「すべての大事件の前には必ず小事件が起るものだ。大事件のみを述べて、小事件を逸するのは古来から歴史家のつねにおちいる弊竇である」
夏目漱石の『吾輩は猫である』八章のなかにある言葉である。となりの落雲館中学の生徒への怒りを、主人公の苦沙弥がいよいよ爆発せんとしたときに、主人の逆上をずっと観察していた猫がもらした哲学的述懐で、弊竇とは弊害の穴、弊害のあるところというくらいの意味になろう。
なるほど漱石がいうように、史書や研究資料を読んでいると、こんな時にこんなことが、と事の意外さに瞠目させられることがしばしばある。
たとえば昭和七年の五・一五事件で、犬養毅首相が殺される直前に、「話せばわかる」といったという一言が、かなり有名になっている。ところが『西日本新聞』昭和五十四年九月十四日付の記事の切りぬきが手元にある。満洲の大馬賊、張作霖の息子張学良の家から、犬養の怪しげな領収書がでてきて、犬養を襲撃した青年将校が「キサマも張学良からカネをもらっておろうが」と詰問した。これにたいして首相が「そのことならば話せばわかるから、こっちへ来い」といったが、いまさら弁解無用とばかりに、撃ち殺された。これが真相だと切りぬきが明かしている。
いずれ、ほかの文献なりで確認してみようとでも思って、保存していたのであろうが、その後はすっかり忘れていたようである。五・一五事件という大事の中の小事で、「話せばわかる」でも「そのことなら」でも、どっちでもいいことかもしれないが、探偵としては“張学良のカネ”という小事件はやはり見逃せない。いずれ真偽を確認するまで、歴史に残る名文句であろうと安易に使うまじ、それこそわが心意気、とひそかに悦に入っている。
こんな小事が語るように、人間がつくる歴史というもの、良いことも悪いこともしながら行為をつみ重ねてきた時間の跡というものは、底が知れなくて、読めば読むほど面白くなる。先達が苦心して発掘した山のような史料から、あるいはまったくないような史料に微細にわけ入ることで、史料の背後にあって隠れていること、史料がそのものとしては語りきってはいないことを、「これが真相かもしれん」と浮かびあがらせる。その作業がつまり歴史を学ぶことなのであろう。
そのことを生涯の使命としている学者でも研究者でもなく、街の“歴史好き”にすぎない老骨のわたくしには、推理小説を読んだり考えたりする以上に、歴史のナゾ解きが面白くてならない。そして、その楽しさを、余計なお節介かもしれないが、近頃の歴史を知らない若い人にもわけてあげたいと思っている。
昭和五十年春、『毎日新聞』が報じたというが、「太平洋戦争ってナーニ?」という調査で、山本五十六や東條英機はもちろん、太平洋戦争も、日本が戦争で負けたことすら知らない二十代の若ものが多かったという。わたくしの周囲にも、太平洋戦争と朝鮮戦争とどっちが先か、区別のつかぬ若き男女がいるようである。
事態は戦後教育のさまざまな問題のワクを超えている。世界のなかの一国家として、この情況は、国際化時代を鉦や太鼓ではやしたてる以前の、許しがたい歴史的責任の放棄というほかはない。ことあるごとに歴史を正確に記述し、国家あるいは人間の責任の所在を明確にし、子や孫に重要な遺産として語りついでいこうとする欧米と、いまの日本の現状は等置すべくもない。
じゃあ、どうすればいいか。
さしたる名案はないが、街頭ウォッチングがはやっているように、歴史を楽しくウォッチングすることで、その楽しさを知る、それが第一歩であっていいのであろう。わたくしはそれを実行している。
本書は、いわばその結果の、歴史好きシロウト探偵の最近の観察報告である。歴史研究を職業としていない気安さで、岡っ引きよろしく、あちこちをかぎまわってみた。外からの観察だけでなく、不躾に土足で踏みこんだ部分もある。狙いは漱石がいうところの小事件にこだわることにしぼった。探偵であるからには、動かぬ証拠をつきつけてナゾを解き、これにて一件落着、とやらねばならぬところであるが、その点はあまり自信がない。もっとも、自信があれば学者になっている。
それにつけても、歴史とはなんと巨大で多様な物語であるかとつくづく思う。人間の英知や愚昧、勇気や卑劣、善意や野心のすべてが書きつらねられている。歴史とは何かは、つまり、人間学に到達する。しかも歴史は大きな時空の力というものを、労なくみせてくれる。
いや、そんな大それたことを街のシロウト探偵ごときが論ずるまでもない。歴史好きのひとりとして、本書を通して、ひとりでも昭和史を推理することの面白さを知った読者がうまれたら、探偵としては商売繁昌のしるしと心から喜ぶべきことと思っている。