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歴史探偵 昭和史をゆく
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文庫化によせて

『歴史探偵 昭和史をゆく』
[著]半藤一利 [発行]PHP研究所


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 今年の日本の“夏”は、平和を願う多くの行事とともに過ぎていった。いつもの年でもそうであるが、八月六日から十五日までの十日間は、わたくしのような“古い”日本人には、回顧さるべき実感が継続している。広島・長崎への原爆投下、ソ連軍の満洲侵攻と、数えきれぬ死者のあとの、敗北感、虚脱感、信念の喪失、価値の激変が、あの暑い晴れた日の空腹感とともに、わたくしたちの心によみがえる。今年は戦後五十年という節目にも当り、とくにそうであった。それは日本人が正気をとり戻す秋なのかもしれないと思う。


 しかし、すべてが過ぎてしまうと、また平凡な日々がはじまる……。平凡というより何やらシラケきった、張りのない生活、というべきか。なべてコトもなき泰平爛熟期、ちょっと働けば食うにこと欠かない。と同時に、個人は歯車の一つとしてしっかり組みこまれて、身動きならぬほど完整した社会体制。こうなれば自分を守ることにしか関心がもてなくなる。あるのはすこぶる個人的な、ちょっぴり不満で、ちょっぴり苦痛な状況……。


 識者はそうした現代日本像(または日本人論)をさまざまに分析している。


 木村尚三郎氏(東大名誉教授)は世阿弥の『風姿花伝』のなかの「()(どき)()(どき)」という言葉を使って、現代は女時の時代であるという。「優美で保守的な女の感情が支配し、気持は世界から国家、仕事、家族へ、そして最終的には自己自身の肉体へ、内へ内へ」と向かっている時代で、「情感によって結び合う生き方」が中心で、「原理・原則に捉われず、具体的現実のなかにあって、あくまできめ細かく、肌になじむ、温か味のある生き方を求めるディテイル(部分)人間」中心の時代である、と説いている。


 小田晋氏(筑波大教授)は、アメリカの歴史家C・ラッシュ『ナルシシズムの時代』を援用しつつ、日本の若ものもまた「自惚れ鏡の人間」になっていると指摘している。つまり自己陶酔的な傾向はますます強まり、いまは、組織への忠誠よりも個人生活のほうが重要と考える人間か、立身出世を望むにせよ多くのために自己犠牲的に働く人間はなくなり「常に賞讃の言葉をかけて注目してやらないと、ドロップ・アウトしてしまう」人間か、この二つのタイプにこれからの若ものは二極分解していく。


 すべて幼いときから抑制されることのない過保護と躾の欠如に因があり、こういう人びとは自己の重要性についての誇大観念(他人もそれを認めるべきだと思いこみ)と、自分の無限の力と成功について幻想をもちつづける、と小田氏は慨嘆的にいうのである。


 同じようなことを「母子家庭国家」としてみる心理学者もいる。竹内靖雄氏(成蹊大教授)で、氏は「政府が母親で国民が子供、という構造の国家」と観じ、日本の江戸時代がまさにそれで、昭和二十年までの近代日本はそれを無理に男性型国家に性転換しようとしたところに間違いがあった、とする。そして本来の母子家庭国家の生き方に戻ることができたところに、戦後日本の成功があった、と現状をむしろ肯定的に論ずるのである。


 こうした識者の観察をあわせてみれば、日本の若ものは陶酔的な、自己中心のディテイル人間で、しかも母子家庭的な民主主義国家の子供たち、ということになる。そんなふうにいまの日本人は、あに若ものばかりではなく全体に、自分の身に関係したことにしか関心をもたず、できるだけ少なく支払ってできるだけ多くを要求しようとする「甘えの構造」的ななかにすっぽり入ってしまっている。母親は母親で、子供の機嫌をそこねてはいけないし、子供の支持を失わないためには、多くのサービスを与えてご機嫌をとらねばならない。政治家も民衆ももちつもたれつ。これでは改革もへちまもあったものではあるまい。


 ところが、それがすべてとすましてはおけない。もう一つ問題にしなければならないことがある。日本国内的にみれば“ひよわな個人”的な日本人であるが、これを外の世界からみれば、まったく別種の強い日本人たちと映っていることである。たとえば戦争中に武力でアジア諸地域を侵略していった日本人の心理と、戦後たちまち経済力で同じ諸地域へ進出している日本人(旅行者を含めてもよい)の心理と、深いところでいくばくの差がありや、と外の人はみているのである。いぜんとして集団主義の日本人! 欧米諸国民にとっても恐らく同様に映っていよう。日本人は相変らず巨大なマスとなって外へ押し寄せていると、そこに何らかの衝突があれば……。


 心理学者は、自尊心など所詮は幻想にすぎない、という。そして自尊の幻想が崩され、おのれの無力さや卑小さがさらけだされると怒りが生じる、ともいう。自己の重要性について誇大観念をもち、自分の無限の力と成功について幻想をもつ現代日本人が、いくら優美で肌になじむ感情を好むとはいえ、怒りそのものを失ったとは思えない。げんに、ごくごく個人的なことで狂暴性を発揮する若ものの例は、しかもほとんど理解を超える事件の例は、新聞面を毎日のように賑やかにしている。


 もし、この個人的なヒステリー的な怒りが集団としてまとまったら……自立していない破片のような一人ひとりが、それこそ山本五十六のいう「衆愚の」集団主義で一つにならないという保証は将来ともにない。朝夕の駅や街頭や車中で、巨大な群集がうごめいているのを毎日のように実見する。日本人は無意識であろうと群集訓練を日常的に行なっている。バラバラではあるが、“群集”は決して消え去っていない、という気がしてくる。いまもし戦前のような、政治性をもった軍部が存在していたら、「腐敗一掃」をとなえる軍事クーデタの危険のあるところであろう。


 ずいぶん前に、群集の動きを研究している人から、面白い話を聞いたことがある。


 その人によれば、物理的に、群集の混雑の度合を密度(人/平方メートル)であらわすという。一平方メートル六人はちょうどエレベーターの定員の標準(十二人用なら面積は二平方メートルということになる)。この六人定員が八人になっても新聞が読めるし、落し物も探せる。十人になると四囲から体圧が加わる。手のあげさげもままならなくなる。十二人では悲鳴があがる。十四人になると災害の一歩手前ということになるそうな。


 そして、この物理的な群集論は、実はそのまま群集心理へと使えるのである。事実、ヒトラーの『マイン・カンプ』はその手法を手品のように明かしている。群集密度が高まると理性が弱くなり、感情が昻ぶってくる。疲労や空腹がそれに加わると傾向はいっそう強まる。ヒトラーはそこをねらった。演説は夕方をえらぶ。そして親衛隊により前後から聴衆を圧迫し、群集密度を高めた。そこに火のような感動的な名セリフを叩きこんでいった。


 ヒトラーは、明らかに人間は加工されやすい憐れな動物であることを見抜いていたのである。物理的に、そして心理的に圧力をかけて群集密度をあげていくことに成功した。恐らくかれのような天才的アジテイターがいまの日本にいれば、訓練のない幼児のような一人ひとりの人間を群集化することなど、お茶の子さいさいであろう、と思うのである。


 歴史に学べば容易にわかることであるが、国家の避けがたい老朽化の前兆は、常に、民族の精神の支柱となっていた理想の衰微ということである。われわれはその例を山ほどみている。理想が光を失うにつれて、活気づけられていた政治的、社会的、文化的なあらゆる基盤がゆるぎはじめるのである。そして理想が消滅するにしたがって、民族は団結と統一とエネルギーの源泉となっていたものをどんどん失っていく。バラバラになっていく。民族としての集団的な利己心は、極度に発達した個人的な利己心にとってかわられ、気力の衰退と行動能力の低下とがそれにともなってくる。あとに何ものか得体の知れないものにすがる気持、信ずる気持が支配的になっていく。


 大国はこうやって滅亡へ突き進んでいった。それが歴史の教訓というものである。つまり国家はもはや孤立した個人の集合にすぎなくなってしまう。辛うじて伝統や習俗によって、人為的になおしばらくは集合して結びついているが、やがてそれぞれの利害関係や幻想によって、分裂しはじめる。そして滅亡へ──。


 現代の日本の状況はまさにそれ、と悲壮がるわけではない。でも、なにやら似ているところがあるように思えないでもない。


 そして、より危険なのは、そこまでになると、かえって人びとはごく些少な行動までも指導されることを求めはじめる、ということ。人びとは、「群集の知的作用は個人のそれよりも劣るかもしれないが、その道徳的・建設的態度は個人の水準をはるかにしのぐ」といった悪魔的なささやきに耳をかたむけていく……。


 今年の夏、書物を読みながら、わたくしは以上のようなことを考え、へっぽこ歴史探偵ならぬ思慮深い哲学者になったような、はなはだいい気分になった。「こんなに長くて、そのくせ本文と関係の薄い後記はありませんね」とニコニコしながらも、担当の編集者の出浦順子さんがあきれていたが、三拝九拝して「あとがき」の代りにしてもらうことにした。


一九九五年十月

半藤一利 

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