『[図解]宮本武蔵と「五輪書」 仕事に使える絶対不敗の法則』
[著]武田鏡村
[発行]PHP研究所
敗残者としての武蔵の虚像を破る
◆武蔵の西軍への加担は誤り
武蔵は二十一歳のときに京都に上って、天下の兵法者と数度勝負をしたが、いずれも勝ちを収めたといっている。この勝負は有名な吉岡一門と三度闘って勝ったことをさすが、その四年前の関ヶ原の合戦のとき、すなわち慶長五年(一六〇〇)九月、十七歳の武蔵はどこで、何をしていたのであろうか。まず、それを考えてみたい。
通説では、武蔵は新免一族と共に石田三成方の西軍に加わっていたとされている。新免氏が宇喜多秀家の配下になっていたから当然、武蔵も西軍の宇喜多軍に参加して、関ヶ原で戦って敗北したというのである。
しかし、この西軍への参加説は推測であって、根拠があるわけではない。