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歴史探偵 昭和史をゆく
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歴史
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第五話 銃声の消えたあと──二・二六事件以後

『歴史探偵 昭和史をゆく』
[著]半藤一利 [発行]PHP研究所


読了目安時間:39分
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1、知られざる実力者・梅津美治郎



 事件は昭和十一年(一九三六)二月二十六日の、あけがたに起った。陸軍の第一師団(東京、埼玉、千葉、山梨、神奈川が管下)の歩兵第一連隊、第三連隊(いずれも東京に所在)の将校、下士官、兵を主力とした千四百八十三名の部隊が重機関銃、軽機関銃、小銃、拳銃、それに十万発をこす弾薬、外套着用、さらに縄梯子、背囊、防毒マスク携行の完全武装で、当時の日本の政治の最高首脳を、官邸、私邸において襲撃した。その結果はつぎのごときものであった。


 岡田啓介首相──官邸。義弟の松尾伝蔵大佐が首相とまちがえられて射殺され、首相は奇蹟的に助かる。


 斎藤実内大臣──私邸。即死。


 高橋是清大蔵大臣──私邸。即死。


 渡辺錠太郎教育総監──私邸。即死。


 鈴木貫太郎侍従長──官邸。重傷。


 牧野伸顕前内大臣──湯河原伊藤屋旅館。軽傷。旅館は焼かれた。


 警視庁を占拠。


 襲撃が終って、これらの部隊はそのまま二十九日午後まで、赤坂見附─溜池─虎ノ門─桜田門─三宅坂─半蔵門を結ぶ四角形の内部を占拠した。ここは政治・軍事の中枢地帯である。戒厳令が施行され、二十八日には赤坂一帯の住民が避難をはじめた。陸軍の首脳部は、佐倉、高崎、甲府所在の連隊、さらに東京の近衛師団をもってこの部隊を包囲し、“皇軍相撃つ”の危機をはらみつつ、帰隊をうながした。結果は、天皇の強い意志もあり、事件は、二十九日に決起部隊の帰隊をもって終結した。


 この四日間における陸軍中央と決起した将校、下士官、兵の対峙・折衝、終結過程に、二・二六事件と呼ぶ大事件の内容があり、極限状況において日本の政治的矛盾、思想的対立があざやかに示されている。しかし、すでに多く書かれていることなので、ここでは省略する。


 歴史探偵として興味をえらく感じているのは、事件以後の陸軍の政治進出についてである。


 よくいわれているように、事件後の陸軍はくり返して粛軍の実行を約束した。手はじめに、三月四日の新聞が「陸軍の七大将引責現役引退を申し出て、粛軍の達成を期す」と報じたように、過去において統制派・皇道派の首脳として印象を強めていた大将を、つぎつぎに退陣させた。八月には、かつて革新運動におどった佐官・尉官クラスにいたるまで、軍より追放する。しかし、そのいっぽうで、陸軍中央は事件の有力な原因は政治の腐敗にある、という立場を強力におしたて、広田弘毅を首相とする後継内閣にきびしい注文をつけ、国防費予算の大幅増額を強請するなど、傲岸不遜さを発揮するのである。


 そして、広田内閣の陸軍大臣として寺内寿一大将をおくりこんだ。長州閥の頭領であった寺内正毅元帥の長男と、門地には文句のない寺内は、最年少の大将として粛軍人事にもまぬかれた三人のうちの一人であるが、万事に(おう)(よう)であり軍政にはとんとうとかったから、自然とかれを補佐する幕僚グループの思うがままに動いた。この幕僚グループの頂点に立ったのが、「情勢の推移を注視して寸分のすきも見せなかった達人」梅津美治郎中将である。かれは三月二十三日、陸軍次官に栄進して仙台から東京へと急ぎ着任した。


 寺内陸相が梅津を次官にえらんだのは、その識見や軍歴もさることながら、二・二六事件のさいの第二師団長としての、梅津の断乎とした態度が高く評価されたため。今村均大将の回想録にある。事件後の四月、軍司令官・師団長会議に代理として列席したとき、中央幕僚から事件の詳細な説明があり、そのなかで感銘をうけた話として、今村はこう書いている。

事件勃発とともに、『一部不逞者の反乱行為は速かに鎮圧せざるべからず。師団は何時にても発動これにあたる態勢を整えあり』との趣旨を、中央三長官に打電し鮮明なる()()をあらわしたのは、仙台の第二師団長梅津中将と熊本の第六師団長谷寿夫中将の二名のみで、他の十五師団長は、何の意思表示も行わなかったとのことである」


 この旗幟まことに鮮明たる梅津が次官の椅子に坐ると同時に、辣腕をふるって、陸軍内部の粛軍人事に手をつけた。人情のかけらもみせない“鉄仮面”的大ナタで、皇道派的な将軍たちは首をきられ、つぎつぎに軍を去っていく。こうして邪魔ものをすべて排除した陸軍中央は、広田内閣に難題をもちかけ、これを強引に国策として成立させていく団結の集団となったのである。そして結果として昭和史をあらぬ方向へと走らせてしまうことになるのである。


 それというのも、幕僚グループは口では粛軍をとなえつつも、本心のところでは事件後のいまが国家革新の実をあげる好機とみたからである。皇道派青年将校の決起を否としたのは、かれらが兵力を僭用し統帥権をほしいままにしたゆえにすぎず、行動の真意まで否としたものでは決してなかった。青年将校らの国家改革の熱情を是とし、粛正を単なる粛正で終らせることなく、この機をとらえ国家革新を推進することこそが粛軍の実をあげることになると考えた。そこに幕僚グループの主張する粛軍と国政一致との合一があったのである。


 軍のこの主張ならびに行動にたいして、広田首相はもちろんのこと、元老西園寺公望や牧野伸顕らの重臣が、有効な反撃をくわだてた証拠は、いくら探してもみつからない。テロの恐怖が彼らの心を凍らせ、足をすくませていたというほかはない。梅津を中心とする幕僚グループは、文字どおり二・二六事件の恐怖をテコに、たくみに政治の表面へと躍りでることに成功するのである。


 その有効な手段の一つとして、五月十八日、すでに陸軍からつきつけられていた「軍部大臣現役武官制」の広田内閣正式の承認がある。『原田日記』(『西園寺公と政局』)を読みすすめていくと、このことにかんして、いくつかの記述が発見できる。

昨日の閣議で陸軍大臣から、『今まで現役および予後備役の将官を大臣にすることができるようになっていたが、今度はまた現役のみに限ることに規定を変えたい』との申出があった」(四月十八日、有田外相の談)

昨日の閣議で陸軍大臣を現役制に限ることにする案が出て、結局陸軍大臣の案通り決った。海軍は実際から云うとあまり賛成ではなかったけれども、まず陸軍とのお付合上已むを得なかったというようなことも、その閣議の席上で永野海相から付加されておった」(四月二十五日、同じく有田から)


 そして五月十四日に、原田熊雄はあっさりと広田首相からいわれるのである。

昨日枢密院で軍部大臣を現役に限る制度が決まった」と。


 これでみると真剣な討議などほとんどなかったかに推察される。提案から閣議決定まで一週間。抵抗はおろか疑問視の痕跡さえみあたらないのには、

どうせ陸軍大臣のいうことをきかなければならないのなら、なるべくあっさりきいてしまった方がいいじゃないか」


 という西園寺の発言に代表される雰囲気が、当時の日本の上層部にあったと思うほかはないではないか。


 いま残されている史料によると、陸軍省軍事課は四月二十三日に、「陸軍大臣および次官の将官現役制の閣議請議案」を起案して正式に閣議に提出している。そこには理由として「現役将官とするの必要あるに由る」といたってそっけなく書かれているだけである。

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