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歴史探偵 昭和史をゆく
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第十五話 英雄総退場──主役たちの死にざま

『歴史探偵 昭和史をゆく』
[著]半藤一利 [発行]PHP研究所


読了目安時間:35分
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1、ルーズベルト



 一九七六年(昭和五十一)九月九日、毛沢東主席が死んだ。その日、ふと妙なことを考えた。もし彼が死ななかったら、いや、そうではなく、彼がもしこの世に生をうけなかったら……。いや、歴史にifが許されない以上、あまりに愚劣な設問であったか。


 しかし、毛沢東ばかりではない、もしナチス・ドイツのヒトラーがこの世にいなかったら……四千万人の死者を出した第二次大戦は起らなかったであろう。もしチャーチル英首相がいなかったら……イギリス史上最も偉大な戦時宰相として本土上空決戦を戦い、ナチスを撃退した英国の栄光なんか、もしかしたらありえなかった。そんなことがしきりに思えてならなかった。


 アメリカの著名なジャーナリスト、ジョン・ガンサーは、

その世紀の偉大さは、その時代に住んでいた人間によって測ることができる」


 と書いている。たしかに、第二次大戦中および戦後の世界は、この人たちが存在していなかったら、よっぽど違ったものとなっていたろう。現代世界はそう思われる少数の特異な人たちによって導かれてきたのである。


 そして、毛沢東の死を最後に、この人たちはすべて地球上から姿を消した。あるものは、のちのちの語り草になるほどの、惨めな最期をとげている。あるものは栄光に包まれたままあの世へ行くめぐり合せになった。運命の皮肉、まことに底深いものがある。


 毛沢東の死をきっかけに、歴史探偵としては、英雄たちの「死」をとおして、われわれの生きてきた現代史を眺めてみる気になった。以下はドキュメンタリーに叙したその調査報告である。


 一九四五年(昭和二十)四月、第二次世界大戦の連合軍の勝利は明白になった。東西両方面から連合軍は、無人の野を行くようにヨーロッパの野を疾駆し、ナチス・ドイツの首都ベルリンが最後の戦場になろうとしていた。太平洋戦線では、沖縄で、圧倒的な米軍の火力の前に、特攻攻撃によって日本軍がわずかな、そしてはかない抵抗を示すだけとなっていた。


 そのいっぽうで、このころから米英両国とソ連の「蜜月」の時代が終ろうとしていたのである。ルーマニアやポーランドで、ソ連首相スターリンは衛星国化への強硬手段をとりだした。英国首相チャーチルの抗議も、米大統領ルーズベルトの忠告も馬耳東風とききながして、スターリンはてんとして恥じることもなかった。


 戦後世界が早くも幕を開けようとしていた。


 戦争中の連合軍の大指導者であり、勝利への推進者であったルーズベルトが、最後の勝利の日を待たず急逝したのは、国際情勢がこうして微妙に変化しようとしているときであった。数十日前から、六十三歳の大統領の健康状態が悪化しているのは、その青ざめた表情から察せられていた。だが、三カ月前に大統領四選の栄を得たルーズベルトが、それほどまでに早く世を去ると予想しているものは誰もいなかった。


 四月十二日のことである。ジョージア州ウォームスプリングにある別邸で保養していた大統領は、この日比較的気分もよく、チャーチルに親電を打ち、スターリンの横暴を歎いたばかりであった。

われわれはしっかりした態度をとらなければなりません。われわれは正しいのですから」


 正午すぎ、秘書のヘンシーが、ようやくサインを貰った書類をもって書斎を出ようとしたとき、大統領は暖炉の前で、女流画家エリザベス・ショウマトフに肖像を画かせながら、静かに、坐っていたが、突然、こめかみをおさえて椅子に沈みこんだのである。

ひどく頭が痛い」


 これが最後の言葉になった。


 黒人の使用人プレティマンがかけよって抱きかかえ、ベッドに運んだが、もはや意識はないようであった。医師がかけつけたが処置のしようもなく、午後三時三十五分、そのまま不帰の客となった。脳内出血である。


 大統領急死の報は、たちまちに全世界に伝えられた。ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団は、カーネギー・ホールでの演奏会をただちに中止。百年にも及ぶ長い歴史の中で、演奏会中止はリンカーン暗殺いらいのことである。ローマ法王ピオ十二世は、悲しみのうちに特別の祈りを捧げた。重慶にあった中華民国の蔣介石総統は、驚愕と悲嘆で、食事もとらず深い沈黙をもって一日を終えた。


 モスクワに報らせが届いたのは、十三日午前二時のことである。ソ連邦のモロトフ外相はただちにアメリカ大使館に出かけて行き、スミス大使を驚かせた。大使が驚いたのは、外相のむき出しにした深い悲しみようであった。


 スターリン首相も心の底から悲しみに沈んだ。政治局員に反対するもののあることを承知の上で、モスクワそのほかの都市に、弔旗をかかげるように命令を下した。大統領の死によって、この後の米ソの関係が悪化するかもしれないという予感が、はたして彼にあったのであろうか。


 原爆を作っていた米国中西部のロス・アラモスでは、ラジオが大統領の死を報じたとき、はじめて仕事が中断された。短い哀悼の式典が広場で行われ、オッペンハイマー博士は、所員を前に五分間ほど偉大な大統領の死にともなう損失について話した。しかし原爆製造の計画になんら変更のないことを確信した。それが世界の指導者アメリカのなさねばならぬ使命であると思った。


 爆弾の形もすでに二種類ときめられ、それぞれに暗号名がつけられている。「やせっぽち」と「デブ公」である。それぞれルーズベルトとチャーチルを想定してつけられたものであった。


 その「デブ公」の英国首相が、盟友の死を知らされたのは十三日午前三時である。護衛のトンプソン警部が電話でよばれ、かけつけた首相の部屋で見たものは、寝間着のまま、熊のように行き来するチャーチルの姿だった。

恐ろしいニュースを聞いた。君とわしの友人の大統領が亡くなった」


 長い時間、チャーチルは歩きまわりつつ語りに語った。

大統領は勝利の前夜に死んだが、勝利の翼は見た。その翼の羽音も聞いたはずだ」


 そして首相は鏡台の引き出しを開けた。警部はそこにハンカチが入れてあることを知っていた。

もし彼がいなかったら……われわれは、イギリスは戦争に敗けたに違いない」


 チャーチルは声をあげて泣きだした。


 数日後、亡き大統領の告別式が全世界で行われた。ドイツ占領軍の手から奪いかえしたパリでは、ノートルダム大寺院でミサが行われ、ドゴール将軍の頭を深く垂れている姿が印象的であった。


 ベルリンでは──ルーズベルトの死の報をゲッベルス宣伝相が狂喜して受けとっていた。

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