『熱き心 寛斎の熱血語10カ条』
[著]山本寛斎
[発行]PHP研究所
極意❶
外見こそが最も重要な自己表現だ!
オシャレは自己表現でいちばん大切なこと。
外見こそが最も大事な自己表現。
何歳になったから何を着るなんて、
誰が決めたのか?
カッコいいことはすべて問答無用である。
「我、何者なり」をアピールするのが、ファッション
七歳の時、両親が離婚した。行き場をなくした私は、まだ五歳と三歳だった幼い弟二人の手を引いて、当時住んでいた横浜から鈍行列車に乗り込んだ。父方の親戚を頼って高知県まで行くことにしたのである。
小学校にあがったばかりの私には、とてつもなく長い旅だった。あの時、列車の窓から見た夕暮れの風景は今でも忘れられない。あたりがだんだん暗闇に包まれる中、ぽつんぽつんと遠くに見える人家の灯……。たまらなく心細く、もの悲しかった。
その頃の私は、ただ内気で泣き虫で、か弱い少年だった。
その後、転校を繰り返し、相変わらず内気だった私が生まれて初めて自分を表現できたのは、“着る”ことによってだった。
岐阜で過ごした小学生後半から中学時代のことである。当時、貧しかった私は、同級生たちがウールの学生服を着ている中で、一人だけ安っぽい綿の学生服を着ていた。綿は着ているうちにだんだん黒からグレーへと色褪せし、しまいには中途半端に白っぽくなってしまう。それがなんともカッコ悪くて恥ずかしかった。
そこで、ある時、黒の詰め襟に真っ白のトレパンをコーディネイトしてみたのだ。ちょうど校庭で新年の式典が行われる日だった。生徒全員が整列する中で、一人だけみんなと違う服装をした私は、ひとり合点ではあるものの、たぶん、カッコよく目立っていた。
小さなチャレンジである。だが、それが私の自己表現の出発点だった。
以来、私にとってファッションが、言葉と同じように自分の考えや思いを表わし、自分を伝える大切な手段となった。
私の着ているものは、ときに“奇抜”“ド派手”“度ギモを抜く”などの形容詞がつく。日本では、それらは「理解不能」といったマイナスイメージを意味することが多い。けれど、目立つからこそ主張する力が強い。
たとえば、私とごく普通のビジネススーツ姿の男が二人で一緒にニューヨークの空港に降り立ったとしよう。周囲の空気をざわめかせ、興味と視線を集めるのは、たぶん私のほうだろう。実際に話してみれば彼のほうがパワフルで面白い人間だったとしても、それはなかなか最初から伝わらない。言葉の通じない異国の地で初対面の人間をグッと引き寄せるパワーを持つのは、やはり見た目で主張する私のほうなのだ。
二十五歳で、生まれて初めて海外へ出た。一九六九年、ビートルズが世界的に人気を集め、ヒッピー文化が真っ盛りの頃である。
当時の私のファッションは、アフロヘアに上下蛇革の服と靴というスタイル。そのかっこうで、ロンドンやニューヨークの街を歩いていたら、左右に居並ぶブティックから店員が飛び出してきて「ファンタスティック!」「ビューティフル!」と声をかけてくれたものだ。
また、当時は英語もたいしてできなかった私だが、「へえ、その服、カッコいいじゃん」「どこで買ったの?」に始まり「これは僕が作ったんだよ」「スゴイな。こっちへ来て座らない? 一緒に話そうよ」などと見知らぬ人との会話も弾んだ。
ファッションがコミュニケーションを生んだのだ。
そもそも、コミュニケーションとは、まず自分の考えを表明しなければ始まらない。その考えに対して、相手が「分かった。同感だ」「私ならこう思う」などと返してお互いの意見を交換する。その最初の一歩の「自分の考え」の表明、それが見た目、つまりファッションなのだ。
日本人は「以心伝心」という文化を持っている。言わなくても分かるだろう。余計なことを言わず黙っていることこそ美徳……。けれど、地球を舞台にしたら「以心伝心」は通用しない。
まず自分を表現しなければ。「自分はここにいる!」と声を上げなければ。“ボロは着てても心は錦”は時代遅れ。心は見た目で表現しなければ伝わらない。
ファッションに関しては、「無難が一番」「目立たないのが一番」という考え方の人もいるかもしれない。だが、ちょっと冒険してみて欲しい。人に「おっ! 今日は違うね」と言わせるようなアピールをしてみて欲しい。
それはただ単に「目立ちたい」ということではない。人間とは理屈抜きに、「表現したい」動物なのではないだろうか。自分というものを分かって欲しい、認めて欲しい。自己表現こそが、人間としての一番の喜びなのだ。
だから私は「着る」ことが好きだ。着ることの楽しさ、嬉しさ、ワクワクドキドキをもっとみなさんにも味わっていただきたいと思っている。
他人と同じものを着るのは、
誰かの意見に「私も同じ」と言っているようなもの。
「ファッションで自己表現しろ」というと、あわててファッション誌を眺めて研究する人もいるかもしれない。モデルが着ている服を上から下までそのまま買って着れば、それなりにオシャレには見えるだろう。
けれど、誰かの真似をした段階で、それはもう自己表現とはいえない。人と同じものを着るということは、たとえば、会議で誰かが発言し、次に自分の番になった時「今の○○さんの意見と同じです」と言うのと同じ。