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歴史探偵 昭和史をゆく
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歴史
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第十三話 放送が終わったあと──戦争終結

『歴史探偵 昭和史をゆく』
[著]半藤一利 [発行]PHP研究所


読了目安時間:40分
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1、降伏することの難しさ



 左翼が「サヨク」と書かれるように、戦後も「センゴ」と書かれてもおかしくはないほど遠くなった。その長い時間の流れのなかで、戦争体験はおろか、戦後の焼跡や占領下での体験もまた風化したと、何年も前からいわれている。


 たしかに、あの八月十五日の記憶のない世代、まだ生まれていなかった人びとが、もう三分の二以上にふえているのである。かれらだって戦争についてのイメージや知識をもつことはできる。しかしすっかり“歴史を知らない国民”となったいま、その正確なイメージや知識をえたいとする切実感が、きわめてうすくなっていても、それは当然というほかはない。


 しかし事実は、戦後は容易には「センゴ」となってはくれない。毎年八月になると、わたくしたちはヒロシマとナガサキを思いだし、戦争のことを語る。八・一五を平和への意志をあらたにする日、と受けとめている。


 それには、大岡昇平氏が『証言その時々』(筑摩書房)のなかでいうように、二つの理由があるからであろう。

一つは戦争で受けた傷が、国民の中で生き続けているから」という。太平洋の島々にある遺骨はまだ収集されていないし、原爆被害者も戦死者遺族の補償もいい加減のもので終わっている。そればかりではない。たとえば虐殺、侵略、残留孤児、指紋押捺、強制連行などなどと、戦後の日本人がおわねばならぬ負の遺産がつぎつぎに周囲から噴きあげて、センゴとして葬り去ることを許さない。


 第二の理由として、「世界のどこかで戦争が行われているということ」を大岡氏はあげている。このことも戦後史年表を一瞥すればただちに(うべな)うことができる。


 歴史探偵としてのわたくしはといえば、いつも八月十五日には戦争と平和について考えている。とくに一九九〇年の八月は、改めて初心にかえってそのことを考えた。


 そのきっかけはきわめて私的なことになるが、元大本営陸軍参謀(のち関東軍参謀)瀬島龍三氏に会い四十五年前の関東軍の終戦についていろいろと話を聞いた。そのことに発するのである(その内容は『文藝春秋』平成二年九月号に掲載されているから、ここでは略す)


 瀬島氏に、こうでないかああでもないかと質しながら、わたくしがあらためて痛感していたのは、第二次大戦末期の非情な米ソの世界戦略の狭間にあって“降伏することの難しさ”についてであった。それはとりも直さず、当時の日本の政軍指導層の国際法にたいする無知、についてでもある。


 その一つは、昭和二十年八月十四日午後十一時(日本時間)に日本政府が発したポツダム宣言受諾の通告である。通告といっても、連合国にとっては、日本の降伏の意思表示にすぎなかったということ。国際法上の正式の「降伏」を完成するには、降伏条件の正式調印をまたなければならなかったのである。それを日本の指導層はきちんとわきまえていなかった。


 満洲に侵入したソ連軍参謀長アントノフ中将は、八月十六日の布告のなかで、堂々と言明している。天皇が十四日に行った通告は「単に日本降伏に関する一般的なステートメント」にすぎず、日本軍の降伏が正式に実行されていない以上は「極東におけるソ連軍の攻撃態勢はいぜん継続しなければならない」と。


 そして第二の錯覚は、アメリカが連合軍の代表であり、連合軍最高司令官はマッカーサー元帥であると信じこんだことであった。しかも事実、米国はそう日本に通告したし、トルーマン回顧録によっても、連合軍最高司令官にはマ元帥が任命され、大統領命令によって、米英中ソ四カ国を代表し連合軍の最高指揮権をマ元帥が行使することが認められた、と明らかにされている。そして、当のマッカーサーも、八月十六日朝には命令第一号を日本政府と大本営に発した。

連合国の降伏条件を受諾せるにより、連合軍最高司令官は、ここに日本軍による戦闘の即時停止を命ず」と。


 大本営はこれをうけて、同日午後四時、陸海軍全部隊にたいして「即時戦闘行動を停止すべし」の大元帥命令を発した。関東軍も、この統帥命令をうけ、翌十七日朝に()()の全部隊に即時停戦命令を発したのである。


 この関東軍命令を、ソ連軍無線偵察隊が傍受していることを、バイカル方面軍司令官マリノフスキー元帥の著書『終末』は誇らしげに明記している。にもかかわらず、ソ連軍は侵攻をとめなかった。


 なぜ、この無法が許されたのか。理由は実に簡単であった。八月十五日以後に日本政府と軍部とがしばしば使った「降伏」という言葉は、すべて、降伏文書調印(九月二日)以後を示していたからである。したがって、マ元帥が最高指揮権をもつのもそれ以後のことであった。もっと明確にいえば、トルーマン大統領命令がでたときは、ソ連とのあいだでは、わずかに管理占領の最高司令官にマ元帥が任命される、そのことについての了解だけがあったにとどまるのである。


 降伏文書受けとりのためマニラに飛んだ日本代表は、八月二十日、最後の会合で、降伏すべき相手国の件で連合軍参謀長サザランド中将に尋ねた。

降伏実施にたいしてソ連軍と日本軍の間に、何事かトラブルが起きるような場合には、連合軍最高司令官として、必要な指示をされるか」


 サザランドは答えた。

それに関してはわが方になんらの権限はない」


 それならば、米国政府やマッカーサーが、日本政府にたいして行った、米英中ソ四カ国連合国を代表する声明とか、四カ国の名においての停戦命令は、権限をこえた違法の行為でしかない。アメリカにとって、その時点での最大の関心事は、ポツダムできめた占領区域わけの協定をソ連がどれだけ守るか、にあったと思われる。


 またソ連はソ連であせっていた。この最終段階にきてのアメリカ案の占領区域わけの基準は、それぞれの連合国の現在位置(降伏調印時)が第一におかれていたからである。そこでソ連軍は、達すべき目標と地点を「関東軍の破砕、全満洲、北朝鮮、南樺太、千島の解放」とし、それを降伏文書の正式調印までに完遂しなければならないと、猛進につぐ猛進をつづけた。


 ソ連にとって幸いであったことは、日本軍部の無知蒙昧が、大本営命令として、日ソ停戦交渉は関東軍がよろしくやれと、「局地交渉」にしてしまったことである。そして日本政府と大本営は、まだソ連軍にたいしてなんの指揮権をもたないマッカーサーとの交渉にひたすら全力をあげた。ソ連軍にとってこれほどの好機はなかったことであろう。


 調べてみればみるほどに、国際的な政治力学というものは酷薄であり、非情のものであったことがわかる。満洲事変いらい長くアジアの孤児でありつづけた日本に、それだけの国際感覚をもてというのは、あるいは無理な註文というものであったろうか。


 八月十九日、シベリアの一寒村ジャリコーヴォのソ連軍戦闘司令所で行われた関東軍の停戦交渉(協定ではない)の内情を語るとき、“戦後日本の参謀”とも噂される瀬島氏も、さすがに口が重くなった。当然のこととわたくしは同情を覚えながら聞いたことである。


 第一極東方面司令官であったメレツコフ元帥は当時の感想を記している。

関東軍総司令官は停戦を交渉したいといってきたが、降伏した日本の軍隊である関東軍が行わねばならないのは、戦闘の停止と降伏であり、ソ連軍に交渉を求める立場にはないはずである」

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