものがある。


◆乱世を生きる智恵の原点



 武蔵が生れたのは、織田信長が本能寺で(たお)れた二年後で、豊臣秀吉が関白となって天下統一に乗り出した一年前である。戦国の乱世の時代には変わりはなかったが、大軍を率いた秀吉によって戦国の終焉を告げようとしていた時期である。


 だが戦国の気風は根強く残っており、敵を倒すか倒されるかといった血なまぐささが漂っていた。この時代の雰囲気は、黒澤明監督の名作『七人の侍』に登場する主家を求めて流浪する浪人や百姓の村を襲う野武士をイメージしていただければ理解することができる。


 少しでも油断したり、安逸さに溺れたりすれば、命取りになりかねない時代の中で武蔵は成長している。こうした時代の空気は、自分の身を守るだけではなく、敵対者を倒して勝つということを武蔵に使命づけた。


 ──勝つためには、何をすべきか。


 ──どうすれば、勝つことができるか。


 この命題に身心をかけて自分のものにしたのが武蔵である。さらに武蔵の個人的な勝つ兵法を万人に共通する普遍性をもつ「勝利の兵法」に昇華したのが、不朽の名作となる『五輪書』である。ちなみに『五輪書』は『孫子』の兵法と同様に欧米諸国の人びとの生きるための指針として、実に多くの愛読者を得ている。


「乱世の武道」と「平和時の武士道」の決定的な違いとは何か

沢庵・柳生宗矩、「葉隠」、山鹿素行、新渡戸稲造の武士道との違い


◆柳生宗矩の精神論を笑う



 武蔵が生きた時代は、戦国の乱世から次第に争乱のない平和な時期に移行している。武蔵が成人してからの大きな合戦といえば、慶長十九年(一六一四)、三十一歳のときに起こった大坂冬の陣と翌年の大坂夏の陣であり、寛永十四年(一六三七)、五十四歳のときの島原の乱である。


 世の中は戦乱から解き放たれて平穏さを求める風潮が強くなったのであるが、そんな時代の空気に警鐘を鳴らしたのが武蔵である。平和な時代になっても、常に危機意識を持つこと、それが自分の身を守る唯一の手段である、として筆を執ったのが『五輪書』である。


 そこには常に身近に潜んでいる生死の危機を忘れて、ただ形式だけを求めている武道に対して強く批判をくり返している。


 たとえば武蔵と同時代を生きていた()(ぎゅう)(たじ)(まの)(かみ)(むね)(のり)は、柳生新陰流を唱えて将軍家の兵法指南役となっていたが、それは実戦に通用する剣法ではなく、心構え論を重視した形式的なものであった。


 柳生宗矩は、禅僧の(たく)(あん)(そう)(ほう)に師事して、心を無心にすることで敵を倒すことができるといった禅と剣の一致となる「剣禅(いち)(にょ)」をもって三代将軍の家光などを指導した。これは平時の処世論であって、実戦には通じない。


 武蔵は柳生宗矩の精神論的な剣法を笑うかのように、「剣で戦うのに、構えなどといった形式を論じることなどはありえない」(「火の巻」)といっている。


◆山鹿流兵法、『葉隠』の武士道



 武蔵は危機意識のない平時の武道を批判していたが、磐石な徳川政権下で平和が続くと兵法は机上の学問になっていく。その代表が(やま)鹿()()(こう)である。


 山鹿素行は江戸時代前期の軍学者で、日本や中国の合戦を分析しながら、攻撃と防衛について細部にわたって検討を加えている。だが、それはあくまでも学問であって、実戦に通用するかどうかは別であった。それでも太平の時代では山鹿流兵法として、各大名らによって危機管理の要諦として重んじられたのである。


 さらに時代が平穏になると、死ぬことさえ形式的にとらえられるようになる。佐賀の鍋島藩士であった山本(つね)(とも)は、

「武士道というは、死ぬ事と見つけたり」


 という有名な一文を『()(がくれ)』に書いている。江戸の中期になると、武士の死は戦いで死ぬことではなく、主君のために日常において滅私奉公して死もいとわないという心構え論として説かれるようになる。


 だが武蔵にとっての死は、主君のため、我が身のために戦いに勝つことを前提としたもので、無条件な献身は否定されているのである(「地の巻」)。


 ところが明治になっても無私を前提とした武士道が、キリスト教者の()()()(いな)(ぞう)によって説かれている。それは武士道を正邪善悪の観念としてとらえる道徳として高く評価するもので、やはり武蔵が説くものとは大きく乖離している。


 武蔵の武士道は、いつ襲ってくるかもしれない危機に対して、常に対応できる自分を確立しておくことだ、という常在戦場の危機意識と危機管理で成り立っているのである。


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