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歴史探偵 昭和史をゆく
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第十六話 皇居前の行列──天皇の御発病

『歴史探偵 昭和史をゆく』
[著]半藤一利 [発行]PHP研究所


読了目安時間:44分
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1、天皇その人による「天皇論」



 一九八八年九月十九日の夜半、「天皇の病状急変」が伝えられてからほぼ二カ月、日本列島は異様な雰囲気に包みこまれた。


 折から東京は雨つづきで、傘をさして行列をする記帳の人びとの、沈痛な心情がことさらにきわだった。テレビがその情景をたえ間なく映しだし、それが連鎖反応をよび、皇居前は毎日ただならぬ人波で埋まった。土下座する人、涙にむせぶ人、手を合わせて拝む人。昭和二十年夏、終戦の天皇放送を聞き、恐懼して二重橋前に座して割腹自殺をとげた人びとのイメージが重なりあって、昭和ヒトケタのわたくしは、胸の奥底にしびれるような緊張をおぼえないわけにはいかなかった。


 明らかに、天皇重態の二カ月間において、日本人はそれぞれの「昭和」という尺度で、自分の過去、未来を意識しないわけにはいかなかった。自分にとって、天皇とは何か。昭和とは、戦後とは何であったのか。そしてこれからの日本は……。


 とくに戦後の日本は、日本文化史上になかったような新しいもの、本来は異質と思われるものまでが、過去との十全な対決なしにつぎつぎに摂取されてきた。新たなるものの導入は数かぎりなく、それも疾風迅雷であった。過去は過去として現在と無縁に傍に押しやられ、あるいは日常の底に沈降して忘却されていった。しかし、それは時として突然に「思い出」として噴出してくる。古い日本が対決をせまる。二重橋前で土下座する日本人のあり様がその一つであった。それが、歴史というものの魔力なのであろう。日頃忘れていたものが、時代の終焉とともに忽然と蘇ってくる。


 実に大雑把にいってしまえば、戦前戦後を問わず昭和史とは、堀田善衛氏が「日本の知識人」のなかで提示したつぎの設問につきる。

アジア・ナショナリズムの先駆者あるいは同志であるためには、西欧帝国主義の追随者となって独立を守る以外にどういう道が、(日本には)十九世紀から二十世紀にかけての弱肉強食時代にありえたか、あるか?」


 このために近代日本は、中国大陸と不可分に結びついたのであった。日清・日露の二つの戦争を通して、台湾・朝鮮・南樺太・南満洲権益と次第に膨張していったが、それは独立・富国の資源であり、民族の生存の基礎であり、文化はその上に繁栄した。この大いなる明治を受けついで大正・昭和もまた同じ道を突っ走ったのである。しかし昭和には、明治との大きな差異があった。満洲事変前後から対中国戦争の全期間をふり返ってみれば、すぐにわかることであるが、責任ある政治主体がみえなくなってしまっていた。よくいわれる戦前の「無責任体制」とは、政治における、軍事における、また政軍関係における、統制力の喪失を意味している。


 そして、この統制力喪失の体制の上に、お神輿として天皇陛下がのっていた、ということになっているのである。この言い方は正確なのか。(あら)(ひと)(がみ)として奉られた天皇は、単にかつがれていただけなのであろうか。


 いうまでもないことであるが、戦前の日本における政治軍事の大前提は、天皇の大権(大元帥としての統帥大権も含めて)である。それあるからこそ、政治勢力がいかに変ろうと、軍の要求がいかに強圧的なものであろうと、一九三〇年代に日本は純ファシスト国家になることをまぬがれえたのである。また一九四五年には国家が完全滅亡せぬうちに、降伏の決定に到達することもできたのである。


 もちろん、天皇はその大権をほしいままに行使した独裁者ではなかった。といって、ロボットのような無性格な存在でも、決してなかった。なぜなら、天皇の真の意図や気持にかかわりなく、大権を保持するがゆえに、その“名”は至高のものであったからである。そしてまた、それゆえに、戦時中の指導者は、大小の差や善意の有無と無関係に、「天皇陛下」の名を口にするとき国民には威圧的な存在と化した、いや、化せた。さらにいえば、そのかれら自身も、その“名”のために呪縛されていたから、ヒトラーたりえなかった。


 それは大きな政治的なフィクションであったのかもしれない。人間としての実体なき天皇、憲法上の天皇大権を隠蔽したままの親政の強調、いわば天皇の抽象化であり、神聖化である。森鷗外が短篇「かのやうに」で象徴的に描きだしたように、天皇陛下を神であるかのように、昭和の日本人は信ずることを強要されたのである。そして信じもした。それはほんの昨日のことであった。


 いま、歴史探偵のわたくしは思うのである。天皇を神である「かのやうに」全国民に信ぜしめたのは、戦争を遂行し国民に犠牲を強いるための、強固で巧妙な形式の完成であったかもしれない。戦前の昭和史はその長い道程であった。ひるがえって、それは天皇自身にも大きな犠牲を強いるものではなかったか、と。“天皇の命によって”、そこに旧日本軍隊の生命があった。この生命なくしては日本軍は烏合の衆にすぎなかった。このこともまた天皇に大いなる苦痛を強いたのではないかと。すなわち天皇自身にとっての、「現人神とは何であったか」「天皇とは何であったか」が、ひどく気になってきたのである。

天皇の病気」ということで、わたくしはかつて一つの仮説をたてたことがある。『聖断──天皇と鈴木貫太郎』(文藝春秋)という本で、対米英戦争開始いらい病気で政務を休んだことのなかった天皇が、昭和二十年六月十四日午後に倒れ、十五日は一日病床にあった事実を指摘した。そして、この病気の一日に、徹底抗戦から和平へと、天皇自身の決意が大きく変った、と書いたのである。天皇に取材できぬ以上、あくまで仮説である。


 これより前の六月八日、御前会議で「あくまで戦争を完遂し、もって国体を護持し……」という国策が決定される。統帥部はその大元帥命令のもとに、本土決戦“最後の一兵まで”の作戦計画を推進する。しかし、病床から起き上ってきた天皇の決意は、いまや本土決戦ではなく「戦争を終結せしめる」方向に固まっていた。そこで六月二十二日、正式の御前会議ではなく、天皇は親しく懇談という形で、最高戦争指導会議(首相、陸相、海相、外相、参謀総長、軍令部総長)を召集し、「戦争終結について速やかに具体的方策を考究せよ」と命じるのである。日本政府はこの日から和平模索へ向って突き進むことになる。


 くり返すが、仮説でしかない。しかし何冊か残されている開戦いらいの侍従武官たちの日記によってみても、戦端をきってこのかた風邪などひくことはあっても、倒れたことのない恪勤精励の天皇が、たとえ一日であっても戦争の最末期に病床についたという事実には、やはりある種の重量感があり、注目しないわけにはいかないものがあった。


 六月十五日「聖上昨日から御不例に渡らせらる」と海軍の侍従武官日記にあり、陸軍の侍従武官も「聖上昨日よりご気分悪く数回下痢遊ばされ、今日は朝よりご休養なり」と記している一行を発見したとき、ここでは略したがその直前の具体的な諸報告から、おかれた実情を知り、もはや戦争の絶望を知った天皇が、苦悩に苦悩を重ねたうえでいかに最後の決意を固めたことか、が推察された。そして転機はまさしく「天皇の病気」のこの日にある、と思ったのである。


 この事実を記したうえで、わたくしは『聖断』でこう書いた。

このときほど天皇のリーダーシップの不思議をみせた瞬間はない。大元帥としての統帥大権による徹底抗戦の国家決定を、天皇としての国務大権によって和平へと覆そうというのである。形式をいかに糊塗しようが、天皇が大元帥を否定することになろう。


 立憲君主制の守護神ともいえる西園寺公望が、生前に秘書の原田熊雄に語ったという言葉が、重い意味をもって想起されるのである。

陛下は天皇であると同時に大元帥である。よく大元帥=天皇というように考えているようだけれども、大元帥は天皇の有せられる一つの職分であって、大元帥=天皇などということはないのである』


 天皇と大元帥との間にはそのような関係があったのか」


 戦前の日本人はほとんどだれもが、天皇イコール大元帥と考えていた。しかし今日では、国政大権をもつ天皇と統帥大権をもつ大元帥と、昭和の天皇は二つの職分をもつことになったことが、明らかにされている(ちなみに宣戦および講和は、天皇の国務大権である)

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